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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

評伝ブームの背景
text 大辻隆弘

 今、短歌評論は、評伝ブームである。 実際、ここ1・2年、短歌評論の分野では注目すべき評伝が多く出版された。青井史『与謝野鉄幹 鬼に食われた男』、三枝昂之『昭和短歌精神史』、秋元千恵子『含羞の人 歌人・上田三四二の生涯』、喜多昭夫『逢いにゆく旅』、水沢遙子『高安国世ノート』。これらはどれも筆者の情熱が伝わってくる丹念ないい仕事だったと思う。
 このような評伝ブームは今年になって、ますます隆盛を極めている。この欄でも取り上げた坂出裕子『無頼の悲哀 歌人大野誠夫の生涯』、大井学『浜田到 歌と詩の生涯』、さらには、最近出版された山本司『初評伝・坪野哲久 人間性と美の探究者』などは、大野誠夫・浜田到・坪野哲久といった、従来闇に包まれていた歌人たちの個人史を、膨大な資料を駆使して描き出した本格的な評伝だといえる。
 これらの評伝に共通するのは、その歌人の生き様に対する深い興味関心である。ひとりの人間が、どのように生き、どのように他者と関わり、そこで何を考えたか。そこに想像をめぐらすことによって、ひとりの人間の生の全体像に肉薄したい。評伝の背後にあるのは、そのような筆者の情熱だといってよい。
 このような評伝の性格は、一見すると「作者」を絶対視する近代主題への回帰であるかのように見える。これらの評伝には、「作者」と「作品」を峻別 するポストモダンの批評理論の成果が、全く生かされていないではないか。そんな苦虫を噛み潰した批判も、一部の外野からは、聞こえてきそうだ。
 が、実はそうではない。最近の評伝には、以前の評伝にはないひとつの傾向がある。それは、これらの評論の多くが、「作品」の解釈と「作者」の個人史を厳密に峻別 している、という点である。
 たとえば、前回私が取り上げた大井学の著作では、浜田の個人史研究と作品論はきびしく区分けされている。そこには、「作者」の個人史から個々の「作品」を解釈しようとする近代的な批評の方法論に対する盲信はない。大井の著作だけではない。もちろん例外もあるが、最近の評伝は総じて、「作者=作品」という定式を信じてはいない。「作品」と「作者」を厳密に峻別 し、その上で、作者の人生そのものに焦点を当てる。ほとんどの評伝はそのような方法を用いている感がある。
 作品よりも作者の人生に興味を感じる。それは、ある意味、下世話で、スキャンダラスな関心かもしれない。が、ひとりの人間の生の全体像を見きわめてみたい、という情熱は、「人間とは何なのか」という人文学的な探求とどこか本質的な部分で繋がっていることは確かだろう。そして、そのような生の全体性は、テキスト論ではすくい取れなかったものだったといってよい。
 前回、吉川宏志がこの欄で主張しているように、短歌は、第一次的には、あくまでそこに書かれている言葉そのものに即して読まれるべきものである。そのような「〈言葉〉読み」(吉川)を確立するために、テクスト論はきわめて有効な方法論であった。なぜなら、テクスト論では、まずもって、作品そのものをテクストと見て、その内在的な解読の精緻さが求められていたからである。
 が、その一方でテクスト論は、作品を作者から切り離そうとするあまり、作品を自分勝手な文脈で解釈することをも許容した。たとえば、短歌を現在の言語状況と結びつけて解釈する。短歌を社会現象という文脈に結び付けて、軽やかに自由に解読する。テクストを「作者」というコンテクストから解放したポストモダン批評は、そんな風に、逆にそれを任意の外在的コンテクストに恣意的に結びつけてしまうという危険性も持っていたのである。前回、吉川が批判している「〈現象〉読み」(吉川)は、そのようなテクスト論の野放図さが齎した読み方だといってよい。
 作品の内在的な解釈に自閉する「〈言葉〉読み」と、恣意的な読みを許す「〈現象〉読み」。その二つの傾向を併せ持つテクスト論のなかで、作品の背後にあるひとりの人間の生の全体性は、常に不問に付されることになってしまった。その生の全体性は、功罪あわせつポストモダン批評の空隙に置き去りにされたものだったのである。
 現在書かれつつある評伝は、「作品」と「作者」を峻別するという点で、テクスト論の恩恵を蒙っている。が、それと同時に、現在書かれつつある評伝は、テクスト論では不問に付されてきた全体的な生への顧慮を回復しようとしている。それは、大きな意味のある営為であるように、私には思われる。
 ポストモダン批評の方法論を通過していない評伝はもはや独善的であろう。ポストモダン批評の成果 を獲りいれつつ、その空隙を補完する。そんな評論が、これからも多く書かれることが望まれる。

 
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