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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

ブログ化する短歌時評
text 大辻隆弘

 「塔」6月号の短歌時評「時間の尺」のなかで、なみの亜子が時評を書くことの空しさについて述べている。
 彼女は半年間担当した「塔」の時評欄を振り返りながら「少しはましな時評ができるようになったかというとむしろ逆で、やればやるほど脱力してゆく」という。
 その気持ちは、私個人としては、よく分る。時評を長く担当していると、確かに自分の意欲の減退に気づいてしまうことがある。それは時評担当者なら誰でもが感じる一般 的な思いだろう。
 が、なみのの視点が独特なのは、個人的な理由に帰しがちなこの「空しさ」を、現代の短歌状況と関連づけて考えているという点である。彼女は、自分の「空しさ」の原因を、短歌状況の「時間の尺」が短くなったところに求めて次のようにいう。

どうも「時評」における、或いは短歌における「時間」の尺が変わってきているのではないか、それが「時評」そのものを空しいものにしているのではないか、という疑問も払い難くなってきた。

 彼女は、短歌時評の「時間の尺」が短くなってきた理由として、インターネットのブログや掲示版の存在を挙げている。また、この青磁社の「週刊時評」の存在も、その流れに掉さしている、という。週単位 や日単位で更新されてゆくネット上の話題の変化に、3ヶ月後の掲載にならざるを得ない総合誌や結社誌の時評は、どうしても「後追い」にならざるを得ない。自分の書いた時評が雑誌に載るときには、もうその話題は忘れ去られてしまっている。そう感じるとき、彼女は自分の時評に何の意味があるのか、と自問せざるを得ないというのだ。
 たしかにそうであろう。インターネットの普及によって、時評めいた感想が衆目に晒される機会は爆発的に多くなった。東京で行われたイベントの感想が、すぐに個人のブログにアップされ、その発言の衝撃が全国のネット歌人たちに一夜のうちに広がる、という事態も垣間見られるようになってきた。各人は、イベントの中から自分の興味や関心によって話題をつまみ食いして、ブログに自分の感想を述べる。が、それは、単なる一時的・個人的な感想である。その話題が現代の短歌の状況においてどのような意味を持つのか、また、短歌史的にどのような意味があるのか、といった問題は省みられることがない。そこには個々の事象を、普遍的な問題に膚接しようとする視点が不足している。
 もちろん、それは悪いことばかりではない。意見が多く出されることは基本的にはよいことだ。そこから有意義な議論が起こることも確かにある。それは、ネットの良い部分であるに違いない。
 が、ブログと「時評」の垣根が低くなり、「一時的・個人的感想」だけに基づいて、総合誌や結社誌の「時評」が書かれているとしたら、そこには、看過できない問題も生じてくるだろう。
 「眩」五月号の短歌時評「批評という行為」のなかで、米口實はこのような「時評のブログ化」現象に危惧の念を表明している。彼は、松村正直が担当した角川「短歌」の時評が、松村の「個人的意見」を表明しただけのものである、として次のように批判する。

(松村が)「短歌」の歌壇時評で書いたのは単なる彼の個人的意見に過ぎなかった。批評はそんな一方的な視野では書けないのだ。(略)現代の総合短歌商業雑誌というのはすでにジャーナリズムとして社会的な公器なのだ。こういう視点が彼には欠けていたと思う。少なくとも総合誌の批評欄というのは単なる見解を吐露する場ではない。

 私自身の考えを言えば、角川「短歌」に松村が書いた時評が「個人的意見」だけを述べたものだとは思わない。が、ここで米口がいう「総合誌は公器である」という、認識の厳しさには考えさせられることが多い。
 この米口の文章には、短歌総合誌に寄せる彼の熱い理想が語られているのだろう。主宰者の支配下にある結社誌とは違い、総合誌は中立公正な「公器」なのだ。そこに掲載される時評も、時評担当者の個人的な意見ではない。それは、新聞の「社説」のように、その総合誌を代表する公正な論評であるべきだ。米口は、そう信じ、そう願っているように思われる。その背後には、結社制度の旧弊な部分に苦しめられてきた米口の長い歌歴と体験があるのだろう。
 総合誌が二誌しか存在しなかった昭和40年代なら、米口のいうような発言は説得力を持ちえただろう。が、短歌総合誌が乱立する現在の状況においては、この米口の意見は、古風な理想主義なのではないか、という気もする。が、時評がブログ化し、ブロガーの気まぐれな感想と雑誌の「時評」との境界があいまいになりつつある現状を考えるとき、「短歌時評は公器であるべきだ」という米口のこの言葉は重い。私たちは、この苦言に、もう一度謙虚に耳を傾ける必要があるのではなかろうか。
 時評を書くという営為は空しい。が、ウタカタに見える流行のなかから不易の問題を見出し、短歌界の片隅で起こっている小さな現象に普遍的な意義を読み取る、という優れた短歌時評は、かつて確かにあったし、現在の状況下でも有り得るに違いない。
 この「週刊時評」を担当して1年が過ぎる。もって自戒としたい。

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