〈感覚〉から一歩踏み出す
text : 吉川宏志
今年の角川短歌賞は、澤村斉美の「黙秘の庭」が受賞した。タイトルについて、選考委員から批判があったようだが、松本清張を連想させ(『時間の習俗』、『憎悪の化石』などの書名があった)、私はさほど違和感はもたなかった。
夢の机に拾ふレシートなめらかな紙には嘘があるやうな夜
骨がよく鳴るからだなりかなへびのポーズで骨としばらく遊ぶ
現在は良くも悪くも、〈感覚〉の繊細さ・特殊さを競う時代である。それはこの作者の歌にもよくあらわれていて、レシートのつるつるした感熱紙には「嘘があるよう」ととらえる感覚には、はっとさせられる(しかも「夢の机に拾ふ」とあるので、さらに朦朧としている)。二首目も不思議な歌だが、「骨」の歌は先行する永田紅にも多く(「骨が好きその全身に触れえざるかたき翳りを与えては今日」など)、その影響も受けているのではないかと思う。なめらかで硬い触感への関心は、今の時代の空気を捉えることにつながっているのであろう。
ただ、〈感覚〉がすぐれた若い歌人は、現在数多く存在する。数年前に角川短歌賞を受賞した佐藤弓生の『眼鏡屋は夕ぐれのため』が、ちょうど最近刊行されたが、〈感覚〉のおもしろさを前面
に押し出して勝負している印象を受ける。たとえば次のような歌。
こんなにもきれいにはずれる翅をもつ蝉はただひとたびの建物
胸に庭もつ人とゆくきんぽうげきらきらひらく天文台を
しかし、今回の澤村の歌には、そうした〈感覚〉を競う場所から、少しだけ突き抜けているところがある。
大学のそばで働く 大学は八年われを包みたる場所
一月に病みしかばそこでとどまりし研究ノート 日付は火曜
ひとりでも研究はできる 調べかけの書物に長い鉛筆をはさむ
昼過ぎて木陰の椅子は泣くためにある きみは研究をつづけよ
大学での研究を、病気のためにあきらめる経緯が、淡々と歌われている。若い学生であるから、さほど大きな挫折とはいえないかもしれない。けれども、研究者として生きられなかった悔しさや未練は、静かに読者の胸を打つ。
「生活実感」が希薄になっている時代だといわれる。特に若い世代からそうした声をよく聞く。しかし、そういう時代だからこそ、体験としては小さいけれども、生き方の問題を歌っていこうという考え方もあるであろう。おそらく「生活実感」とは、待っているだけでは表現できないものなのだ。ふだんの自分から一歩踏み出して、歌いにくいもの、歌うのがつらいものを詠もうとするとき、なまなましいリアル感は生まれてくるのである。
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