島田時評に対する若干の整理
text : 大辻隆弘
島田修三の時評「まわって来たツケ」(短歌現代5月)が反響を呼んでいる。遅ればせながら、この時評が指摘している問題点を私なりに整理しておきたいと思う。
島田によれば、近代という時代は、情況や組織や家族や恋愛といった葛藤があった時代である。が、バブル時代に青春を送った穂村や俵の歌には、そのような近代的な葛藤がない。その意味で彼らの作品は、現代短歌におけるポスト・モダンの嚆矢であり、時代の雰囲気を掬いとっていた。
しかしながら問題は、そのような穂村・俵の「屈託のない歌」が検証されることなくなし崩し的に市民権を得て、後続世代の「短歌の範型」となっていった点にある。
バブル期に登場した穂村・俵は、シリアスなものと葛藤する必要がなかった。したがって彼らの歌は、現代短歌が時代との葛藤のなかで獲得してきた修辞(たとえば文語・暗喩)を継承してはいない。それが範型として後続世代に伝播した結果
、若者たちの歌には「修辞レベルでの武装解除」(穂村弘)が起こり、日常の平板な口語でしか歌えなくなってしまった。
そのような若者たちの修辞や語彙の貧困は、結果として、彼らの「思考認識レベルでの武装解除」を引き起こす。バブル崩壊以後に青春を迎えた彼らの目の前にある現実は、きわめてシリアスである。にも関わらず、彼らは、それを認識し表現するような語彙や修辞を持ち合わせていない。その結果
「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」(永井祐)といった「脱力感」を感じさせる歌だけが流通
してしまうことになる。
以上、島田の時評の論旨を、私なりに補いながらまとめてみた。このようにまとめると、島田の指摘している問題はかなり深いことに気づく。注意すべき点を箇条書きにしておく。
・島田は穂村と俵を全否定してはいない。個人的な好悪は別にして、少なくとも、彼らのデビュー時の歌は時代の雰囲気を捉えていたと島田は考えている。
・島田が問題にしているのは、若い世代の歌人たちがシリアスな現実に直面
しながら、それを認識し、それと対峙するための語彙や修辞を持っていない、という事態である。それは表現や修辞の問題と深く結びついている。
・したがって、島田が言おうとしていることは本質的には「現実から逃げるな」といった態度論・生き方論ではない。また、穂村・俵や若い歌人たちの生き方を直接的に非難したものでもない。
この島田の時評に対して、菊池裕(開放区76号)、服部文子(中部短歌8月)、斉藤斎藤(短歌人10月)らが賛否両論の立場から意見を述べている。黒瀬珂瀾(未来9月)の時評もこの問題と関わっていよう。
島田の言い回しは、いつもながら、きわめて挑発的である。したがって、これらの反応にはやや感情的な反発に衝き動かされているものもあるようだ。詳論は別
の機会に譲るが、これらの意見は、どれもどこかで島田の主旨を微妙に取り違えているように思われてならない。
島田の発言の主旨を捉えた本質的な議論が望まれる。
|