穂村弘という現象
text : 吉川宏志
穂村弘の最近の歌を論じるのは、非常に難しい。短歌自体は、
このボタンを押したらスチュワーデスが来る押したらスチュワーデスが来るんだ
角川書店「短歌」平成17年12月号
といった実にたわいのないものが多くて、批判することは簡単だ。けれども、それで終わっていいのか、という感触も何故か残るのだ。
現在の若い世代は、他者と関わるのが怖いのだそうである。じつは私も人づきあいが苦手なほうなので、大きな顔はできないのだが、それでも生きるためには他人の間に飛び込んでいくしかないときがあった。けれども現在はインターネットなどが発達したことにより、他者と接触しないでも生きていけるという幻想がリアリティーをもつようになっている。スチュワーデスの歌は、そのような自閉した時代状況の比喩としても読めてしまう。爆弾のボタンじゃあるまいし、何も恐れることはないのに押せない。スチュワーデスという異性が、他者が、怖いのである。
もちろんこれはあくまでも深読みであって、この一首の内容は空虚である。けれども、空虚であるからこそ、読者はそこに何らかの意味を見つけようとする。そして多くの場合、〈時代の病理〉が見つかる。たとえば山田富士郎は、「世界も人間も断片化するのは必定」「過去も未来もなく、作者の生理的、精神的年齢が反映することもない」(「短歌現代」8月号)と述べるのだが、どこか過剰であり、歌に対する批判を超えて、現代の日本に対する怒りにつながっている。穂村の歌は、そうした怒りを飲み込んでいくことで、実体以上に存在が大きくなっていく。カリスマ性は、ゼロを孕むことから生じるのである。
夕闇の卓に転がる耳掻きの先にちいさな犬が乗っている 同
私は、穂村の歌の、ささやかで奇妙な幻想を好む者である。けれども、どうしても時代の象徴として読まれてしまうところに、穂村弘の幸と不幸があるように思われる。
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