「テクスト理論」的読みを超えるために
text 吉川宏志
平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(2006年PHP新書)をたまたま書店で見つけて読んだ。一種の入門書なのだが、とてもおもしろかった。おもに小説の読み方について書かれているのだけれど、「助詞、助動詞に注意する」という章もあったりして、短歌(歌集)を読む場合にも当てはまることが多い。
特に興味深かったのは以下の部分。
「文学の世界では、テクスト理論という、読者の側の創造的な読みをむしろ積極的に評価する立場の批評が一頃流行した。これは、古い立場からすれば、一種の「誤読力」の評価である。
「誤読」にも、単に言葉の意味を勘違いしているだとか、論理を把握できていないといった「貧しい誤読」と、スローリーディングを通
じて、熟考した末、「作者の意図」以上に興味深い内容を探り当てる「豊かな誤読」との二種類がある。(中略)
しかし、「作者の意図」を完全に無視して、いつも「誤読力」頼みで本を読んでいる人は、何をどう読んでも、相も変わらぬ
独善的な結論しか導き出せなくなる可能性がある。それは読者の可能性を狭める読み方である。
本を読む喜びの一つは、他者と出会うことである。自分と異なる意見に耳を傾け、自分の考えをより柔軟にする。そのためには、一方で自由な「誤読」を楽しみつつ、他方で「作者の意図」を考えるという作業を、同時に行わなければならない。」
「テクスト理論」を真正面から批判した著作としては、加藤典洋の『テクストから遠く離れて』(2004年)が有名だが――当時も主流であった「テクスト理論」を打ち破るために非常に重厚な論陣を張っている――、それから数年も経たないうちに、「テクスト理論」的な読み方に限界があることが、一般
向きの新書でも語られるようになった。その変化がおもしろかったのである。以前に紹介した内田樹の『村上春樹にご用心』を含めて、〈文学をいかに読むか〉という問題について、静かだが大きな変動が起きているような気がしてならない。
平野啓一郎は「書き手の視点で読む、書き手になったつもりで読む」ということを重視している。「作者の意図」をとらえるためには、書き手の立場になってみることが有効だからだ。短歌の世界では、短歌の作者イコール読者であることが、(多数の読者を獲得できないという意味で)批判的に捉えられることが多かった。けれどもそれは一面
的な見方であって、短歌を作者になったつもりで読むからこそ、深い読みが生まれてくるという良さもあるわけである。そのような読みの可能性を、別
のジャンルの作家が指摘しているという点も、とても印象的だったのである。
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ogihara.com(http://ogihara.cocolog-nifty.com/)の11月5日の日録で、荻原裕幸氏は、前々回のこのインターネット時評で私の書いた「〈現象〉読みVS〈言葉〉読み」について、
「ぼくの理解では、吉川さんと荻原との根本的な対立点は、作品を読むことを「一首の背後にいる人間」との対話だと捉えるのか、そのような対話に括れない部分で捉えるのか、であって、「一首の言葉に即して」は、当然の共通
事項だと考えていた。」
というふうに反論している。しかし、どうも荻原氏の文章は抽象的で、私にはわかりにくい。「対話に括れない部分」とは何なのか、具体的ではないし、「一首の言葉に即して」と言ってもさまざまなレベルがあるわけで、「当然の共通
事項」と簡単にまとめてしまうことはできない。そうした点を曖昧にしてきたことが、批評の停滞を招いているのではないだろうか。
『短歌ヴァーサス11号』では、ひぐらしひなつが、
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)
栗木京子
についての荻原氏の読みを紹介しているので、それをサンプルに考えてみよう。
「この「観覧車」の歌は、「君」と「我」が将来結ばれることはないだろうという哀しい確信が描かれているだけで、それ以外の部分については、二人の具体的な関係を決定づけるようなことが描かれていない。つまり、そこは自由に読んでいい部分である。もちろんたしかに戦後生まれの作者が、軍人との恋を描いたのとは考えにくいが、そう鑑賞されてしまうほどのリアリティがある。つまり、戦中も戦後もかわらずに人が持ち続ける情熱的な恋愛について描いたのだと詠めばいいのではないだろうか。何か事情があって永く結ばれることのない二人の関係を、もっとも強く感じられるような読み方をするのが良質の作品鑑賞である。作品に仔細に描かれていない部分をどう読んでも、それを間違いとは言えないのだ。むしろよくできた作品ほど、時代を経ても通
じるリアリティがあって、さまざまな読み方を誘発するのである。」
(「観覧車はどこで回っているか」)
「軍人との恋」云々とあるのは、この歌を戦争で引き裂かれた恋を詠んだ歌であろうととらえた読者がいたということを指す。
私は、そのような読みをする人を否定しようとは思わない。自分の失恋をこの歌に重ねて、強い思い入れをもって読む人も多いのだろう。「自分も同じような経験をしたことがある」という共感的な歌の読み方も、やはり大切なことなのだと考えている。
ただ同時に、この一首を言葉に即して丁寧に読んでみることも必要だろう。「想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)」という表現には、作者のどのような心情が込められているのだろうか。
今日、君と私は観覧車に乗ったりして楽しい一日を過ごした。しかし、幾年か経ったあと、君は「そう言えば彼女と観覧車に乗った日があったなあ」という形でしか、今日という一日を思い出さないだろう。しかし私は、生きている間じゅうずっと、今日のことをおぼえているだろう。
つまり、作者は未来のある時点を先取りして、今日という日を振り返っているのである。未来を性急に求めてしまう若さの切実感が伝わってくるからこそ、この歌は読者の心を打つのであろう。単なる「情熱的な恋愛」なのではなく、現在の自分を、未来の自分になって見つめるという時間的な奥行きの深さが、この一首にはあらわれているのだ。リズムがよいので歌謡調に見えるが、重層的な「我」が表現されている歌なのである。
もっと言えば、「君」と「我」は幾年か経ったころ、別々の人生を送っているだろうという予想がこの歌にはある。そうであるから、戦争によって失われた恋と解釈するのは、いささか無理があるように思われる。死別
などの劇的な別れを予感しているのではなさそうである。もちろんそのような「誤読」があってもいい。けれども、平野啓一郎の言うように「作者の意図」を考えながら読み、作者という「他者」に出会うことも大切なのではないだろうか。
ここで注意してほしいのは、私は作者である栗木京子の実際の人生を想起しながら読んでいるのではないということである。作品の言葉を読み込むことによって、作者の抱いていたであろう感情や感覚を、(仮想的に)再現しようとして一首を読んでいる。荻原氏の言う「『一首の背後にいる人間』との対話」とは、もう少し詳細に言えば、このようなプロセスを経た〈読み〉なのである。
「何か事情があって永く結ばれることのない二人の関係を、もっとも強く感じられるような読み方をするのが良質の作品鑑賞である。作品に仔細に描かれていない部分をどう読んでも、それを間違いとは言えないのだ。」と荻原氏は述べる。いわゆる「テクスト理論」の影響が感じられる部分である。私は必ずしもそれを否定するわけではない。けれども、「作品に仔細に描かれていない部分」をあれこれと想像する前に、作品そのものをじっくりと読む基礎作業が、もっと明確に行われるべきだと思う。荻原氏は「『一首の言葉に即して』は、当然の共通
事項だと考えていた。」と言うが、その「当然の共通事項」が、人によって大きく違ってきているのだ。歌をどのように読むか、という一見当たり前のようなことを、再確認することが今必要になっていると私は考える。
岡井隆に『辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート』という著作がある。一九七〇年代の初め、前衛短歌に対する批判が高まったとき、塚本邦雄の歌を丁寧に評釈していくことで、前衛短歌の意味を見つめ直そうとした労作である。
「どうせ過去を回顧するなら、入手しやすい昭和三十年代に出たすぐれた歌集たちをじっくり読み直してみればいいのにそれもしない。(中略)それとも、滝沢(亘)や相良宏や浜田(到)の歌の一首一首にふかくかかわった評釈の仕事なんて、さしあたりわたしのような閑人にまかせておこうというほど今の歌人たちは多忙なのであろうか。」
(岡井隆『時の狭間に』・時評一九七五年)
岡井のこうした提言は、現在でも成立するのではないか。ポスト・ニューウェーブを目指す歌人たちは、二十年くらい前に出た歌集(たとえば加藤治郎『マイ・ロマンサー』や穂村弘『シンジケート』や水原紫苑『びあんか』など)を、一首一首の言葉に即して評釈するような地道な仕事から始めていってはどうだろうか。これらの歌集には難解な歌もそうとう含まれているのである。ポスト・ニューウェーブの歌が、現在の歌壇に受け入れられないと憤るよりも、ずっと生産的なのではないかと思うのだ。
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