「見る」ことのおもしろさ
text 吉川宏志
6月20日に行われた現代歌人協会の公開講座は、高野公彦氏に作歌の秘密を語ってもらうというものだった(東直子さん・吉川がインタビューをし、穂村弘氏が司会をするという形式であった)。その中で、次のような話が特に興味深かった。
●はるかなるひとつぶの日を燭(しよく)としてぎんやんま空にうかび澄みたり
『淡青』
という歌は、銅版画風に作ってみた。実際よりも風景を暗く描くといいこともある。
●桃買ひて炎天の道かへる母涼しく白し月下のごとく 『汽水の光』
の「月下のごとく」も、実際よりも光を暗くして表現している。
遠近法を変えてみる(遠くのものを近く描くなど)も効果的である。
●喪の家の灯のみなもとにゐる死者の鼻梁を思ひ灯のほとり過ぐ 『渾円球』
は、家の中にあって見えないはずの死体を近くに引き寄せて歌っている。
(注:この記述は、大松達知氏のブログhttp://pinecones.cocolog-nifty.com/blog/を参考にした。)
高野公彦の歌には不思議な印象を与えるものが多いが、その基盤には、光の強弱を変える、遠近法を変える、といった人工的で絵画的な発想があるのだと知って驚かされたのである。
高野は「見る」ということに非常に意識的な歌人である。私たちの目は、ついつい物事を先入観に囚われて見てしまう。よくある例を挙げれば、「桜が舞う」という表現をした歌は、毎春ものすごく大量
に作られる。そしてそのほとんどは陳腐な歌になっている。「桜は舞うものだ」という刷り込みがあって、そこから脱け出すことができないのだ。高野の歌は、そういった固定観念から自由であるために、レンズをさまざまに変化させて風景を見ようとする。
高野は、見たものをすぐには歌にできないとも言う。自分が〈見た〉と思っているものを疑い、自分が〈見たい〉と思うものに変容させることによって、初めて作品として成立させているのである。
よく短歌入門などでは「見たとおりに描きましょう」などと書かれているが、固定観念に囚われずに「見る」ということはそう簡単なことではない。日常的な物の見方を一回消去したところから、自分なりの新しい視線を作り出していかなければならないのである。作者の個性の大部分は、そうした視線のあり方から生まれてくるのではなかろうか。
中野昭子の第四歌集『夏桜』を読んだ。
貴賓席に椅子の多くて椅子のまを通る貴賓が横歩きする
雨のきて鴉のからだ確実に濡れてゆくなり電柱とともに
兜虫の背中おさへたる虫ピンを写して明るき昭和の図鑑
中野の歌は物事の細部を見つめ、ほのかなユーモアを漂わせる。一首目は何かの式典の場面
であろうが、よちよちと移動する偉い人たちの姿が笑いを誘う。「貴賓」という言葉を繰り返しているところにも、皮肉な味があるのである。二首目は何でもないような歌だが、「確実に」という語の用い方がなかなかおもしろい。三首目は、確かに昔の図鑑には虫ピンが写
っていることがあって、懐かしく感じられた。「明るき」はやや言いすぎなのかも知れないが。
中野は小さな現実を接写するように見ることで、通常の物の見方を超えようとしており、おもしろい歌を数多く生み出している。ただ、歌集としては、その方法が連続するために、やや単調になっている嫌いもあるようだ。新鮮な視点であっても、それが固定化するとダイナミズムが失われやすい。短歌はじつに難しい形式だと思うのである。
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