事実と表現の間
text : 吉川宏志
偶然ではあるが、死産を詠んだ女性の歌集が二冊刊行されている。
身体とはげに素直なり娩出をすればすなわち母乳が出ずる
荒井直子『はるじょおん』
まなぶたはまだあらざりき死にし子は灰色の眼を見開きている
しずかなる医師のことばを聞いているわれはひかりを産んだのだろうか
江戸雪『Door』
食パンのような重さに逝きたると夜空よりふる雨を見上げる
荒井の歌は、ひたすら即物的に子供の死を描写する。胎児にまぶたがなかった、というのは非常につらい事実だが、作者は見たものをそのまま書きとめる。見たくないものを直視しようとする覚悟が、読者に強く激しい印象を残すのである。
一方、江戸の歌には死んだ子供の身体はまったくあらわれない。「ひかり」「食パンのような重さ」という言葉で象徴的にとらえられる。なまなましい事実から解放することによって、死児を静かに美しく鎮魂しようとしているかのようである。
荒井と江戸の歌い方のどちらがよいかということではない。厳しい現実に遭遇したとき、どのような言葉でそれを表現するのか。そのぎりぎりの瞬間に、作者の生き方や思想は鮮明にあらわれるのであろう。歌に詠まれたことが「事実」かどうか(昔からよくある議論だ)に、リアリズムの本質があるのではなく、その先にもっと大きな問題があることを、これらの歌は示している。自分の力ではどうにもならないものを、言葉で奪い返そうとする意志が、リアリズムの源泉であるとも言える。
死に近くねむる母の手あきらかにわれとはちがう生のありたり
江戸雪
『Door』は、もう一つ微妙な問題を投げかけている。こうした歌に詠まれた「母」は作者の実の母ではなく、夫の母(義母)だったのである。私は、「事実」と違うからと言ってこのことを批判するつもりは全くない。短歌で「義母」や「夫の母」といった言葉を使うのは難しい。「母」として詠んだほうが直接的でドラマティックになるわけだ。ただそれによって、いかにも短歌らしい悲傷性を帯びてしまうのも確かである。難しい注文なのかもしれないが、あえて「義母」という言葉に踏みとどまり、困難な道を選んでほしかったという気持ちもないではない。
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