感情と言葉のズレ
text : 吉川宏志
松村正直の第二歌集『やさしい鮫』は、どのページを開いてもシャープな発見があって、歌を読む愉しみをもたらしてくれる一冊であるが、私は次のような歌が不思議に印象に残った。
差し入れの蜜柑がふたつ「嬉しい?」と訊かれるたびにかなしくなりぬ
子が乳を飲まなくなりし寂しさというを聞けどもついにわからず
理由あまた列挙してきみは辞めてゆくおそらく一番の理由は言わず
後悔はしていないと強く言い張るもまた後悔のかたちならずや
一首目は妻の出産を詠んだ一連の中にある歌である。まだ自分の子供ができた実感もない状態なのであろう。けれども、「嬉しい?」と聞かれたらとりあえず「嬉しい」と答えるしかない。自分の言葉に裏切られているような感覚が捉えられていて、よくわかる歌である。その他の歌でも、感情を言葉にしたときにどうしても生じてしまうズレに、松村は非常に敏感である。もちろんそうした言葉の不可能性は、従来から論じられてきたことであるが、松村の場合、そのズレが自責の念につながってゆく。「向き合って君と食事をしておれどかなしみ方がよくわからない」といった歌にそれがよく表われているだろう。言葉で感情を明確に表現できないために、他者を傷つけてしまう悔しさを、松村は繰り返し歌っているのである。
バスケットゴールがひとつ垂れており毛布にねむる被災者のうえ
ソウルより釜山へ向かう番線に「上り」とありて古書店の地図
その一方、自分から距離をとれるものに対しては、じつに鮮やかに観察眼を働かせている。それが災害や戦争であったとしても。単純に言えば、遠くのものはよく見えるのに近くのものは見えない。そんな生の切なさが、この歌集の大きなモチーフであるだろう。『やさしい鮫』というタイトルであるため、子供を詠んだ優しい歌ばかりが注目される恐れもあるが、そんな一面
だけで評価するべき歌集ではないようだ。
逝かせじと声かけしときわが肩を掴(*)みし手力(たぢから)在りて最後の
蒔田さくら子『サイネリア考』
いかなれば左目のみに湧く涙おそらく右目は死を忿(いか)りゐむ
このバスの終着に友病みをりと否病みをりきと言ふべくなりぬ
蒔田の新歌集は、親しい友人(おそらくは高瀬一誌)の死を詠む。悲しみや悔しさを、理知的でありつつ迫力のある文語体で表現していて、瞠目した。「わが肩を掴みし手力ありて最後の」といった強い韻律が、読者の胸を打つのである。感情と言葉がズレるのが真理であるならば、言葉のリズムが感情を生み出すことも真実なのであろう。
*「掴」は原作は旧字。手偏に「國」。
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