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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

塚本邦雄と春日井建の90年代
text 大辻隆弘

 先月、東と西で「前衛短歌」の90年代を見つめなおすシンポジウムが行われた。6月9日に東京で行われた神変忌の塚本邦雄シンポジウムと、6月24日に大阪で行われた「春日井建を語る」(現代歌人集会春の総会)である。どちらも、塚本邦雄・春日井建という「前衛四天王」のなかの2人を回顧するための好機となった。
 私たちの世代の歌人たちが短歌を始めたとき、短歌といえば前衛短歌であった。20年前は、前衛短歌は、心酔するにしろ、反発するにしろ、現代において短歌に関わるならどうしても1度通 過せざるをえない基本的な教養であったのだ。が、ここ10年、そのような「教養としての前衛短歌」の地位 は暴落していった感がある。若手中心の勉強会で『未青年』を紹介したが、若い歌人たちは全く食指を動かさなかった、という嘆きを同世代の歌人から仄聞したこともある。
 今回のふたつのシンポジウムは、前衛短歌の遺産が意識されなくなった現代の風潮のなかで、塚本と春日井を振り返ろうとするものである。時宜にかなった企画だったというべきだろう。しかも、どちらのシンポジウムも、それぞれの歌人の「後期」に焦点を当てている点で、その議論は興味ぶかいものだった。
 私自身は残念ながら神変忌には参加することができなかった。ここではもっぱら5月24日に行われた「春日井建を語る」についての感想を述べておきたいと思う。
 前半の講演において大塚寅彦は、春日井建の幼児体験が、彼の全歌歴をつらぬ く「自由であらねばならない」という彼の信念を形づくったのだ、と述べる。終戦時、7歳だった春日井は、戦争から帰ってきた父の変節を見てしまう。皇學館の教官であり、 従軍前は「勝つまで帰ってはこぬ」とうそぶいた父・春日井曠が、おめおめと嬉しそうに生きて帰還したのである。潔癖だった建はそこに「大人の社会のやりきれなさ」を感じ取る。その体験が、建をして「社会的発言にコミットしない姿勢」「自由であらねばならいという信念」を植えつけたのではないか‥‥。講演のなかで、大塚はそう指摘した。
 また、後半の鼎談では、黒瀬珂瀾が春日井建の歌壇復帰後の歌業を詳細に検証していたことが印象的だった。彼は「清浄」というキーワードで括られがちな歌壇復帰後に春日井建のなかに、過剰な自己劇化の姿勢を見てとっている。が、世評の低い『友の書』のなかには、そのような劇化から零れ出る形で、春日井建自身の生身の濃密な肉体性が出ている、という。
 全体として、『未青年』や最末期の歌集『井泉』『朝の水』のみが論じられがちな春日井建の全体像、とりわけ中期の作品に焦点が当てられた有意義なシンポジウムだったと思う。
 東京で行われた神変忌のシンポジウムでも、80年代以降の後期塚本邦雄の作品の評価について活発な議論がくりひろげられたと聞く。『緑色研究』『感幻楽』以後の塚本の評価はいまだ明確でないだけに、このシンポジウムで後期塚本邦雄がどう位 置づけられたのか、興味ぶかい。詳細は記録集の出版を待つしかないが、これまた有意義な検証であったことは疑いない。
 1980年代後半に出現したライトバース以後、現代短歌には口語が流入し、濃密な美意識を感じさせる「劇場型短歌」(内山晶太)の価値が相対的に低下していった。そのなかで塚本邦雄や春日井建は、語りにくい存在になっていったような気がする。その背後には、「美意識」というキーワードのみで春日井や塚本の業績を考えようとする、60年代的な硬直した歌人観があった。
 が、今回のふたつのシンポジウムであきらかになったのは、80年代後半以後、春日井建にしろ、塚本邦雄にしろ、「美意識」という語だけでは括れない様々な要素が作品のなかに混入してきているという事態であろう。ライトバース以後、口語を積極的に自分の短歌に導入し、「戦争」というものを自らの短歌の中心テーマに据えていった塚本邦雄。ライトバース以後の口語には徹底的に背を向けて、自己劇化を見事に完成させていった春日井建。「軽薄短小」がもてはやされた80年代後半以後の短歌状況に対する、この二人の対応はある意味、対照的であった。
 そのような時代への対応のなかで、この2人は何を成し遂げていったのか、あるいは、成し遂げることができなかったのか。その検証は、死後しばらくを置いた今こそ成されねばならない課題である。昨今、この20年間の短歌の変化の功罪を検証しなおそうとする発言が、多く出されてきている。そういう振り返りの時期だからこそ、「美意識」というキーワードを一端カッコに入れて、2人の後期作品群を読み直す必要があろう。
 ときあたかも、『山中智恵子全歌集』(砂子屋書房)が出版された。そのなか第2巻には、90年代の山中の全歌業が収められるはずである。それにより「巫女的」というキーワードだけでは括れない山中智恵子の90年代の歌業もより明確になってくるだろう。
 今はまさに90年代以降の「前衛短歌」の意味を考える好機なのかもしれない。

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