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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

評伝の条件
text 大辻隆弘

 大井学の『浜田到−歌と詩の生涯』は、ふたつの点においてすぐれた評伝である。ひとつは、浜田到という歌人の個人史を浮き彫りにしているという点で。そして、もうひとつは、浜田到の短歌観を明晰に析出しているという点で。
 浜田到には「孤高」という印象が付きまとう。彼の個人史は詳しく知られてはいない。大井は、浜田の夫人が収集した資料を丹念に読み解くことによって、この歌人の生涯、特に前半生をあざやかに描きだしている。
 サンフランシスコ生まれの浜田は12歳のときに実母を失い、継母との折り合いの悪さのなかで孤独感を深めてゆく。その孤独感のなかで出合った廣瀬富子(後の浜田夫人)は彼の「詩神」となり、浜田はそのなかで自分の短歌と詩を深めてゆく。大井は、今まで世に出ていなかった浜田の若年期の文献を丹念に読み解くことによって、彼の文学的な出発を、個人史と絡ませながら描きだすことに成功している。
 大井はまた、浜田の手元に残されていた書簡類を精査することによって、浜田を世に出した中井英夫との親和と反発を見事に描き出してみせる。それによれば、浜田は昭和34年、中井の推挽によって短歌総合誌へのデビューを果 たす。彼は当初、中井のプロデュースに忠実に従おうとした。が、中井のプロデュースは執拗だった。浜田は、やがて、その中井の強引さに辟易し、自らを見失ってゆく。編集者の意図に振り回され、疲れ果 ててゆく浜田の姿は、非常に痛ましい。大井は中井の書簡や、浜田の返信(下書き)を丹念に追いながら、2人の出会いと別 れを描きだしているのである。
 が、この評伝の素晴らしい点は、単にそのようなスキャンダラスな事実の掘り起こしのみによるものではない。この評伝の素晴らしさは、むしろ、浜田到の短歌観を明確にしている点にあるといってよい。そういう面 で興味ぶかいのは、塚本邦雄の定型観と浜田のそれの差異を詳しく検証した後半部分の記述である。
 塚本は、短歌定型に纏わる叙情性を排除し、短歌定型を31音という外形としてのみ捉えようとした。が、浜田はそのような塚本の機能論的な定型観には同意できなかった。大井によれば、浜田は、塚本短歌のなかには「感情の論理/デリカシー」が欠けていると感じていたのだった。浜田にとって短歌は、年少の頃から親しんでいたものであり、おのずからなるものであった。短歌形式は31音という外形ではなく、もっと生得的・潜在的なカテゴリーとして浜田の身体の中に息づき、血肉化されていたのである。
 大井は、浜田の歌に頻出している「破調」の必然性を、彼の定型観に基づきながら次のように説明する。

しかし、到にとって「歌」とは形式なのではなかった。年少の頃から慣れ親しんだ形式である短歌は、到の生活における詩の記録形式であったが、その「詩」を制約する必須の条件なのではない。(略)そしてこうも言える。詩に対して潔癖であろうとした到にとっては、短歌形式は暗黙的な概念形式としてあり、その律は潜在的に感じられれば良いものであった、と。破調の多い到の作品が、それでも「短歌」として受容されるのは、到の作品の中に「暗黙の律」があるからではないだろうか。

 このような指摘は実に見事だと思う。「形而上学的」「リルケ的」といったキャッチフレーズで語られがちな浜田の短歌の思想的源泉を、大井は的確に指摘している、といってよい。
 しかしながら、大井は思いつきでこのような結論を書いたわけではない。大井は浜田の残したアフォリズム的なメモ書きを丹念に読み解いた結果 、このような結論を帰納的に導いたのである。その手つきは、きわめて精巧だ。私は、唐突だが、こまごましたメモやの書き込みからニーチェの思想の真髄を析出していったハイデガーの名著『ニーチェTU』の手法を思い出したりした。
 評伝は、まずもって対象人物の人生を明らかにするところから始まる。が、それだけでは単なる伝記に過ぎない。その人物の人生の背後にどのような思想があり、その思想がその人物の人生をどのように導いたかを追跡することによって、伝記は文学となり、評伝となる。大井学のこの書は、そういう評伝の条件を全き意味で満たしている1冊だと思った。

 
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