〈強固な私〉について
text 大辻隆弘
敬称は省かせていただく。私が前回この時評に書いた〈強固な私〉云々について、吉川宏志が説明を求めている。
やはり、こういうイベントのレポートは、現場にいない人にとってはなかなか真意が伝わりにくい。厄介なものだ。吉川の解釈と、私の真意の間には、やや齟齬があるようなので、ここで説明を加えさせていただきたい。
棚木の特徴が出た歌として、当日、まず私が例示したのは次のようなものである。
N(女子)の及ぼすちからどんよりと積み来しものの崩ゆる十組 棚木恒寿
悲しみの朝廊下を少女ゆき喫煙を隠すための香水
これらの歌で棚木は、女生徒がクラスの中で他の生徒たちに影響を及ぼす様を「ちから」という抽象概念で把握している。また、自分の内面
に巣食う倦怠を「悲しみの朝」と抽象化している。ここに棚木の発想の独自性があるだろう。
棚木は現実の事象から歌の発想を得てはいる。が、それを具体的なままに提示することは少ない。むしろ、その現実を一旦抽象概念に昇華し、それによってその事象を認識に齎そうとする性向があるのではないか‥‥。当日、まずもって、私が指摘したのは棚木のこのような「抽象化への志向」であった。
その上で次に私が論じたのは、棚木の「〈喩〉への信頼」はこのような「抽象化への志向」に由来するのではないか、ということだった。例にあげたのは、次のような歌である。
下降して底に届くひとひらよ水槽のごとく景ありにけり 棚木恒寿
ちから、言わばぬかるむ道をつくる雨ひっそりと僕を誘いてゆく
月光は澄み混沌を照らしおり混沌の萩括れと声す
一首目の歌については5月7日のこの欄で述べた。花びらの落花のゆるやかな速度を見て、水のなかの物体の落下運動を想起し、自分のめぐりにある世界を「水槽」として再認識する。そんな歌である。
二首目の歌において、作者が眼前に見ているものは「雨」である。棚木はそれを「ぬ
かるむ道を作る」ものとして認識し、それを「ちから」という抽象概念でもって理念化しようとしている。
三首目の歌において作者が見ているのは月光の差す萩の群生であろう。彼はそれを「混沌」という抽象概念で理念化し、その「混沌」に惹かれる自分の性向を見つめている。
私が「〈強固な私〉への信頼」という言葉で指摘しようとしたものは、これらの歌から窺われるこのような理性への信頼であった。このように〈喩〉を信頼し、それを多用する背後には理性的な存在としての〈私〉に対する棚木の絶対的な信頼があるのではないか。私はそう指摘し、そこに一抹の危惧を感じたのだった。
ただ、私はこのような棚木の中にある「〈強固な私〉への信頼」というものを、頭ごなしに否定した訳ではない。もちろん、私自身は、このような理の勝った歌をあまり良いと思わない。が、私が指摘したかったことの主眼は、そのような好悪の問題ではなく、むしろ、棚木の歌人としての特異性であった。
初学期に前衛短歌の影響を受けた私たちの世代の歌人ならともかく、ここまで〈喩〉の有効性を信じている歌人は棚木の世代には少ないのではないか。私は、そこに棚木の独自性を見、そこに棚木恒寿の修辞派としての本質を見たような気がしたのである。
時評「〈強固な私〉とは何だろう」のなかで、吉川は〈強固な私〉を「人生の中のある一瞬に、絶対的にリアルに感じたことを、一首に定着させようとする」主体だ、と考えているようである。生の一瞬一瞬において具体的な実感を感じ取る感性的主体こそが〈強固な私〉であると考え、私(大辻)がそれを否定し「揺らいでいる〈私〉が表現されている歌」を評価しようとしている‥‥。極言すれば、吉川は私の主張をそう解釈しているようだ。
私の言葉が足りなかったせいもあろう。が、ここまで述べてきたとおり、それは明らかな誤解である。私の言おうとした〈強固な私〉とは、吉川が解釈したような「一瞬のリアル」を感じ取る感性の主体としての〈私〉ではない。むしろ、現実の具体性を抽象化し理念化する理性的主体としての〈私〉の謂なのだ。
したがって、私としては、吉川の以下の言葉に対して、何の異存もない。
人生の中のある一瞬に、絶対的にリアルに感じたことを、一首に定着させようとするのは、詩歌を作る上で最も大切なことなのではないか。作者としての率直な感情を失ったとき、短歌の魅力は大きく損なわれてしまうように思う。(吉川宏志「〈強固な私〉とは何だろうか」)
私がいいと思った棚木の歌は、まさしく「人生の中のある一瞬に、絶対的にリアルに感じたこと」を捉えた歌だった。5月7日の時評で指摘したように、棚木は、それを彼なりの茫洋とした体性感覚をともなった比喩を用いて歌っている。その意味で、吉川と私の間には歌の評価のズレはほとんどないのではないか。
が、そのような共通基盤に立った上で、なお、私たちが問わなければならない問題は残っていよう。
なぜ、私たちは「抽象化への志向」に、魅力を感じないのか。〈喩〉の開示力によって目の前に新たな認識が開かれることに、「リアルさ」を感じないのか。以前感じていたとしたら、私たちはなぜ、それを今感じないのか‥‥。そういった問題は、〈喩〉の現在を考える際に、避けて通
れない問題であるのかも知れない。
吉川は、新鮮な直喩でもって、世界の新たな見方を一首のなかに定着させた歌を多く作ってきた。その吉川は今、〈喩〉に対してどのような意見を持っているのか。
吉川のさらなる見解が聞きたい、と思う。
|