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壮大なドラマの幕開け By Angel77

壮大なドラマの幕開け

(はじめに)

それは壮大な人類のドラマの幕開けであった。今から約2000年前の12月25日一人の男が地球に誕生した事から始まった。彼の名はイエスと呼ばれ2000年後の今、キリスト・イエスとして世界中の人々にその誕生を祝されるようになった。おやじ狩り、保険金殺人、学級崩壊などの悲しい流行語がとび交う昨今、彼の言葉はこの索漠とした現代に異彩を放つ。「自分を愛するようにあなたの隣人(となりびと)を愛しなさい」十字架につけられ槍でイエスの体を貫こうとする兵士達に対し「神よ彼等をお許し下さい。彼等は何をしているのか解からないのです・・・」と

(本文)

20世紀が終り今、私達は新しい世紀を迎えようとしています。日本には長びく不況とリストラから巷には失業者があふれ公園にはホームレスの人々の群がたびたび見られる様になりました。そして、そのホームレスの人々を目ざわりだとして袋だたきにする若者達。おやじ狩り、学級崩壊、援助交際の流行語が新聞紙上を賑わす昨今、まさに日本は世紀末の様相を呈して来ました。新しい日本を創ろうと立ち上った明治維新における希望と夢に満ちた若者達の姿は一体どこに消え失せてしまったでしょうか。「この世は考え得べき可能な世界の中で最悪の世界だ」(ショーペンハウエル)「人生は苦である」(釈迦)「神は死せり」(ニーチェ)と云った名言名句がズシリと胸に響きます。私も嘗てはショペンハーウェルの説く佛教的厳世主義(ペシミズム)に浸り、この世には神も佛も無く、唯、渾沌とした生きようとする動物的意志だけが存在すると信じていました。そしてその最悪の場所(人生)からの解脱は生きようとする意志を断ち切る事「仏教的諦観」以外に道はないと思っていたのです。こうした考えは、日本人の大半が多かれ少なかれ人生の一時期には体観し信じた、平均的日本人的思想だと思います。それは、不幸にして西洋のキリスト教文明に接する機会の少なかった日本人の悲劇と云っても過言ではないかもしれません。しかし、私達が何気なく使っているAD2000年の年号も、そのルーツすら余り意識していなかったです。それは受験勉強で知識としてBC(before Christ)キリスト誕生前の年号であり、AD(annon Domini)は、キリスト誕生後の年号とだけは記憶していてもAD2000年の真の意味を本当に理解してはいなかったのです。さて今から2000年前、その年号の出発点となったAD1年には一体何が起こったのでしょうか。AD 11225日にイエスキリストは、今のイスラエル(ユダヤ)の国のベツレヘムに誕生しました。当時ユダヤはローマの支配下にあり、ローマ帝国からみれば片田舎の小国であったのです。その後聖書によれば、イエスキリストは十字架にかけられ処刑されました。これ等イエスキリストの誕生から十字架上での死に至る一連の事件は、世界の片田舎に起った小さな小さな出来事に過ぎなかったのです。では何故この小さな出来事の主人公「イエスキリスト」の名は、全世界に知られ、彼の誕生した年をAD 1年とし、それ以前をBC(before Christ)と呼ぶようになったのでしょうか・・・そして人類の歴史を決定する年号となったのでしょうか。・・・今、2000年後の現代に於いても、その小さな事件の主人公「イエスキリスト」の誕生を全世界の人々が祝うようになったのです。・・・私がイエスキリストを人類の救い主と信じた一つの理由はここにあったのです。

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即ち、当時ローマ帝国の属国であった片田舎の小国に起った小さな小さな出来事が2000年後の今日迄語り継がれ、そのドラマを綴った書物(聖書)が全世界の国々の言葉に訳され今も世界のベストセラーとして語り続けられています。この奇跡は、正に彼が十字架に処せられた後、三日後に甦(よみがえ)られた事に始まります。

一度死んで甦った人は、世界の人類史上で彼一人です。この死からの甦(よみがえ)り、即ち復活の事実は、彼の死後5,000人もの人々が証明しています。しかし奇跡など一切信じない人の為に科学的な事は信じるが非科学的な事は信じないと言う方の為に私はイエスキリストの復活が今で言う医学的な肉体の蘇生であったかそれとも別の次元での復活であったかは論じたくはありません。というのも私にとって大事な事は当時イエスの教えは弟子の離散と大衆の失望により殆ど壊滅状態に近く彼の十字架上の死をもって世界の歴史から忘れ去られるはずでした。イエスキリストを取りまいていた12弟子は、イエスの処刑後、逃げ去りキリストの教えそのものも消え失せようとしていたのです。

(ペテロが鶏の鳴く明け方迄に三度イエスキリスト等知らないと言った話は余りに有名です。)

さて、この様にほとんど壊滅状態であったイエスの教えと離散した弟子と大衆が、何故再び、力強くキリストを証しする証人として立ち戻り、大衆を再びイエスの教えに耳を傾けさせるほどの不思議な事態が起こったのでしょうか。

それは、三日後に、イエスはたびたび12弟子の前に現れ、12弟子の一人であったトマスには彼自身に槍で突かれた脇腹の傷口に手を通うさせ確かめさせいます。また、その後、一カ月余りの間に多くの人々の前に現れ、彼を目撃した者は述べ5,000人にも及んでいます。即ち、5,000人もの人が彼の復活を証言しているのです。そして何よりも不思議な出来事は、イエスの死後逃げまわり、あれだけ弱気になっていたペテロが、イエスの復活を目の当りに見るや、まるで人が変った様に力強くイエスの教えを広めて行ったことです。そして今ひとつ、不思議な出来事はイエスの死後イエスに従っていた弟子や大衆を逮捕する目的で迫害にまわっていたパウロが、突然雷の様な光に打たれその後イエスの声を聞き一転して力強くキリストの福音を述べ伝える弟子に転身したことでした。

一般の人々の中にはパウロはもともとイエスの弟子であったと錯覚しておられる方もあるかもしれませんが、パウロは離散したイエスの弟子達や信者をとらえ当時の国教であったユダヤ教に立ち帰らせる為につかわされた役人だったのです。

私はこのイエスの死後に起った数々の不思議な出来事を知るにつけイエスキリストは彼の死後、何等かの方法で当時の人々に霊的心的な影響を与え勝利したはずのユダヤの為政者達へ脅威的な打撃を与えたと確心できる様になりました。その後AD400年頃まではローマ帝国の為政者達による言語に絶するキリスト教徒の迫害があり、決してトントン拍子の布教活動は、出来ませんでしたが、暴君ネロ皇帝のコロセウムでのキリスト教徒の処刑(生きたライオンをコロセウムに放ち逃げまどうキリスト教徒をおそい食い殺させる処刑ect)などを経て遂にAD 392年には、イエス・キリストの教えは、ローマの国教にまでなったのでした。十字架の処刑により一時完敗したイエスは彼の復活によりAD392年に於いて逆転完全勝利へと状況は一変したのでした。そして今、彼の誕生後2000年を迎える現代に於いてもその誕生は全世界で祝われアジアの仏教国であった日本に於いてもクリスマスの日はケーキが食卓に並べられローソクの灯のもとに「メリー・クリスマス」の言葉と共に家族揃ってその誕生を祝うまでになったのです。こうした不思議な厂史的事実を知る時彼の復活が医学的・肉体的復活(蘇生)であったかどうかは私にとって問題ではなくなりました。諺に「結果よければ全てよし」「結果が全てを物語る」と言う言葉がありますが当時の為政者であったユダヤの祭司やパリサイ人との戦いに於いてイエスは十字架上で処刑され完敗となったがその三日後の復活と一ヵ月余りの人々の前での蘇生の証明により事態は逆転したのです。

「いかなる世界の歴史におけるよりも、聖書の中には、よりたしかな真理がある」・・・・アイザック・ニュートン・・・・著名な科学者 ニュートンの言葉が ズシリ と 重く 胸に響きます。






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