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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆(特別編)
ふたたび大辻隆弘さんへ
text : 小高 賢

 青磁社時評「歌における『認識』について」を拝読しました。小生の「かりん」の文章を再読していただき、私のいいたいことを少し、理解していただいたことに感謝しています。しかし、「なお、私にはあの論文の主旨には首肯できないものが残る」として、2つの点についての疑問を述べられておられます。それについて、感想をお送りします。
 まず一点は、「対象そのものへの心を空しくした接近」がなく、「あらかじめ措定した枠組みを嵌めて批評を始め」たのではないか、という批判です。「当事者意識の希薄化」という思い込みが先にあり、それによって作品の「読み」を、私が行なったのではなかったか、ということですね。すでに吉川宏志さんへの文章のなかでも、若干、それら作品について鑑賞を記しました(スペースが足りず鑑賞が行き届いていないうらみがありました)。ですので、繰り返しませんが、しかし、実際、大辻さんは、小生が挙げた作品をどのように読んでいるのでしょうか。例えば、私の挙げた、あなたのご友人の加藤治郎さんの作品に「当事者意識の希薄」を感じませんか。そうでないというなら、大辻さんの読みを開示してください。吉川宏志、林和清、松村正直さんの作品を、大辻さんはどう読んでいるのでしょうか。そういう対立点なしに、小生が「批評の常識を遵守しようという姿勢が希薄」とはあまりにも一方的な決めつけすぎだし、いいすぎではないでしょうか。
 もうひとつ、馬場、佐佐木、小島らの作品と、土屋、近藤、宮たちの作品にある差を鑑賞するにあたって、「私」ではなく、「私たち」という風に使ったことに、「粗暴な論理展開」と感じられたことにもふれてみます。「土屋・近藤・宮の歌が、私たちの胸に届くのは、おそらくそこに作品以外の作者や時代背景の理解(戦前・戦後の時代背景の理解と、その時代のなかで生きた3人の生き様など)に対する私たちの理解があるかであり、その背景に照らし合わせて、この作品の内部の言語表現を味わうからだ。しかしながら、氏は、当然必要と思われるそのような作品の『場』の解釈と作品の読みを提示しないまま、情況論に移ってしまう」と書かれています。
 小生の文章をもう一度拡げてください。まず、土屋たちの作品を鑑賞するのが主たるテーマではありません。しかも、結社誌の限られたスペースのなかで、どうしたって急ぎ足になる。そんなことできるでしょうか。大辻さんが述べてくれていることは、読者サイドに少なからず存在する常識でしょう。「私」といわず、「私たち」といって、それほど異和感がないのは、読み手に常識として実感できるからではないですか。大辻さんのいっていることを実行したら、あの文章は10頁以上必要になってしまいます。そんな無理なことをいってはいけません。それぞれ、書き手はある限界の中で、書いているのです。もし、私のいっている馬場たちや、土屋たちの作品感受の差に疑問があれば、もちろん反論してください。それなしの、過剰な要求はこまります。スペースにゆとりがあれば、おっしゃるようなことにふれなければならないのは理解しますが。
 第二点に移ります。最初にいっておきますが、貴兄が私の文章から抽出する「『望ましい』と思っている社会詠のありかた」という一節ですが、「望ましい」はどこにかかるのでしょうか。つぎのパラグラフで、「氏にとっての『望ましい』社会詠」とありますので、「望ましい」は社会詠にかかるのでしょうね。そう判断しました。
 前回もいいましたが、「望ましい社会詠」(正しいも同じことです)というような外側に、あるべき姿を措定する発想には無縁でありたいと思っています。しかも、再三いっています。「望ましい社会詠」なんていうものもありません。繰り返しになりますが、そうではなく、社会詠というものを考えるとき、歌っている最中でも、歌ったあとでも、あるいは、作品を一冊にまとめるとききでも、作者として、作品からの照り返しを意識したいといっているにすぎません。対象に対して、あるいは自分の作品の鑑賞について、つまり受け手側への(他者への)想像力のようなものです。読み手も、同じように反芻したい(行動であったり、相手の身になってみるとかという思考)、そうあるべきだといっているつもりです。「正しい」「望ましい」というようなものをどこかに置き、それに向かうおう、努力しようという発想がどれほど危険か、現代史をひもとけば容易に分ることです(私たち世代もたくさん失敗しています)。ですから、社会詠においても、発語したら、反芻し、また発語し、また反芻するという無限の行為、それこそ「望まれる」姿勢なのだと思っています。付け加えれば、社会詠が一過性で終わることにも、小生は危惧を感じます。
 貴兄の「社会詠は、社会批評の前に第一義的には『うた』である。それは『認識』「よりも『感情』『情念』に近いものである、と思う」。この一節に異和感はありません(「情念」といった70年代の流行語にはちょっとおどろきますが)。ですので、そのあと、私に触れながら、「社会詠において、『認識』を優先したとき、そこには、情念に基づいた歌を忌避し、冷笑する危険性が生まれてくるような気がする」という論理展開には、まったく納得がいきません。「危険性が生まれてくるような気がする」といういいかたに、すこしおよび腰を感じますが、私はそんなことを何ひとついってもいないし、どうしてそんな風に論理がひきだされるか唖然としてしまいます。社会詠において認識が優先される?土屋、近藤、宮の作品は認識が優先された作品ですか。
 さらに、「社会詠は『認識の器』である以前に、『うた』であり」とありますが、誰が、「社会詠は『認識の器』」などといったのでしょうか。この文脈ですと、小生がいっているように読めてしまいます(かっこがありますので)。そんなことは私の評論のどこに出てきますか。大きな疑念を感じます。先に、「正しい社会詠」という、小生がいってもいないことを掲げ、今回は、「社会詠は『認識の器』」と、また私のいってもいないことを勝手に想像して批評する。フェアーではありません。
 社会詠では認識が優先するとも、社会詠が「認識の器」とも、私とは無縁に、貴兄がつくりあげた概念・発想?です(9・11の際の、私の言い方をもちだして想像しているのでしょうが、その要約のしかたも乱暴すぎます。議論が面 倒になるのでいまはそれについてふれません)。短歌観の違いといった問題ではありません。恐縮ですが、再度、私の文章を読んでくださいませんか。

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