近藤芳美の終焉
text : 大辻隆弘
歌人の死にざま、ということを考える。死を前にして、その歌人は何をどう歌ったか。そのことのなかに、その歌人の本質が現れ出てくるような気がするからだ。
その意味で、近藤芳美の最晩年の歌は印象ぶかい。彼はここ半年、「未来」のなかに実に魅力的な歌を発表しつづけていた。それはたとえば、次のような歌である。
生と死ともとよりなしと知ることの老いの極みの救済が生る 未来4月号
なにより剛毅な歌だと思う。人間にはもとより生も死もない。あるのは絶対的な「無」だけだ。が、その「無」しかないことこそが、今自分には「救済」なのだ……。この歌で近藤は、そう言っている。
ここで近藤が見つめているのは、人間の存在そのものにひそむニヒリズムである。自らの死を前にして彼は、そのニヒリズムから眼をそらさない。真正面
から凝視しようとしている。この歌において彼は、彼が目指してきた「思想詩」を、自らの存在をかけて完成しようとしている、と言ってよい。
このような理念が凝縮された高度な思想詩がある一方、最晩年の彼は、第1歌集『早春歌』を想起させるような清新な抒情歌を多く発表してもいる。
遅れ咲く金木犀にあくまでもひかりは澄めり秋空の下 未来2月号
金木犀いずくを匂う下陰の道を入り来て行く手に迷う
実に平明な、澄み切った抒情であろう。これらの歌で近藤は、まるで歌を作り始めたころの少年のように事象から喚起される情感に身を任せている。可憐、とさえ言いうる歌々である。
諦念に裏づけられた高度な思念と、「もの」に即した可憐な抒情。思えば近藤の長い歌歴は、そのふたつのものの間で揺れ動き、引き裂かれてきた道程であった。彼の最晩年の歌は、そのことを私たちに改めて認識させるのである。
それにしてもこれらの三首の歌の透き徹った調べはどうだろう。これらの歌は、すべて57577の定型に即している。近藤芳美の後期の歌の特徴であった難渋な破調や無理な助辞の斡旋はまったくない。歌が歌であることの充足感だけが、これらの歌に満ち満ちている。
このような最晩年の歌の高い短歌的完成度は、私たちを困惑のなかに突き落とす。一般
には理解され難かった彼の難渋な歌が、死の直前に一掃されたこと。それを偶然として考えるか、必然として考えるか。それによって、近藤の後期の歌の評価は、おのずから変わってくるにちがいない。
近藤芳美にとって短歌とは何だったのか。短歌にとって戦後という時代はどんな意味を持っていたのか。近藤芳美が終焉に際して残した優れた歌群は、その問題の前に、私たちをあらためて引き出してゆくのである。
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