動詞が生み出す新鮮な風景
text :吉川宏志
二月末に、俳人の飯田龍太氏が亡くなった。私は俳句については素人だけれど、龍太氏の句は大変好きで、句集を何冊か買って読んだりした。そして、短歌を作る上で、彼の句から学んだことがいくつかあったように思う。今回はその中の一つについて書いてみたい。
碧空に山充満す旱川 『麓の人』
それほど有名な句ではないだろうが、「山充満す」という表現に驚かされる。ガスのように山がむくむくと空に満ちているというのである。一見、突飛な表現のようだが、草木の繁る夏山のそばに行くと、「充満す」という感じがよく理解できるように思う。私たちは普通
、「山がそびえる」というように、決まった動詞を使って山を見てしまう。しかし、それでは新鮮な発想は生まれてこない。俳句には「山眠る」という季語もあるが、動詞を変えることによって、風景が豊かな生命感を帯びてくるのである。
秋嶽ののび極まりてとどまれり 『百戸の谿』
このような句もある。秋の山嶽を、天空へと伸びていって途中で静止した姿として捉えているわけである。山が背伸びをしているユニークな情景が目に浮かぶ。おそらく龍太は、見慣れている故郷の山をいかに新しい眼で見るか、つねに意識していたのであろう。私たちは言葉によって視野を狭くしてしまうこともあるし、逆に広い視界を与えられることもあるのである。
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昨年末に出た雨宮雅子の『夏いくたび』をじっくりと読む機会があり、とてもいい歌集だと思った。
旅の宿の小さなる灯はわがためのベッドほのかに泛(う)かばせてをり
ゆふぐれはまたかたはらに来て佇てり青菜を洗ふ手もと翳らせ
たとえばこうした歌にも、動詞をふだんとは異なる使い方をすることで、みずみずしい効果
を生み出している例を見ることができる。一首目は「小さなる灯」がベッドを「泛(う)かばせ」るという表現が美しい。旅先で一人で眠る寂しさと静かな喜びがさりげなく伝わってくる。また二首目も「ゆふぐれ」が人間のようにそばに立つという不思議な歌である。この時期、作者は夫を亡くしているので、夕暮れ時に死者がまだそばにいるような気配を感じたのかもしれない。
このように丁寧に言葉が選ばれた歌の良さは、急いで読んでしまうとなかなか見えにくい。特に現在のように次々と歌集が出版されている状況では、あまり注目されないで終わってしまう恐れがあるのである。評論や時評はどうしても目立つ歌や話題を追いがちになるのだが、静かで優れた歌を紹介していくことも大切になっているのではないだろうか。急速に歌を消費してゆく時間の流れを押しとどめることも、私たちは意識すべきであるように思われる。
しろがねのゆふぐれ近き雲の秋いづくにか水漬(みづ)く鐘のあるべし 『夏いくたび』
おのづから選びし道にしづかなる円光のごと石蕗(つは)の花咲く
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