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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

ジャンルの危機――言論を封じないために
text :吉川宏志

 前回、大辻隆弘が取り上げていた佐佐木幸綱の「批評と礼節」(角川書店「短歌」四月号)を読んでみた。私もそうとう問題のある文章だと思った。論争の発端となった「作品季評」(「短歌研究」一月号)という座談会については、すでに私もこのインターネット時評で疑問を呈示している(2007年1月9日「読者の位 相」参照)。だから、佐佐木のこの文章については意見を表明せずにはいられない。「座談会の一部を引用してあげつらうのはルール違反だ」とまで書いているので、なおさらである(そんな「ルール」があるとは初耳だが)。野次馬的な興味で書いているのではないことを、まず承知していただきたい。
 前回、大辻が明確に指摘しているとおり、松村正直が〈短歌の「読み」の問題を「歌を読む姿勢」という態度論的な問題に短絡的に敷衍し〉ているのは、たしかに勇み足であっただろう。それに対して佐佐木が苛立ちを感じていることは理解できる。
 ただ、それを差し引いても、次のような佐佐木の文章には大きな違和感をもつのだ。佐佐木は、松村が同じ結社である花山多佳子の歌がけなされたから「結社派閥的」に弁護しているのではないか、と想像し、こう書いている。

 「私がどう読んだかは別にして、李下に冠を正さずである。「作品季評」には、「塔」以外の人の作品がたくさんあったわけで、何か発言したいならば、「塔」以外の人の作品を例に発言すべきだった。そうすることが先輩歌人が営々として築いてきた現代短歌史に対する最低限の礼節であろう。礼節こそ批評の根底ではないか。
 六〇年代に結社派閥の弊害が問題となり、短歌史は結社離れ、同人誌隆盛の時代を体験した。以降、結社派閥・結社政治の蔓延防止に歌壇は深く心してきた。どれだけそのことにエネルギーを使い、どれだけ神経質になってきたか。少しは短歌史を勉強してみろ。」

 もし、同じ結社の歌人について擁護するような発言が許されないのであれば、同じ結社である松村について書いている私のこの文章も、許されないことになる。果 たしてそれでいいのだろうか。
 文学において最も警戒しなければならないのは、言論を封じる圧力であると私は考える。権威をもつ者が、相手を「お前」「こいつ」などと呼びながら「礼節」を強いてゆくのは、言論の封殺につながる危険性がないであろうか。この「礼節」を悪用すれば、先輩が後輩を黙らせることも可能になるかもしれない。私は、たとえ佐佐木に「結社派閥的」と言われようとも、この問題については沈黙しないことにする。沈黙してしまったら、そんな危うい「ルール」を認めてしまうことになるからだ。
 逆に言えば、佐佐木と同じ結社である「心の花」の歌人には、今回の問題について語る資格はないのであろうか。それではあまりにも不自由だろう。
 たとえば次のような文章がある。

 「換言すれば、俵万智の短歌はパフォーマンスではない、ということである。歌壇ではライトバースという視点で『サラダ記念日』を読もうとした人たちがいたために、いかにも軽々とうたう俵万智の歌が、あたかも言葉のパフォーマンスであるかのように読まれてしまった。」(角川書店「短歌年鑑」平成十七年版)

 佐佐木幸綱が書いた「俵万智の読みをめぐって」の一節である。「俵万智の短歌はパフォーマンスではない」という佐佐木の断言は、このままでは受け入れがたいところがある。細かい論議は省くが、良し悪しは別 にして、彼女の歌にパフォーマンス的な部分がないとは言いにくいからだ(「パフォーマンス」という語の定義にもよるだろう)。ただ、「ライトバース」という先入観だけで俵万智の歌を読んでほしくない、という佐佐木の思いは伝わってくる。同じ結社で長く読み続けてきたからこそ、こうした共感的な理解は生まれてくるのだ。それを「結社派閥的」と一概に否定することはできないだろう。「党派的」かそうでないかは、ケースバイケースで、慎重に判断していく必要がある。
 もちろん、佐佐木の言う「結社派閥の弊害」については、私もよく理解しているつもりである。ただ、弊害を恐れるあまり、同じ結社の歌人を擁護する発言を非難するのは、短絡的すぎる解決法だと思うのだ。むしろ警戒すべきなのは、権力をもつ者が、自由な作歌や批評を圧迫してしまうことではないだろうか(むろん、自由であるためには、それだけの責任が伴うが)。六〇年代に起きたのは、まさにそれだったのではないか。
 そして、もっと問題なのは、佐佐木の文章によって、短歌というジャンル自体の危機が生じていることだ。これはやや大げさな言い方かもしれない。しかし、歌壇の代表的な人物が、考え方が違うからといって、公的な場において粗暴な言葉で他者を悪罵している状況に、新しく入ってくる人たちは魅力を感じるであろうか。非常に封建的な世界だという印象をもってしまうのではないだろうか。それはとても悲しいことである。
 私はこのインターネット時評で〈対話〉という言葉をしばしば使ってきた。考え方や価値観の異なる歌人たちのあいだで、どのように批評し合うか、理解し合うかが、現在、非常に大きな問題になっていると考えているからだ。今回の事態も、そうした〈対話〉の危機という流れのなかで起きたことであるように、私は感じる。

【お詫びと訂正】
  初出時には佐佐木幸綱氏のことを「幸綱」と表記しておりましたが、この件につきましてご指摘をいただきました。つきましては今回のように改めさせていただきます。茂吉、白秋などと同様に敬意を表した表現であり他意はなかった旨、付記しておきます。お読みいただいた方にご不快の念を与えましたことお詫び申し上げます。(吉川宏志)

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