陰影に身を添わせて
text : 大辻隆弘
新年のつれづれに、2冊の歌集を読んだ。塩辛か何かをサカナに、ちびりちびり、日本酒を舐める。そんな風に1首1首味わうのにふさわしい歌集だった。
その1冊は、高野公彦の『甘雨』である。
あさがほのほとりに我の分身を残して朝の駅に急げり
たとえばこのような歌はどうだろう。自分のなかに、朝戸出をする自分と、今朝ひらいた朝顔の花を見ている分身というふたりの人間が生まれる。分身の私は、花の傍にとどまり、もうひとりの私は出勤をする‥‥。散文にすれば「朝顔の花を見て出勤した」というだけの出来事が、高野の手にかかると、このような空間と時間のひろがりをもった歌になってしまう。
言葉の選択も新鮮だ。「朝顔の咲く傍ら」となら誰でもいえる。そこに「ほとり」の一語を置くことで、この歌の世界には、まるで作者の分身が水辺に佇んでいるかのようなイメージの広がりが生まれてくる。一語の選択によって、朝顔のみずみずしさが読者の胸に無理なく伝わってくるのだ。こういう歌を、ひとつひとつ、じっくり読み味わう愉悦はこの上ない。
もう1冊は岡井隆の『二〇〇六年水無月のころ』である。作者のあとがきによれば、昨年の6月から7月まで、朝という一定の時間帯に書かれた歌をまとめた書き下ろしの歌集である。
あけぼののすこし過ぎつつ照らされて机といふは統治力ある
岡井の歌は、一時のはなやぎを経て、ふたたび沈鬱な調べのなかに沈潜しているかのようだ。この歌集のほどんどの歌は、朝のとりとめもない心の動きを描写
した心象スケッチである。したがって、具体的な事物はほとんど登場しない。混沌とした記憶を澱のなかから、浮かびあがってくるものだけを掬いとろうという手法が新鮮だった。
掲出の歌を読むと、「机」という物象の背後にまつわる濃密な時間の流れだけが読者の胸に刻印される。それは、読者が、上の句のゆるやかな調べを読み味わい、そこに流れる時間を追体験するからだろう。言葉の流れのなかに身を添わせる愉悦。岡井の歌を読むときに、私はそれを感じた。
これらの歌集には、表だった「主題」などはない。こけおどしの新しさも用意されていない。が、どちらの歌集も無碍である。
「この三年間、日々の生活は、私につつましい愉楽を与えてくれたが、また空漠たる寂寥感も齎した。それは生きてゐること自体に付随する餓ゑの感覚であらう。」(『甘雨』あとがき)
「清書しながら思つたのは〈現実は万葉の八掛け〉といふ誰かの比喩であつた。おほむねは退屈で、とき折襷がかかるのも、老いの日常に似ている。」(『二〇〇六年水無月のころ』あとがき)
これらふたつの「あとがき」に共通するのは、老いに向かう退屈でけだるい日常の時間に身を寄り添わせながら、それを「ことば」にしようとする態度だろう。
歌というものは、声高に自分のテーマや主張を述べるものではない。こころの陰影にそっと、ことばを寄り添わせてゆく。そういう人間の営為そのものが歌なのだ‥‥。そんな感慨を深くした2冊の読書であった。
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