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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

あふれでてしまうもの
text : 大辻隆弘

 歌の詩形というものは、どこかで作者の所期の意図を超えて鳴り響いてしまうところがある。どこか過剰に鳴り響くのである。が、その余響は、決して作者と無縁なものではない。その余響は、作者自身の深層や無意識に深く結びついているのだ。
 花山周子の評論「無防備な抒情性」(「塔」1月号)は、そのような歌から「あふれでてしまうもの」に注意ぶかく耳を傾けた評論である。
 花山が俎上に載せているのは、寺山修司の高名な次の一首である。

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり  寺山修司『空には本』

この歌の下句は、少年が両手をひろげて「海の広さ」を少女に知らせている場面 として読まれていよう。が、その一方で、「少年が麦藁帽子で表情を隠しながら、少女の歩むべき道に立って、通 せんぼをしている」という読みもあるらしい。花山は、一般的な「海の広さ派」の読みに対して、なみの亜子や佐藤通 雅が主張するこの「通せんぼ派」の読みに注目する。そしてこの「通 せんぼ派」の読みが、なぜ生起するのかを執拗に追及してゆくのである。
 詳細はこの文章を読んでもらうしかないが、私自身の意見を言えば、私の読みは「海の広さ派」である。が、たしかに、この歌には「通 せんぼ派」の読みを可能にしてしまう表現の「緩さ」があるようにも思う。たとえば、第三句の「少女の前に」の「に」という助詞には、少年が少女の視野を遮っている印象がある。少女の前において、少年が手を広げている情景を描写 するにしては、やや過剰な助詞だろう。また、結句の「いたり」という表現は、やや長い時間の継続を感じさせる。海の広さを教えるために瞬間的にパッ、と両手を開いた情景を描写 するには、やや間延びした言い回しであることは確かだ。
 花山の文章が面白いのは、普通なら「初期歌篇特有の稚拙さ」として裁断されてしまいがちなこの歌の表現の「緩さ」の中に、積極的な意味を見出しているところである。彼女はこの「緩さ」のなかに、寺山の「無防備な叙情性」があるとし、その「わざとでない部分」に「少年寺山の生のエネルギー」の発露と、「読者の自由な想像を許す隙間」を見いだそうとしている。歌の言葉の細部に注目しながら、そこから必然的にあふれでてしまうものを、実に注意ぶかく解き明かしていった好論だ。
 歌からあふれてしまうものに注目しているのは花山だけではない。葛原妙子を特集した「短歌現代」2月号の米川千嘉子「文体という肉体」もそうだ。
 米川は、この文章のなかで、葛原の中期の作品にある「字余り、字足らず、一句欠落」のなかに、塚本邦雄の合理的な方法的完結性では掬いとることのできない「なまなましさ」「何かが余っている感じ」「方法と意味の外に何かがはみ出て」いる感じを嗅ぎ取り、実際の歌の表現のなかにその根拠を探りだしている。
 花山と米川に共通するのは、作者の意図という規矩や、合理的な方法的完結性から「あふれでてしまうもの」に眼差しを注ごうとする態度である。それは、実は、短歌という詩形の生理に忠実に遵った、きわめてまっとうな作業だろう。歌の「意味」だけを追い、合理的解釈のみに従って歌を裁断しようとした前衛短歌期の読みの呪縛。寺山修司や葛原妙子の作品は、男性原理に基づいた読みの呪縛から、まだ完全には解放されていない。そういう状況を考えるとき、花山と米川というふたりの女性の手によって、これらの論が書かれた意味は小さくないと思われる。

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