自費出版書籍写真
トップページ
新刊案内

週刊時評

大辻隆弘ブログ

吉川宏志ブログ

好評既刊一覧

既刊書籍一覧

短歌キーワード検索
青磁社通信
バックナンバー

自費出版のご案内

短歌界リンク

掲示板


◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


ご注文の書籍は送料無料にてお送りいたします。
お電話・メールにてご連絡ください。



ご注文・お問い合わせは


〒603-8045
京都市北区上賀茂豊田町40-1

TEL.075-705-2838 FAX075-705-2839

E-mail
seijisya@osk3.3web.ne.jp


◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

非抑圧的対話状況
text :大辻隆弘

 角川短歌4月の佐佐木幸綱「批評と礼節」を読んだ。角川短歌3月号の松村正直の時評「歌を読む姿勢」に対する異議を述べた文章である。  事の発端は、松村が「作品季評」(短歌研究1月号)の佐佐木の読みの態度を批判したことにある。論争のくわしい経緯についてはここでは触れない。が、私自身は、この論争の背後には一首の「読み」の場をめぐる重要な問題が横たわっているように思う。
 私見によれば、議論の中心議題となっているのは次の一首の「読み」である。その「読み」が佐佐木と松村では大きく食い違ってしまっている。

  一車輛に乗り合はせたる運命の扉がひらきわれが降りゆく  花山多佳子『木香薔薇』

 佐佐木はこの一首の上句「一車輛に乗り合はせたる」を結句の「われが降りゆく」に繋がっていると見る。彼の解釈によれば、この歌の基本的な構成は「一車輛に乗り合はせたるわれが降りゆく」であり、第3句第4句の「運命の扉がひらき」は「挿入句」であるということになる。このような洞察のもとに、佐佐木はこの歌の大意を「他の人と一緒に一車輛に乗り合わせたるわれが運命の扉が開いたので降りてゆく」のだと理解する。つまり、佐佐木は「運命の扉」を分かつことのできない一つの象徴的な成句として理解している訳である。
 それに対し松村は、この一首の上句「一車輛に乗り合わせたる」を「運命」という名詞に繋がってゆくものとして読む。つまり、「運命の扉」を句切れに添って「運命の」で一端切って解釈し、佐佐木のように「運命の扉」を不可分の成句として受け取らないのである。そのように「運命の」と「扉」を分離して解釈した上で、松村は「一車輛に乗り合はせたる運命」という上句を解釈しようとしているといってよい。彼の「読み」に従って解釈すれば、この歌の上句は「作者はある日、誰かと偶然ひとつの車輛に乗り合わせた。そのことを作者は運命として感じとった」といった内容を述べていることになるはずだ。
 私自身の解釈を示しておくなら、私の「読み」は松村に近い。この歌の上句「一車輛に乗り合はせたる」の末尾「たる」は連体形である以上、通 常なら、すぐその下の名詞「運命」に繋げて解釈するのが穏当だろうと思う。作者はある日偶然に誰かとひとつ車輛に乗り合わせた。それを作者は運命だと感じた。列車が駅に到着するや否や、運命を左右するかのように厳かにドア(扉)が開き、作者はいつものようにその駅に降り立った‥‥。そのような状況を歌った歌と理解する。「運命の扉」は「乗り合わせた運命」と「運命を左右するように厳かに開く扉」という意味を、ふたつながら含んでいると思う。
 しかしながら、これはあくまでも私の第一印象による「読み」である。当然のことながらそれは数ある「読み」のなかのひとつの「読み」でしかない。このような私個人の「読み」は、他者の「読み」と突き合し、その違いを議論によって明確にしてゆくことによって深められる。あるいは転換を迫られる。理想的な歌の「読み」の場は、そのような非抑圧的な対話状況によって齎されるものであるはずだ。
 このような「読み」の場を形成するには、自分の「読み」を絶対化せず、相対的に見つめる態度が当然必要だ。そこに「抑圧」「被抑圧」という権力関係が介在してはならないことは言うまでもない。 佐佐木と松村は、このことをお互いよく知っているはずである。彼らは次のように言っている。

「短歌作品の読みに関しては様々な難しさがあり、誰にでも読み違えたり読みが不十分に終ってしまうことはある。人によって解釈が分かれるケースも多いだろう。だから、私も読みのレベルの相違を責めるつもりはない。」(松村正直・角川3月号)

「あれこれ読みの可能性を検討し、作品を多角的・多面的に照らそうとする営為こそが批評なのだ。」(佐佐木幸綱・角川4月号)

 今後、この論争がどう発展してゆくかは分らないが、両者には、ここに引用したこの発言を最大限重視してお互いの「読み」を比較し、深めてゆくことが求められると思う。
 が、現状は、残念ながら、そううまくはいっていないようだ。
 角川4月号のなかで、佐佐木は松村を「こんな男」「こいつ」と呼び、「少しは短歌史を勉強してみろ」「『当たり前』からはじめるべきは、お前なのだ」と罵詈を連ねている。このような喧嘩腰の態度のなかからは非抑圧的な対話状況は生まれて来ない。
 また一方、松村も掲出の短歌の「読み」の問題を「歌を読む姿勢」(角川3月号)という態度論的な問題に短絡的に敷衍し、その「姿勢」の問題を「読み以前の問題」という不用意な言葉でもって批判してしまっている。この点については、やや思慮が足りなかったと言わざるを得ない。
 佐佐木が角川4月号で使った「礼節」という言葉は、他でもない、相手の意見に尊敬の念をもって冷静に耳を傾ける態度の謂であろう。「読み」をめぐる問題を考えるために重要な意味をもったふたりの論争だけに、今後、冷静な意見の交換が期待される。

Copyright(C)2001 Seijisya.All Rights Reserved Warning Unauthorised Duplication Is Violation Of Applicable Laws.