辞と実感
text 大辻隆弘
「短歌往来」8月号は菱川善夫の特集である。そのなかの吉川宏志の評論「『実感』と『思想』」に注目した。
このなかで吉川は、菱川の有名な「辞の断絶」というキーワードを、「実感」という問題と絡めて再解釈している。その解釈が説得力に富んでいる。
一般的に「辞の断絶」は、短歌特有の「てにをは」(助辞)を排し、一首のなかで上句と下句のイメージの衝突を可能にする理念として理解されている。その理念は、上句のイメージと下句のイメージを意識的に分断し、両者のぶつかり合いのなかから非現実の美的世界を構築しようとするものだ、と理解され、前衛短歌を基礎づける重要な理論となった。
吉川は、そのような平俗化した理解でもって「辞の断絶」を捉えない。彼はここで、「辞の断絶」というキーワードが初めて登場した菱川の「実感的前衛短歌論」(昭41)を再読し、その上で、菱川はむしろ「辞」のなかにこそ「なまみの人間の嘆声」や「実感」を読み取っていたのだ、ということを論証しようとする。たとえば、菱川が「辞の断絶」の例として挙げたのは、塚本邦雄の次のような歌である(傍線は大辻)。
心に酢満つるゆふべの祝福とわかものが肉充ちし緋のシャツ 『緑色研究』
確かに、この「と」という助辞は、並列を表す助辞とも、「として」という意味を表した助辞とも決めがたい。その意味ではあいまいな助辞である。が、吉川によれば、菱川はこのような「と」がもたらす上句から下句の間のわずかな逡巡のなかに、作者塚本邦雄の「なまみ」の身体感覚を読み取っていた、という。
吉川は次のように言う。
「と」における「わずかなリズムの逡巡」を指摘した菱川の音感はじつに鋭い。短歌を読むとき、読者は作者の息遣いに身体を合わせている。(略)そのとき読者は、塚本独自のリズム感をいつのまにか身体的に再体験することになる。歌の「なまなましさ」はここに生まれてくるのだ。
ここで吉川は、菱川の論のなかに助辞に対する繊細な感受性があったことを指摘している。菱川のいう「辞の断絶」は、「てにをは」を短歌から排除する、といった単純なものではない。むしろ菱川は、この歌の「と」のような曖昧な助辞のなかに、作者の「なまみ」の肉体感覚を感じとり、それを追体験している。菱川は辞に対するそのような繊細な感覚の持ち主であり、「辞の断絶」はそのような繊細な感覚に裏づけられた理念なのだ‥‥。吉川は、この文章のなかでそのことを論証しようとしている、といってよい。
この吉川の指摘は、私には、実に新鮮であった。私見をいえば、菱川善夫は状況論に引きずられた荒い歌の読みをする評論家である、という偏見を持っていた。そういう私にとって、菱川の繊細な感受性を指摘したこの吉川の論は、蒙を啓いてくれるものだったのである。
思うに、このような吉川の菱川解釈の背後には、吉川宏志自身の問題意識の反映があるに違いない。
吉川は、常に歌における「実感」の内実を考え続けてきた歌人である。彼はその「実感」というものを「てざわり」とか「リアル」とかいった用語で理論化しようとしてきた。が、正直に言って、吉川のそのような努力は、第三者の目からすると成功しているとは思えなかった。吉川が考える「実感」というものが、短歌の表現自体からどのように導き出されくるのか、そのプロセスが、読者にはやや見えにくかったのだ。
が、今回の吉川のこの文章は、その「実感」をかなり明確に論理化している。作者の身体的な感覚や息遣いが助辞のなかに凝縮されている。読者は、助辞を読むことで、そこに凝縮されている作者の息遣いを、自分の肉体を通
して追体験する‥‥。吉川が、菱川理論のなかから析出したそのような作品と読者の関係は、彼が好んで使ってきた「手ざわり」や「リアルさ」といった用語よりは、はるかに明晰であろう。
個人によって異なる「手ざわり」「リアルさ」といった感覚的批評語をいくら振りかざしてみたところで、歌に対する議論は空転するだけだろう。歌の表現自体のなかから、どのようにして「実感」というものを抽出し、それをすべての人に理解可能なように理論化しうるか。総じて批評というものは、個人的感覚を、万人に理解可能な普遍的な理念にまで高めるための営為なのである。
この吉川の論は、彼の「実感論」の基礎論たりうるのではないか、と思った。
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