希薄化する定型
text :大辻隆弘
57577という短歌の定型というものは、そもそも任意のものであり、人工的なものだ。リズムを持たない通
常の言葉を、短歌にしようとするとき、常にそこに言葉自体の内圧と、外部から嵌められる定型という外圧の葛藤が起きる。その内圧と外圧、言葉と定型の葛藤こそが、短歌というものの根源的な力となっているのだろう。
が、現在明らかになりつつあるのは、このような「外圧」としての短歌定型の力が希薄化している、という事態なのだろう。
「短歌人」4月号所載の内山晶太「箱的、あるいはおしくらまんじゅう的」という文章を読んだ。これは、外圧として存在していた短歌定型が、ライトバース以後その力を失ってきた経過を追跡した文章である。
内山はまず定型意識を「おしくらまんじゅう的」なそれと「箱的」なそれに分ける。 彼が「おしくらまんじゅう的」と呼ぶのは、例えば次のような歌である。
一羽ずつ立つ鳥白い真っ白い鳥せかいいちさみしい点呼 兵庫ユカ
この歌においては、文節の区切れと定型の区切れの葛藤、「内圧と外圧の葛藤」が存在している。「句跨りによって言葉が定型を押したり定型に押し戻されたりそれが一首のうねりになっている」(内山)のだ。いわば文節の区切れの「内圧」と、短歌定型の「外圧」が「おしくらまんじゅう」している、といえる。
しかしながら、現在主流となりつつあるのは、このような内圧と外圧の葛藤がない「箱的」な定型感覚だという。その例として内山は枡野浩一の次のような歌を挙げる。
こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう 枡野浩一
この歌では、文節を歪ませ内部に葛藤を生み出すような「定型の外圧」があらかじめ省かれている、と内山はいう。31音という言葉を並べる「箱」が、あらかじめそこに置かれていて、そこに言葉を置いている感じしかしない、と指摘するのである。
若い作者の論だけあって、やや感覚的すぎる面もある。が、この「箱的な定型」という言葉は実感ととしてよく分る。彼がこのような比喩で指摘しているのは、かつて言葉を研ぎ澄ませる圧力として存在していた短歌定型の力が急激に弱まっている、という事態なのだろう。
林和清も同様の事態を危惧している。
角川「短歌」4月号のなかの「破調の危機」という文章のなかで彼は、塚本邦雄の「句またがり」の「破調」が、常に「正調」との響き合いによって成立していたことを指摘する。外部から57577という「正調」を嵌めこもうとする意識が強固であるからこそ塚本の「句またがり」の技法が成立したにもかかわらず、現在、その5句31音という定型そのものが意識されなくなりつつある。その結果
、「句またがり」という「破調」が「破調」として意識されなくなりつつある、と林は言う。
短歌のなかに口語が流入した80年代以降、私たちの定型意識は大きく変わって来たに違いない。今後も変わってゆくだろう。恐ろしいのは、私たちがその変化に気づかないまま、なし崩し的に定型意識が希薄化してゆくことなのだろう。その意味で、定型意識の変化という眼に見えぬ
ものを顕在化させた2人の文章は、或る意味を持つのではなかろうか。
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