自費出版書籍写真
トップページ
新刊案内

週刊時評

大辻隆弘ブログ

吉川宏志ブログ

好評既刊一覧

既刊書籍一覧

短歌キーワード検索
青磁社通信
バックナンバー

自費出版のご案内

短歌界リンク

掲示板


◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


ご注文の書籍は送料無料にてお送りいたします。
お電話・メールにてご連絡ください。



ご注文・お問い合わせは


〒603-8045
京都市北区上賀茂豊田町40-1

TEL.075-705-2838 FAX075-705-2839

E-mail
seijisya@osk3.3web.ne.jp


◆ 週刊時評 ◆(特別編 その2)
吉川宏志さま
text : 小高 賢

 大辻さんにつづいて、貴兄からも「違和感」をもつというコメントを拝読しました。今回の場合、反論というほどではありませんが、私なりの感想を記したいと思います。
  冒頭の吉川さんが語っている中味には、小生もほぼ同感いたします。しかし、そこにどうして、I氏などという仮名をつかうのでしょうか。そして「有名な歌人の一人である」などという形容詞も、私には不要に思いますが、どうでしょうか。有名無名ということと、批評ということになんら関係はないと思っています。I氏が、どなたか、多くの歌人はすぐ分かります。しかし、吉川さんは「仮にI氏としておくが」とぼかす?仮名にしないとまずいことでもあるのですか。批判するなら、余計、仮名などおかしい気がします。それをまずいっておきます。
  つづいてですが、私が対象にした岡野弘彦の作品について、吉川さんから、なんら感想がないのも不思議な感じがしました。その代わりに、小生の一首、「湯気のたつ味噌汁前にこの夕べブッシュを的にまとまる家族」をあげ、「イラク戦争を詠んだにしてはなんとも軽い歌だなと思っていたからである」とお書きになっています。たしかに軽いし、たいした作品ではありませんね。そして、作者側からいえば、「イラク戦争」の歌ではありません。よくテレビにブッシュの顔が出ますね。品性がないとか、いうならば家族で、ああだ、こうだ、品評会をしている。そういう場面 です。ですから、岡野弘彦の「十字軍をわれらたたかふと 言ひ放つ 大統領を許すまじとす」と比較されると、ちょっと困ったなという気分です。もちろん、読みは自由ですから、どのように鑑賞されても仕方がありませんが、作者としてはそんな大仰なつもりはなく、ささやかな家族詠です。だから、「『怒りや恥』を感じてなかったのだろうか」といわれても、すこしちがうよとしかいいようがありません。「他者を批判する前に自らを厳しく問い詰める姿勢がなければ、やはり説得力を持たないように思うのだ」という吉川さんの意見に、小生もなんの異論はありません。ですが、比較の対象として、もう少し違う歌にしてもらわないと、「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」という印象が残ります。大辻さんへの反論にも引用したのですが、私の文章のひとつのポイントを再度書き付けておきます。

「短歌の鑑賞に、こんな素人の生硬な論議(戦後史の状況)を持ち込んだのはほかでもない。現在の社会(世界)のありようを、どうしたら短歌が扱えるかを考えてみたかったからである。自分の戦争体験を重ね合わせて、現代の悲劇をうたいあげた岡野作品に共感、同感することは多い。しかし、どう考えても、対象や主題に対しての感慨や視線は、外部からのものである。爆撃する、される、その外側に立っている。爆死した子を抱く母には、同盟国の日本にも責任がある。そしてお前にもある。なぜアメリカを止めてくれないのか、と抗議する権利はあるだろう。その視点に対して、どう応えられるだろうか。
  二首目に「大統領を許すまじ」といっている。その大統領の横槍じみた要請に応じているのは日本である。そのことに私たちは怒りや恥を感じているのだろうか。
  外側に立っている社会詠だというのは、そういった意味である。岡野を特別 にあげつらって問題にしているのではない。岡野にかぎらず、現代の社会詠は、外部に立たざるをえない。立たなければ歌えないことも事実なのである。誠実であればあるほど、そうなってしまう。そのむずかしさをいっているのである。」

 「私たち」の問題をいっています。いうならば社会詠の照り返し。自分はどうなのだろうかということです。「天に唾する」もので、もちろん、小生も問われています。そういうことをいっているつもりですが、岡野弘彦を言う前に、自分の姿勢を問い詰めよ、といわんばかりの吉川さんの文章には困惑しています。私が問題にしている「むずかしさ」を貴兄はどのようにお考えでしょうか。岡野弘彦の作品についての感想、ともどもお聞きしたい気がします。
  さらに、加藤、吉川、林、松村諸氏の作品についてです。舌足らずだったかもしれませんが、例えば、貴兄の「NO WARとさけぶ人々過ぎ行けリそれさえアメリカを模倣して」の一首についていえば、こんな感想をもちました。「NO WAR」というデモ表現に追い込まれている現実に対して、作者は同時代者としてどのような感じをもっているのでしょうか。吉川さん、デモに行ったことありますか。自己の意志を表現する一つの権利です。デモが万能だなんて、まったく思いませんが、自分なら意志をどのように表現できるか、デモを見ていても思うはずではないでしょうか。私の受ける感じは、作品にどこか冷えを感じるのです。それが当事者意識の希薄という評になっているのです。それは加藤さんの作品に典型的にでているでしょう。「おそらくは電子メールでくるだろう2010年春の赤紙」。僕なんか、真面 目ですから、そんな状態になってはならないとつい思ってしまいます(なるはずがない、させないともいえます)し、また他人事のような詠みぶりに「危機感がゼロのように見えてしまう」と書いたのです。ただ、注意してください。貴兄の、「小高の書き方は、I氏とよく似ている。自分より若い世代に対しては『危機感がゼロ』と決めつけてしまうのである」と書きぶりと、ずいぶん、ニュアンスがちがいませんか。「ゼロ」などと決め付けてはいません。
  ですから余計に、「I氏とよく似ている」という書き方も、乱暴のように思えます。
  吉川さんたちへの作品への批評が丁寧でないというご意見ですが、もしかしたらそうかもしれません。でも、吉川さん。小生の文章の全体の趣旨を読んでください。貴兄たちの作品について鑑賞・批評することが中心ではなく、現代における社会詠のむずかしさを問題にしているつもりです。もちろん、どう読まれようとも、それも仕方のないことですが。しかし、頭から否定などしていないつもりです。小生は結論部分でこう書いています。

「岡野弘彦たちは巧緻だが、外部に立たざるをえない。そうでないと、歌えないからだ。加藤たちは内部から詠もうとする。自分の気分に正直に対象を掬おうとする。すると、作品は観察に終わる。つまり自分たちの言動が、対象やテーマに近接できないという断念が透けて見えてしまう。ともかく社会を歌えばいいという素朴な意見は論外であるが、社会や世界に関心を持っていても、なかなか作品として結実しにくい。題詠に陥らず、かつ読者と感情を交換できる作品とは、どういうものだろうか。現代短歌は困難な場面 にたたされている。」

 こういうところに、できたら吉川さんの感想が聞きたいのです。
  付け加えていえば、行動の面で、一歩でも二歩でも、私たちはもうすこし足を踏み出してもいいのではないかという気がします。教育基本法改正はじめ、すべての場面 で、状況はひどすぎませんか。短歌の議論からそれるかもしれませんが、「NO WAR」でもいいではないですか。「アメリカの模倣」でもいいではないですか。率直な意志を表現していいのではないですか。戦争反対の意志を示したいならば、思い切ってデモに参加してみると、また、現実が違って見えてくる。そんな気もします。別 に強制することではありませんが、個人的な小生の感想です。こういういい方はまた体験主義といわれるかもしれませんがね。個人の問題よりも、私たちを包み込んでいる場の問題について、今後、またお話したいと思います。
  ですから「対話可能性」という提言、賛成です。またゆっくりと。京都の寒さはこれからでしょう。お大事に。

Copyright(C)2001 Seijisya.All Rights Reserved Warning Unauthorised Duplication Is Violation Of Applicable Laws.