時代と調べ
text : 大辻隆弘
80年代に登場した歌人のなかで、加藤治郎ほど時代と短歌の関係を意識してきた歌人はいない。
その姿勢は20年経ったいまも変わらない。彼は角川短歌7月号に「未知の短歌のために」という小文を書いている。その中で彼は「直面
する時代に歌人の精神が軋む。それに応じてリズムは変るが、57577の詩形は変らない。これが伝統詩形が現代に生き続ける鍵なのである」という。57577という外的形式のみを短歌の必要十分条件として捉え、そのなかで、どれだけ「新しいリズム」を生み出せるか。彼はその一点にのみ、今なお、現代短歌の可能性を見て取っているのである。
その加藤の第6歌集『環状線のモンスター』が出版された。例によって、時代の病根を見つめた作品が数多く収録されている。
けーけーけーと禽が見おろす駅前のそれはおそらく足なのだろう
練炭の小さな孔に降りてゆく男かも女かも、ぬばたま
一首めはチェチェンの自爆テロを、二首めはネットによる集団自殺を扱ったものだ。しかしながら、残念なことに、時代の病根を歌いながら、これらの歌には衝撃力がない。既視感にまみれている。もっとはっきり、自己模倣だと言ってもよい。これらの歌の文体や調べは、彼の従来の彼の5歌集の範囲を1歩も出ていないのである。
95年のオウム事件を扱った加藤の連作「春のパラサイト」は、確かに「直面
する時代に歌人の精神が軋」んだ傑作だった。あそこで歌われたオノマトペや幼児語を多用した文体上の冒険は、たしかにあの事件の本質的な禍々しさと共振したものだった。それは、生身の加藤の実存的な不安と根底的なところで結びついていたはずだ。
が、『環状線のモンスター』の時代詠には、文体と調べの「軋み」がない。「新しいリズム」を生み出すことを至上命題とする加藤の短歌観からすれば、この歌集は、彼自身の命題に応えていないことになるだろう。
が、時代とリズム(調べ)というものの結びつきは、決して直線的なものではない。時代の醜悪さが、そのまま調べの醜悪さに直結するとは限らないのだ。
黄昏の革の鞄のやわらかく抱きよせるとき声は濁った
足の甲重ねて釘は貫けり美しき世界よ君の居しころ
私はこれらの歌に加藤の新たな一面を見る。これらの歌には、分厚い肉体や、かつて人間が持ちえていた信仰というものへの深い希求が描かれている。これらの歌の落ち着いた文体やリズムが逆照射しているのは、肉体や、純粋な祈りというものが滅びつつある現在の状況そのものだろう。
時代と調べの深層的な結びつきは、意外に、このような歌にこそ体現されているのではなかろうか。
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