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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

話題になっております小高さんが「かりん」11月号に書かれた
「ふたたび社会詠について」を転載させていただきました 。
こちらをクリックして是非お読み下さい。

「ふたたび社会詠について」
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先週の時評に対して小高さんから感想を頂いております。
こちらをクリックして是非お読み下さい。

「吉川宏志さま」
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歌における「認識」について
text : 大辻隆弘

 前回の私の時評に対して、小高賢氏より反論を頂いた。確かに、小高氏の言うように、氏の論文は「現在短歌における社会詠のむずかしさ」について論じたものであり、「正しい社会詠」の必要性を正面 から説いたものではない。私の時評の題名「正しい社会詠?」という題名が、氏の論文の主旨を歪曲する危険性を含んでいたとすれば、率直にお詫びしたいと思う。
 しかしながら、それでもなお、私にはあの論文の主旨には首肯できないものが残る。それは主に2つのことに関連する。以下「1」「2」において、それを逐次述べたい。

【1】

 ひとつめは、小高氏の短歌に対する批評態度への疑問である。
 氏は論文のなかで、馬場・佐佐木・小島らの作品に対して、次のように言っている。

「私たちはこの作品をどう感受しているかという点である。怒りとか、切迫感をうしなっているのではないか。『なるほどなあ、そうだよなあ』で終っていないだろうか。」「作者が外部に立っていることで、読み手に題詠的にしか感受されないことから来ている。」

 その反面、氏は「新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな」(土屋文明)「中国に兵なりし日の五ヵ年をしみじみ思ふ戦争は悪だ」(宮柊二)「世をあげて思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ」(近藤芳美)の歌を例に挙げて、次のようにも言う。

「先にあげた馬場などにくらべ、かなり素朴なつくりである。技巧的でもない。直叙的だ。しかし、それゆえに読み手に届くものがある。その差。これは私たちに到来している困難さではないだろうか。」

 まずもって、私が納得できないのはここで氏が「私たち」という主語を使っていることだ。前者の作品を「題詠的にしか感受できない」、後者の作品を「読み手に届くものがある」とする、という感想は、基本的には氏自身の個人的な感想であろう。その個人的な感想を、すぐさま「私たち」という読者論的な「場」の問題、「読みの場」の問題に敷衍すること自体、私にはやや粗暴な論理展開だと感じられる。
 百歩譲って、前者が万人の胸に「題詠的」と感じられ、後者が万人に「届く」ものだとしよう。が、氏の論の論理展開では、後者が万人に「届く」のは、作品が「直叙的」であるからであり、前者が「題詠的」なのは「技巧的」であるからである、ということになってしまうだろう。
 もちろん、氏が言いたいことはそうではないのだろう。土屋・宮・近藤の歌が、私たちの胸に届くのは、おそらくそこに作品以外の作者や時代背景の理解(戦前・戦後の時代背景の理解と、その時代のなかで生きた3人の生き様など)に対する私たちの理解があるからであり、その背景に照らし合わせて、この作品の内部の言語表現を味わうからだ。しかしながら、氏は、当然必要と思われるそのような作品の「場」の解釈と作品の読みを提示しないまま、情況論に移っていってしまう。
 また、小高氏は、私への反論のなかでこうも述べている。

「(私の論は)現代の社会詠の問題、とりわけ受け手である私たちの当事者意識の希薄化(個人の姿勢というのではなく、そういう構造に巻き込まれてしまう現実)にまで議論をすすめたつもりです」

 少なくとも私には、当初の氏の論文において、氏は作品の解釈を通 して「当事者意識を希薄させる構造」を導き出しているとは思えなかった。むしろ氏は、氏自身の感覚を無条件に敷衍し、作品の読みに先行して、歌人のなかに「当事者意識の希薄化」がある、という思い込みをし、その思い込みに基づいて作品の「読み」を行ったのではなかったか。
 批評はまずもって、その対象そのものへの心を空しくした接近から始めなければならないだろう。作品外部から、あらかじめ措定した枠組みを嵌めて批評を始めてはならない。たとえそれが「読みの場」を巡る議論であっても、作品そのものへの虚心坦懐な接近をないがしろにしてよいはずはない。もちろん、歌壇随一の批評家である小高氏にこんなことを言うのは失礼だろうが、すくなくともあの論の場合、私には、そのような批評の常識を遵守しようとする姿勢は希薄に感じられた。以上が、小高氏の評論に対する第1の疑問である。

【2】

 しかしながら、私が氏の批評態度以上に疑問を感じたのは、(「正しい」という語は用いないまでも)氏が「望ましい」と思っている社会詠のありかたについてであった。「社会詠を巡る読みの場のありかた」と言い換えてもよい。
 氏は、私への反論のなかで「『正しい社会詠』なんてあるわけがありません。自明のことです」と言う。が、氏の評論と反論からは、氏が「望ましい」と感じている社会詠のありかたはおぼろげながら浮かびあがってくる(傍線は大辻)。

「吉川宏志の場合も同様である。だからどうなのかという視点。それに自分は何なのだろうかという照り返しが少ない。松村の作品も吉川に似ている。社会の現実とどこか切断されている。そこに自分を差し出して、対象と自分という二分法を変化させるという欲望は希薄である(評論)
「社会詠にむかうとき、少なからず『外部』に立たざるをえない。それは誰しも実感するところでしょう。と同時に、作った後、その作品のもつ『外部』性がくっきり見えることによって、自分自身の認識が動かされることがあるはずです。そこが社会詠の大事なポイントだと私は思っています」(反論)
「歌ったあとの、作者・読者を包含した認識や感覚の変化こそ、社会詠において、大事にするものだと思っています。」(反論)

 社会事象に対して「自分は何なのだろう」と当事者意識を持つ。社会詠を詠むことによって、作者の「認識」が動かされ革新される。社会詠を読むことによって、作者・読者の「認識や感覚」が変化する……。小高氏は、現代の社会詠に欠けている性格を以上のような点に見ている。それを裏返すなら、以上のような性格を持ち合わせたものこそが、氏にとっての「望ましい」社会詠だと言ってよいのだろう。ここには、社会詠の意味を、作者・読者に当事者意識を喚起し、作者・読者に新たな「認識」をもたらすところに認めようとする小高氏の態度が顔を覗かせているように思われる。
 私が小高氏の論に違和を感じるのは、このような「認識」優先の小高氏の短歌観そのものについてである。
 小高氏が、なぜ岡野弘彦の『バクダット燃ゆ』に共感を覚えながら、この歌集を全面 的に認めることができなかったか、という問題も、煎じ詰めるとこの「認識」優先の小高氏の社会詠観によるのではないか。
 一首一首に即して論じる暇はないが、私自身の感想を言えば、岡野の『バクダット燃ゆ』は、自己の戦争体験とそこから湧き出る理不尽な暴虐に対する憎悪が一体となったすぐれた歌集だと思った。そのファナテックな情念の奔流は、句読点を多用した表記とあいまって私の胸を打った。日米安保体制への認識うんぬ ん以前に、その情念の奔流そのものに異様な迫力を感じた歌群だったといえる。
 私と小高氏のこの歌群に対する評価は、おそらく「認識」以前のこの情念の奔流をどう評価するかに関わってくるのだろう。
 古い話になって恐縮だが、小高氏は9・11テロのときに、真実がわかるまで、テロを歌わないという態度表明をした1人だった。私は当時、「未来」の時評でそのことに対して批判の言葉を発したことがある(セレクション歌人「大辻隆弘集」所収「日和見といふこと」初出02・8月)。あのときの氏の対応は、まさしく短歌を「認識の器」として捉える氏らしい慎重な誠実なものだったと思う。そのような姿勢からすれば、氏が岡野の歌群を全面 的に承認できないのも分るような気がするのである。
 が、私は思うのだ。社会詠は、社会批評である前に、第一義的には「うた」である。それは「認識」よりも、「感情」「情念」により近いものである、と思う。社会詠において「認識」を優先したとき、そこには、情念に基づいた歌を忌避し、冷笑する危険性が生まれてくるような気がする。私があの当時、小高氏に対して感じた不満も、そのような点に関わっていたのだ。
 「正しい社会詠」などといったものはない。あるのは、いい歌と、ダメな歌だけだ……。私は前回の時評の結語をそう結んだ。その言葉は、社会詠は「認識の器」である以前に、「うた」であり、「うた」である以上、その原点に即して批評し論じるべきだ、という、従来からの私の短歌観に基づいたものだったのである。
 無論、短歌観は個々人のものであり、小高氏の短歌観そのものは尊重したいと思う。氏と論じあうことによって、私と氏の短歌観の差異が明確になれば、それはそれで建設的な対論になるだろう。小高氏の反論に感謝する所以である。

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