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週刊時評 ◆ |
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)
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文語のちから
text 大辻隆弘
阿木津英の第5歌集『巌のちから』が出版された。前歌集『宇宙舞踏』から、なんと13年ぶりの歌集だという。その年月の意味を考えざるを得ない。
「あとがき」のなかで阿木津は「およそ十三年間、歌集を出さないできた。そのことのもつ意味は、自分にもわからない」と述べている。阿木津自身にもわからないというその長い沈黙の意味に私は、深い感慨を覚えるのだ。
一冊を読み通して感じたのは、圧倒的な文語の力である。 青空の老い衰へてゆく窓めわれはも椅子にもたれて眠る
わが窓をかそかに過ぎてゆくらしもけやきのもみぢ黄葉うつあめの音
たとえばこれらの歌では「われはも」「らしも」といった重厚な助詞が使われている。単なる「われ」や「過ぎてゆくらし」では現れ出ない深々とした詠歎が調べの背後から浮き上がってくるような感じがする。おそらく現歌壇においてこのような重厚な助詞を、違和感なく使える歌人は稀有であろう。
すでに前歌集『宇宙舞踏』がそうであったように、阿木津は口語隆盛の現在の短歌の状況のなかで、徹底的に文語の力を信じ、それに賭けている。その文語への執着が、阿木津を孤高の立場へと追いやり、阿木津に沈黙を強いたものだったのではないか。
このような文語の力は、例えば次のような実人生上の出来事を歌うとき、圧倒的な力を発揮している。
死んでゆく感じといふを告げむとす下とつとつと姉なるわれに 暗黒にひかり差し入りたましひのぬ
抽き上げられむあはれそのとき 夕照りのたかむら竹群撓ひなびきてはうちかへ反りゆく大窓に見ゆ
最愛の妹の死に接したときの歌々である。たとえば、三首めの歌の「なびきては」の「は」の働きはどうだろう。これによって、小刻みに揺れる竹の姿と、妹の死に接したときの動揺が確実に読者に届けられる。また第四句「うち反りゆく」のあとにある深い断絶にも、作者の嘆声がこもっているような感じがある。
また、阿木津は、みずからが直面した「貧」の実相を真正面から歌ってもいる。
己ともあらざるてい体に雑鬧のちまた衢をあゆむ購ふか購はぬか
キャベツの葉あら粗刻みして食らひをり昼曇りせるへやにしわれは
逼迫した経済状態のなかでコンピューターを買うか買わぬか、思い惑う様をあけすけに描いた一首め。キャベツの葉を食らう姿を描いた二首め。どちらも、人間のさもしさの実相が重厚な文語によって歌いとめられている。そこに、なにか人間のどうしようもない「業」のようなものが浮びあがってこよう。
私は『巌のちから』のなかに、まさしくその題名同様の文語の力を感じた。この歌集には軽薄で、あさはかな口語短歌隆盛の時代を、ひそかに、しぶとく生き抜いてきた歌びとの孤高の姿が刻印されていると思う。
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