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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

先週の時評に対して小高さんから感想を頂いております。
こちらをクリックして是非お読み下さい。

「ふたたび大辻隆弘さんへ」
<<クリック!
小高賢さんにお答えする
text : 吉川宏志

●0

 小高賢さんから、いくつか質問がありましたので、お答えしておきたいと思います。
 まずその前に、私の立場を明確にしておきましょう。評論というのは、必ずしも結論がすべてなのではなくて、それを導き出す過程の説得力が大切なのだと思います。特に短歌評論の場合は、一首一首の短歌の読みが重視されるのは否定できないでしょう。「現在、社会詠は難しい」という結論なら、誰にでも言えますからね。
 小高さんの「ふたたび社会詠について」(「かりん」12月号)を詠んだ率直な感想は、結論には反対ではないですが、その途中の論の展開があまり説得力を持たないだろうな、というものでした。その理由を大きく二つにまとめると、(1)歌の読みがあまり丁寧ではないこと、(2)安易に世代論に逃げていること、になります。私の11月20日のインターネット時評では、その点を指摘しています。
 さらに現在の社会詠については、〈対話可能性〉という評価軸をもてば、小高さんのようなマイナス評価ばかりにはならないのではないか、と提言しています。
 このポイントに注意しながら、以下を読んでいただければありがたいです。

●1

 細かいことですが、小高さんは、

「しかし、吉川さんは「仮にI氏としておくが」とぼかす?仮名にしないとまずいことでもあるのですか。批判するなら、余計、仮名などおかしい気がします。」 (「吉川宏志さま」)

と述べています。しかし、この答えは初めの文章に明記してあります。

「個人攻撃をしたいわけではないので、筆者を仮にI氏としておくが」 (吉川「〈対話可能性〉について」)

というのがすべてです。補足すれば、インターネットは個人攻撃になりやすいメディアです。政治問題などで実名を出すのは危険な面 があります。
 私がここでI氏の文章を引用したのは、彼を批判したいためではなく、「憲法改正に反対を唱えるためなら、いくら罵倒のような文章であっても、読者は許してくれるだろう」という一種の甘えが、現在でも(歌壇を代表する歌人の中にも)存在していることを言いたいためです。歌壇は狭い世界なので、お互いに主義主張や気持ちは通 じ合っていると錯覚しやすい。その場の雰囲気で、わかったような気になってしまうことがあります。けれども、実際はそうではなくて、いくら自明のことだと思っていても、きちんと説明しなければ理解してもらえないことがたくさんある。特にインターネットのように歌壇以外に開かれた場では、意を尽くして語り合わないと、大きな誤解を招いてしまうおそれがあると思うのです。〈対話可能性〉を私が重視するのは、そのためです。

●2

 小高さんは、

  湯気のたつ味噌汁前にこの夕べブッシュを的にまとまる家族
               小高賢『液状化』

という歌について、

「作者側からいえば、「イラク戦争」の歌ではありません。(中略)ですから、岡野弘彦の「十字軍をわれらたたかふと 言ひ放つ 大統領を許すまじとす」と比較されると、ちょっと困ったなという気分です。もちろん、読みは自由ですから、どのように鑑賞されても仕方がありませんが、作者としてはそんな大仰なつもりはなく、ささやかな家族詠です。だから、「『怒りや恥』を感じてなかったのだろうか」といわれても、すこしちがうよとしかいいようがありません。(中略)比較の対象として、もう少し違う歌にしてもらわないと、「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」という印象が残ります。」 (「吉川宏志さま」)

と述べています。小高さんのとまどいは理解できます。私は「ブッシュ」のような難しい題材を歌にするときはすごく慎重になりますから、やや過敏に反応してしまったのかもしれませんね。しかし、小高さんが書いたことは、小高さんの評論にもブーメランのように返ってくることにお気づきでしょうか。

  爆撃のテレビニュースに驚かず蜘蛛におどろく朝の家族は
               小島ゆかり『憂春』
  熱いお茶に淹れかへようか遠国の戦さがどうやら終りへむかふ
               林和清『匿名の森』

 小高さんはこのような歌を引用し、

「爆撃に驚かず、蜘蛛の出現に騒ぐ家族。どこかおかしいのではないかと自省している。誠実な作品だ。しかしここでも、気になる。その先がないのだ。ここで止まってしまう。」
「林はあえてニヒルになっている。絶望的な状況認識といっていいのかもしれない。だから反社会的に詠むのだろう。しかし、世界の現実に無関心ではないよというポーズにしか見えない。」 (「ふたたび社会詠について」)

と書いています。これらの歌は、小高さんの歌とスタンスとしてはほとんど変わらないと思います。戦争のテレビを見ながら、自分の日常を対比的にとらえている構図にあまり違いはないわけです。「作者側からいえば、「イラク戦争」の歌ではありません。」「作者としてはそんな大仰なつもりはなく、ささやかな家族詠です。」という小高さんの自己弁護が成り立つとすれば、同じ弁護がこの二首についても成り立つはずです(林さんの歌も恋人あるいは夫婦間の会話のようですね)。
 乱暴な言い方に聞こえるかもしれませんが、小高さんの歌と、小島・林作品に大きな差異があることを説明するのはかなり困難だと思います。小高さんは岡野弘彦の歌につなげる形で小島や林の歌を論じているのですが、私も「〈鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん〉という印象」が残りました。説得力がない、と私が述べたのは、こうした歌の選び方からも生じているのだと思うのです。
 もし今後論じ合う機会があるとしたら、現在の情報があふれている社会の中で、「社会詠」と「日常詠」の境目はどこにあるのか、というのが大きなテーマになるかもしれません。

●3

 小高さんは「私が対象にした岡野弘彦の作品について、吉川さんから、なんら感想がないのも不思議な感じがしました。」とおっしゃっていますが、これは単に字数が足りなかったからにすぎません(インターネット時評は一〇〇〇字が一応の目途になっています)。ただ、私はこのインターネット時評の「日常に影を射すもの」(8月23日)でも『バグダッド燃ゆ』に触れていますし、「短歌研究」10月号の書評でもその社会詠についてかなり詳細に書いています。「なんら感想がない」と書かれたのはやや早計だったのではないでしょうか。
 「短歌研究」でも多少表現を変えて書いているのですが、

  十字軍をわれらたたかふと 言ひ放つ 大統領を許すまじとす

のような歌は、一首として取り上げれば、それほど優れた作品とはいえないと思います。けれども、こうした言葉には、戦火を体験した人が言っている重みがありますし、小高さんには異見があるでしょうけれど、歌会始選者である歌人が、身をさらして歌っている迫力はあると思うのです。最近、岡野弘彦の「砂あらし 地を削りてすさぶ野に 爆死せし子を 抱きて立つ母」という歌が朝日新聞の「天声人語」にも取り上げられていましたが、やはり今述べたような文脈で読まれていました(そのような文脈で読むのは良いか悪いか、という議論はあるでしょうが)。作品と作者は別 だ、という考え方もありますけれど、短歌の場合、作者の人生体験が作品の読みに大きな影響を及ぼすのは否定できないようです。
 小高さんは、

  中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ       宮柊二

を「読み手に届く歌」として称揚されていますが、じつはこの歌も岡野の歌と同じ力が働いていて、『山西省』などの歌集を読んだことがない読者には「戦争は悪だ」という言葉の重さはなかなか伝わらないのではないでしょうか。宮柊二という署名があることで、歌に奥行きが生まれているのです。小高さんは岡野の歌を批判的にとらえ、宮の歌を対照的に評価しているのですが、単純に比較しているように見えるこの部分にも、じっくり考えるべき問題が含まれているように感じたのですが、いかがですか。
 社会詠と、作者の署名の関係は、これも大きなテーマでしょうね。
 なお私は、『バグダッド燃ゆ』は作者の署名で成り立っていると言っているのではありません。先の書評では、

  コーランの祈りの声は 砲声のしばらく止みし丘より ひびく
 「こうしたテレビを見て作っているはずの歌にも、静謐な哀感があるのである。一字あけたあとに置かれた「ひびく」に不動の力がある。」 (「短歌研究」10月号)

のような歌を取り上げ、高く評価して書いています。

●4

 それからもう一つ付け加えておけば、小高さんの言う「外部」「内部」という区別 が私にはよくわからないのです。

「岡野たちは巧緻だが、外部に立たざるをえない。そうでないと、歌えないからだ。加藤たちは内部から詠もうとする。自分の気分に正直に対象を掬おうとする。すると、作品は観察に終わる。」 (「ふたたび社会詠について」)

という文章の「外部」「内部」というのは体験をしているかしていないか、ということなのでしょうか? どうもそうではないような気もします。私の読解力がないせいもあるでしょうが、かなり曖昧な定義であるように思うのです。さらに言えば、「外部」「内部」と区別 することに、あまり意味がない感じもします。たとえば、六〇年安保闘争を詠んだ、

  旗は紅き小林(おばやし)なして移れども帰りてをゆかな病むものの辺(へ)に                     岡井隆『土地よ、痛みを負え』

は、小高さんの分類では「外部」「内部」のいずれに当たるのでしょうか。

●5

 さて、最も重要な論点に移ります。

  NO WARとさけぶ人々過ぎ行けりそれさえアメリカを模倣して
               吉川宏志『海雨』

 この歌について、小高さんは次のように書いています。

「「NO WAR」というデモ表現に追い込まれている現実に対して、作者は同時代者としてどのような感じをもっているのでしょうか。吉川さん、デモに行ったことありますか。自己の意志を表現する一つの権利です。デモが万能だなんて、まったく思いませんが、自分なら意志をどのように表現できるか、デモを見ていても思うはずではないでしょうか。私の受ける感じは、作品にどこか冷えを感じるのです。それが当事者意識の希薄という評になっているのです。」 (「吉川宏志さんへ」)

 最初の質問から答えれば、私が学生になってすぐ天安門事件が起きたのですが、学生集会に参加したりしていました。私の初期の歌に「北京遠しさらに安保は遠きかな武勇談持たずわれらは生きん」(『青蝉』)というのがあるのですが、そのときの名残です。戦う相手もない静かな集会でしたが。
 その後、市民運動に誘われて、小田実氏のマンションを訪ねたこともあります。ところが小田氏と喧嘩になってしまい、部屋から追い出されてしまいました。小田氏も自分とは相容れない考え方を激しく攻撃する傾向がありますね。上から説教されるばかりでうまく対話できない印象を持ったのです。これはもちろん私が思想的に未熟だったのが最大の原因ですが。ただ、学生運動・市民運動などの中で用いられている言葉に、いくらか疑問や限界を感じはじめたのも事実です。
 余談ですが、そのとき小田氏のマンションにいっしょに行った男子学生が、のちにオウム真理教に入りました。私の中には、いわゆる戦後民主主義的な言論に共感できなかった青年たちが、オウムのような神秘主義に呑まれていったのだ、という図式があります。これはやや単純化しすぎでしょうが、私の世代の大きな問題だと思っています。ですから、最近出した歌集にも、オウムに入った友人を詠んだ連作を収録しています。
 私の歌は、必ずしもデモを冷ややかに見ている歌ではありません。世代論を批判しておきながら、自分の世代について書くのはおかしいかもしれませんが、少しだけご容赦ください。私の世代は、「アメリカの民主主義はすばらしい」と教えられてきた世代だと言っても間違いではないと思います。子供のころは「アメリカは自由ですばらしいんだ」とわりと単純に信じてきたような気がします。幼いと思われるかもしれませんが、小高さんの世代は、社会主義国家を理想世界と考える人が少なくなかったのでしょう? それに近いと思うのです。ディズニー映画を見ながら育ってきたわけですからね。
 しかし九・一一テロ以降、日本ではかなりあからさまに反米の風潮が広がっていきました。その急変ぶりに、大きな違和感を持ったのです。アメリカを批判する気持ちはもちろんよくわかりますけれど、今まであれだけアメリカの民主主義を称揚してきたのに、手のひらを返すように、多くの人々がアメリカを単純に否定する論調に走っているのには、かなり疑問を持ちました。テレビで「民主主義をイラクに押しつけるな」という言葉を聞いたときは、かなりショックを受けましたよ。「民主主義」は、一種、神聖なものとして教えられてきましたからね。
 また、小高さんの歌ではありませんが、ブッシュの愚かさなどを得々と語ることで、アメリカを批判している気分になっている人々の姿を見るのも、あまり気分のよいものではありませんでした。
 『海雨』には、

  昭和二年生まれの人がビンラディン讃えるを聞く冬の酒房に
  アメリカを憎んでいたのかこの人も 鉄板に触れしごとく帰りぬ

といった歌も、いくつか含まれています。戦後六十年経って、突然噴出してきたアメリカ憎悪に対するとまどいや、自分をどっぷりと浸していたアメリカ文化への自覚などを率直に歌うことを、この時期の私は目指していたように思います。もちろん、それがそのまま短歌を通 して伝わるとは思っていませんし、作品としても力が不十分だと思います。自作について言い訳するつもりはまったくありません。ただ、「当事者意識が希薄」という評とは別 の角度からも読んでほしいなあと願うだけです。

●6

 また、小高さんは加藤治郎の歌についても批判していましたが、彼の歌については私も「短歌現代」11月号の「〈不気味なもの〉という枠組み」という文章で論じています。彼の歌と私の歌とでは、スタンスがかなり違うと思っています。それを世代論で一緒にまとめるような書き方をされると、ちょっと困るなあと思うのです。蛇足ながら付け加えれば、加藤治郎と私では十歳くらい年齢が違うので、世代論としても大雑把なのではないでしょうか。
 私は10月10日のインターネット時評で、

「先週の時評で大辻隆弘の取り上げている島田修三の「まわって来たツケ」も俵や穂村の歌を批判することによって、現在をとらえようとしている。そのような論の立て方は最近とても多いわけだが、反(アンチ)俵・穂村で書かなければ、自分の位 置を明確にできないのであろうか。もっと別の対立軸はないのだろうか。もちろん批判すること自体はとても大切なのだが、批判がワン・パターン化・図式化していくことにも私たちは警戒したいものだ。」 (「生活とリアリティ」)

と、高橋啓介などの文章について、安易な世代論で批判する傾向があることに対する危惧を述べています。そういう状況が広がっている中で、小高さんのように世代論を繰り返すのは、あまり共感を得られないのではないかと思うのです。私が「小高の書き方は、I氏とよく似ている。」とやや挑発的に書いたことに対して、小高さんは「乱暴のように思えます」と違和感を表明していましたね。もしそのように感じるのでしたら、小高さんが他人の歌を批評するときにも、簡単に一括りにするような書き方をしないよう留意してほしいのです。「貴兄たちの作品について鑑賞・批評することが中心ではなく、現代における社会詠のむずかしさを問題にしているつもりです。」というのは、言い訳にはならないのではないでしょうか。「鑑賞・批評」と「社会詠のむずかしさを論ずる」のは、一つの評論の中で両立することが理想なのではないですか。たとえば三枝昴之の『昭和短歌の精神史』が高く評価されたのは、その両立が実現していたからだと思うのです。
 私が「小高の書き方は、I氏とよく似ている。」と書いたのはたしかに乱暴でしたので、お詫びしておきます。

●7

 私は、小高さんの言う「現代における社会詠のむずかしさ」を否定しませんが、解決できないアポリアだとは思っていません。むしろ、

「教育基本法改正はじめ、すべての場面で、状況はひどすぎませんか。短歌の議論からそれるかもしれませんが、「NO WAR」でもいいではないですか。「アメリカの模倣」でもいいではないですか。率直な意志を表現していいのではないですか。戦争反対の意志を示したいならば、思い切ってデモに参加してみると、また、現実が違って見えてくる。そんな気もします。別 に強制することではありませんが、個人的な小生の感想です。こういういい方はまた体験主義といわれるかもしれませんがね。」 (「吉川宏志さんへ」)

といった開き直ったような単純な書き方が、逆に言葉に対する不信感を招く恐れがあるように思います。たとえば教育基本法については、私は教育関係の会社に勤めているため、改革を推進する側の人たちを取材したり、いっしょに仕事をしたこともあります。教育改革については善悪の両面 があるでしょうし、タウンミーティングの問題などはじつに残念だと思いますが、一部のマスコミなどが報じているような、非常な悪法であるとは私は思っていません。やはりいろいろな矛盾に苦しみながら、大勢の人たちがベターな仕組みを目指して模索しているのが現状のようです。マスコミの情報だけを鵜呑みにしてデモに参加しても、おそらく「現実が違って見えてくる」ことにはならないでしょう。
 マスコミのように出来事をいい意味でも悪い意味でもわかりやすく描いていく方法ではなく、わかりにくいものやわからないものをなるべくそのままの質感(リアリティ)でとらえていくことも、短歌では重要なのではないでしょうか。必ずしも作者が明確な答えを出すことはなく、読者とともに歌会などの場を通 して考えていくことも、大切だと思うのです。そのような広がりをもった社会詠は、現在でも少なからずつくられていると、私は信じています。楽観的すぎるでしょうか。

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