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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

新しい「てにをは」
text : 大辻隆弘

 斉藤斎藤の「ラーメン博物館としての短歌」(「短歌人」11月)は、日本語の「辞」と〈私〉の深い関係を説き明かす優れた文体論である。
 斉藤はこのなかで、本居宣長や時枝誠記の詞辞論を援用しながら、「詞」(名詞・形容詞などの自立語)と「辞」(助詞・助動詞・感動詞などの付属語)を区別 する。そして辞を「自立語に添えられた〈私〉の主観的な感情や立ち位 置をあらわすことば」であると規定している。
  辞は「〈私〉の立ち位置」を表す。逆からいえば、1つの文章の背後に1つだけの〈私〉の立ち位 置を措定しようとするなら、辞はひとつのルールに則らなくてはならない、ということになる。異なる文法体系に属する口語の辞と文語の辞が併置されてしまうと、〈私〉の立ち位 置そのものがあいまいになってしまうのだ。複数の立ち位置から叙述された文章の内容は、まるでキュビズムの絵のように、統一感を失ってしまうことになろう。
  このような斉藤の着眼は、短歌における〈私〉や「リアル」の問題を考える際に深い示唆を与えてくれる。なぜなら、もし斉藤の指摘するように、辞というものが〈私〉の認識の視点であるとするならば、〈私〉が世界をどのような枠組みのなかで見ているか、ということは、おもに辞のなかに表現されているということになるからである。
  辞は〈私〉の世界観の表出である。とすれば、作者の世界観が変化するとき、本質的には、そこに新しい「てにをは」(辞)が成立していなければならないことになろう。
  今、短歌の中に姿を現しつつあるのは、実はこの新しい「てにをは」なのではないか。

  人形が川を流れていきました約束だからみたいな顔で      兵庫ユカ
  使い方まちがわれてる駒のようだれもわたしと目を合わせない

 例えば、これらの歌に現れている傍線部の「てにをは」は、通 常の語感からすれば少しばかり危うい感じがするのではなかろうか。
  前者の「だからみたいな」は、本来なら「『約束だから流れてゆくよ』と言うみたいな」とでもすべきなのだろう。また、後者の「使い方まちがわれてる駒」は、今までの口語なら「使い方を間違った駒」というのが通 常だろう。英語の過去分詞のような受身表現を「駒」という名詞に直接接続する語法は、現時点において、日本語に定着しているとはまだ言い難い。
  このような新しく危うい「てにをは」の使い方のなかには、おそらく、若い歌人の新たな現実の捉え方のパラダイムのようなものが露呈しているはずである。「リアル」をめぐる議論は、歌われている意味内容の背後に隠れているこのような潜在的な認識の枠組みを明るみに出すことから始められねばならないのだろう。
  新しい「てにをは」に注目することは、リアルをめぐる迷宮から抜け出すための1つの方途なのだ。

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