〈対話可能性〉について
text : 吉川宏志
『現代短歌雁63号』に次のような文章が載っていて、ひどく残念な気がした。
「現在、なにがなんでも憲法を改正したいと思っている連中は、実に驚くべき無知と傲慢と低級な品位
で、発言してきている。そしてだれがきいてもデマとわかることを、平気で言う。そして国民の大半の支持が得られるという自信をもっている。」
個人攻撃をしたいわけではないので、筆者を仮にI氏としておくが、有名な歌人の一人である。I氏は若いころに徴兵された経験があり、その経験に基づいて戦争に反対している。そのことはよく理解し、彼の思いは尊重したい。ただ、憲法の条文と現実との間に矛盾が生じていることは否定できないし、現在のように解釈を曖昧にしながら、自衛隊の海外派遣まで進んでいる状況のほうがむしろ危険であると私は思う。もちろん、改憲論議は非常に慎重に行わなければならないが、かと言って「無知と傲慢と低級な品位
」と罵倒することが、正しい態度とは思えないのだ。結局I氏は、自分と意見の異なる人々と、対話を拒否しているのである。いくら正義感から出た怒りであっても、私はこのような言葉には寂しさを感じる。
* *
先週、大辻隆弘氏が批判していた小高賢の「ふたたび社会詠について」(「かりん」11月号)を読んでみて、私もかなり違和感をもった。小高は、
十字軍をわれらたたかふと 言ひ放つ 大統領を許すまじとす
岡野弘彦『バグダッド燃ゆ』
について、「その大統領の横槍じみた要請に応じているのは日本である。そのことに私たちは怒りや恥を感じているのだろうか。」と書く。私はこれを読んで、奇妙な印象を受けた。というのは、最近、小高の歌集を再読する機会があって、
湯気のたつ味噌汁前にこの夕べブッシュを的にまとまる家族
『液状化』
という一首を見つけ、イラク戦争を詠んだにしては何とも軽い歌だなと思っていたからである(食事中にテレビを見ながら、家族でブッシュの悪口を言い合っている場面
だろう)。小高は自分のこの歌に対しては「怒りや恥」を感じなかったのだろうか。評論は自分の歌のことは棚に上げて自由に書いてもいい、という考え方もあろう。けれども、他者を批判する前に自らを厳しく問い詰める姿勢がなければ、やはり評論は説得力を持たないように思うのだ。
さて小高は、私の
NO WARとさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して
『海雨』
などの若手歌人の歌を引き、「私は、このような作品にかなりの危惧をもつ。一体、社会と自分の関係をどう考えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう。」と批判している。けれども、「自衛隊だけではないが、多くのことをアメリカに依存している現実を、本当は俎上に載せなくてはならないはずだ。」という小高の認識と、私の歌の認識はそれほど遠くないように思う。むしろ、小高の言うような認識をどのように歌に詠むか、葛藤しながらこの歌をつくった記憶がある。たしかに挑発的な歌ではあるが、頭から否定しないで、もう少し丁寧に批判してほしいのだ。清原日出夫のフレーズを借りれば「ああいま欲しき理解ある批判」なのである。
小高の書き方は、I氏とよく似ている。自分より若い世代に対しては「危機感がゼロ」と決めつけてしまうのである。それでは対話は生まれない。
私は、社会詠の価値の一つとして〈対話可能性〉というものを考えている。たとえば小高が「うまく出来ているために、意外にひびいてこない」歌として引用しているけれども、
されど日本はアメリカの基地日本にアメリカの基地があるのではなく
馬場あき子『九花』
であれば、この一首をもとにして、いろいろなことを他者と語り合うことができるように思う。この歌の内容について反対の人もいるだろう。しかしそんな人でも、(狂信的な人でなければ)いろいろと議論したくなるのではないか。そのように議論を誘発し、一首を核にしたコミュニケーションを生み出すことも、短歌の大きな魅力なのではなかろうか(実際、歌会に優れた社会詠が出された場合、活発な議論になることも多い)。短歌は非常に弱い形式であり、政治や社会の前ではたいがい無力である。けれども、社会詠についてさまざまに語り合うことで、年齢や性別
や職業などを超えた信頼の輪が、小さいけれども生まれてくる。ささやかな営為であることは、私もよくわかっている。しかし本心から社会について語り合う機会が少なくなっている現在、それは決して無駄
なことではないように思うのだ。
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