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浄土信仰からキリスト教へ(「心の軌跡」)  By Angel77
{後編}

日本人にわかりやすいキリスト教入門( Angel77の信仰告白 心の軌跡 )

はじめに

インターネットを通じ、一人の日本人が、キリスト教信仰にたどりついた、心の軌跡を書くことによって、キリスト教とはいかなるものかを理解してもらおうと思います。

中国仏教がネストリュース派のキリスト教に影響されたことは、すでに述べましたが、中国から伝わった日本の仏教も間接的ながら、キリスト教の影響をうけているのです。
天台宗は「法華経」がその教えの中心になっていることは周知の事実ですが、天台宗の「浄土信仰」は案外知られていません。
それは、天台の教祖が「摩可止観」の「四種三昧」のうちの「常行三昧」に始まりますが、教祖によれば、
口に常に「阿弥陀仏」の名を唱え、心に常に「阿弥陀仏」を念じ、90日間いつもただ、「阿弥陀仏」を念じなさいと説いています。
それによって、悪行や悪い想念を「阿弥陀仏」の念力で払拭してくれる と説いています。
それゆえ、絶え間なく念仏を唱えよというのです。この天台浄土宗が法然の浄土宗にそして弟子の親鸞によって 浄土真宗へと受け継がれていったのです。

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絶対他力の信仰の世界

親鸞が歎異抄の中で述べておられる様に「この身は本当に弱くて煩悩に打ち勝つことなどとてもできない身」であったことを悟ったから、
ただひたすら阿弥陀仏におすがりして自力修行も捨て世俗の生活に身を投じたのです。
そしてこの身は川岸にゆらぐ葦のようにゆらゆらとたよりなく今後どの様な大罪をもおかしてしまいそうな存在に思われたのです。

「このような我が身ゆえ天台や真言の厳しい戒律などとうてい守れようはずもなく何度も何度も破門されることは必定であろう・・・・」と。

「それ故にただ阿弥陀仏の救済を信じて阿弥陀仏におすがりした・・・・・」と。この後

親鸞は天台宗の比叡山での修行を棄て他力を本願とする浄土宗に入門します

さて、キリスト教の話の中に突然浄土真宗の阿弥陀仏を持ち出しましたが、現代の宗教学とくに宗教の歴史研究によれば中国にキリスト教が伝わったのは周知の通り、シルクロードを経て他のギリシヤローマの文化と共にはいったといわれています。
ただ当時は儒教や仏教の影響の強かった中国において、キリスト教はそのままの形では布教されにくかったため、そこで「景教」と名を変え仏教に強い影響を与えたと言われています。
そしてその教えはイエス・キリストを罪深い人々(一切の衆生)を救わんとする「阿弥陀仏」に置き換え、
ただひたすらに阿弥陀仏(キリスト)を信じる信仰を持つものが天国(西方浄土すなわちエルサレム)にある極楽浄土(天国)にいけると解いたのです。

日本へはこの景教の影響を受けた浄土宗が法然により始められ法然の弟子であった親鸞がこれを教え広め浄土真宗として広く大衆に伝えたのです。

その意味でこれは私個人の思いですが、日本にまだ今のキリスト教が伝わらなかった時代においては、
この阿弥陀仏を信じた熱心な浄土真宗の信者は、きっとキリストによって救われ天国でキリストに再会しているものと思います。
さて、話を元に戻しますが、世のクリスチャンも本心を明かせば親鸞と同様に皆んな教会から破門されて当然のことと感じ
心はいつも懺悔と自分自身の弱さにどうしようもない焦燥感を持ち続けているのではないかと思います。
したがってただイエス・キリストの十字架の贖いを信じてイエス・キリストの愛(キリストを信じる信仰の恵による救済−−−信仰義認)にのみ救いを求めている人々こそ真のクリスチャンと言えるのではないでしょうか。
信仰の真髄は教会に所属しているか否かではなく、信者一人一人の心の問題であり、その本人がどれだけ間近にイエス・キリストの愛を感じキリストの救いの恵みを感じとっているかにあると思います。

キリスト教会の役割と信仰

(1)救いと真の信仰の意味

この間の事情は中世ヨーロッパに於いて純粋な信仰を貫こうとして当時の国教であったカトリック教会から破門されたマルティンルターや
我が国でも明治時代に天皇への不敬罪で教会から追放された内村鑑三の歴史を見ることによって十分に納得できると思います。

尚、内村鑑三はこのことで無教会主義を唱え、ただ聖書の教えによるイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、唯一の救いがあると説いたのです。

 教会が救いの問題に権威をもたない根拠

カトリックは、教会と教皇の権威を制度化しましたが、その結果は、形式主義と権威主義に陥り、教会組織保持のためには、
非人道的な行為も正当化されるようになりました。その最たるものは、お金を出し教会の発行する免罪符(罪が許され、天国に行ける事を保証する証のお札)が売り出されたことでした。
このように、人間が運営する教団組織に神の権威を与えると、とんでもない方向に信仰も教理も迷い込んでしまうことは歴史が証明しました。

また、絶対他力の信仰とは人は神によって造られた存在だから、修行やその知恵で万物の真相を知り得るはずはない。
丁度、人間が造ったコンピューターが自らその全容を知り得ないのと似ている。人間が自らの修行により、
安心立命の境地に到達しても、時間の経過の中にはめ込められている身である以上、それは一瞬の幻に等しく自分の肉体の崩壊と共に所詮は崩れ去るものである。
結局被造物である人間が原罪(自ら老いて死滅していかねばならない運命)を抱えている以上、自分自身を投げ出して神に救いを求めすべてを自分を造りたもうた神に委ねるほか道はない。

聖書はこのことについて「あなたがたの思い煩いのいっさいを神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」
と答えています。

(2)教会の役割

以上、ここまでが私の感じた宗教に関する信仰と教団組織の問題でしたが、以下に私自身の具体的な宗教観と信仰について述べたいと思います。

先ず、教会が個人の信仰の救いの問題について何の権威も意味も持たないことは私の自論ですが、しかし、教会が個人の信仰に現在なんの関わりも持っていないかと言うとそうではないと思います

 教会の意義

恵まれた家庭の中で父母の愛情に包まれ、日曜日は魂の安息日として教会に通い、
讃美と祈りの中で美しく汚れのない信仰を養っている兄弟姉妹は、その青春時代の体験が晩年の試練の時に懐かしい思い出として何らかのいい影響を個々の魂に与えるものと思います。
それは青春時代に崇高な音楽や文学、芸術に深く関わった人間が大人になり生活に追われ一時それらの影響から離れているように見えても
自己の魂は心の奥深くでしっかりとそれらを覚えていて自分の余命がいくばくもなくなったことをそれとなく悟る年代になった頃、
まるで魂が故郷へ戻るような思いで懐かしくそれらに接する機会を与えられるのに似ていると思います。
このように一見無意味に思える日曜の教会の礼拝や讃美や祈りは、弱く心もとないわれわれの魂の錬磨には大切なのかも知れません。
しかし、このことと個々の人間の信仰による救いの問題とは全く別の次元の問題であることをもう一度強調しておきたく思います。
教会への所属や礼拝の有無は救いの問題に何の意味も持たないのです。

 

(3)なぜ、キリスト教を受け入れ信者となったのか

さてこの辺で本論である信仰の問題に入りたいと思います。
私はよく、友人から「宗教も信仰も人間が生きることに大切だと思いうがそれがなぜ「キリスト教」でなければ駄目なんだ」と聞かれることがあります。

この問題について少し特異で異端であるかも知れませんが、私は私なりの解答を持っています。
以下そのことについて述べて見たいと思います。

それは一部の新興宗教を除いて、長い歴史にさらされて生き残ってきた三大宗教(仏教、イスラム教、キリスト教)やそれから派生した多くの宗教の根本はすべてヤーヴェ(天地創造)の神に通じていると思えるのです。
事実イスラム教は旧約聖書の天地創造からある部分(モーセの五書)までは現在のキリスト教の聖書とほぼ同一のものです。すなわちルーツはアブラハムから出ているのです。
さらに現在のユダヤ教もキリスト教も旧約聖書の部分を大切に守り礼拝しています。科学が進んだ今、
不思議に天文学や、遺伝子工学電子工学などを専門とされている先生に一神教(天地創造神)信仰者が多いのに驚きました。
彼らは口をそろえて自分の研究を奥深く進めていくうちに信じたくはないが、本当にくやしいが、
万物を創造した天地創造の神がこの世に存在しなければすべてのことが説明がつかないと言うのです。
何億という惑星が衝突もせず調和を保って軌道上を運行していること、
生きとし生けるものに精細で緻密なDNAを与えそのDNAが長い年月子孫に受け継がれていること 等々
これがでたらめに 偶然 突如として 生まれたとは 説明がつかないのです。

アポロ宇宙船で月へ行って月から初めて地球を見た宇宙飛行士が帰国後熱心なキリスト教信者となったことやシュバイツァー博士(医学博士)のキリスト者としての救済活動等科学を極めた人々の信仰への帰属の多いのに驚きます。

このように宗教を広く学べば学ぶ程、すべての宗教がヤーヴェの神(天地創造の神)に集約されていきます。
また天台宗の総本山である比叡山延暦寺に於いて近年世界宗教会議(いわゆる宗教サミット)が行われ、
仏教の高僧やカトリックの神父、イスラム教の代表者、その他の宗教家、宗教学者が多く集まり信仰と宗教について討議し、世界の人々への宗教心の高揚を訴えましたが、
天台の法華経の世界も真言の世界も今、現在を大切に明るく生きること、即ち光明心という点でキリストの命の光の中に生きていくことに集約されるのではないでしょうか。
天台宗の高僧も真言の高僧も自分自身の心の中にいけるキリストの命の光、キリストの救いの恵みを見たのではないでしょうか。

仏教でいう法(万物には法則がある)は即ち天地創造の神(ヤーヴェの神)そのものであり
「仏の慈悲」は天地創造の神が一人子イエス・キリストをこの世につかわされ十字架につけその贖いの行為によってそれを信じる者を救済せんとした
神の「つきることのない愛」そのものだと思います。

したがって一切の衆生を救わんと願った阿弥陀仏も自己の心の光明心である観自在菩薩も全てはキリストの化身そのものであったと思われてなりません。

私はキリスト教に触れる機会に恵まれなかった日本に於いて真に救いを求めてやまなかった高僧たちも、
幾人かは苦しい修行の中でキリストの命そのものに触れ、さまよい続けた魂が初めてキリストの命の光によって天国へと救い上げられたのではないかと確信できるようになりました。

 キリストの教えには歴史的裏づけがある・・・・・・・

私の場合、このように、当時の政治や歴史的事情により、変形されて伝えられた他の宗教より、歴史的に裏付けがあり、
人類の歴史に直接現れた救い主「イエス・キリスト」を信じるほうがわかりやすく納得がいくと直感したのです。

こうして何かの縁で直接キリスト教と出逢い、キリストの命に触れ、私が永遠に生きるためにはキリストの十字架の贖いを信ずる信仰による道しかないと確信できたことは本当に平安と救いを得る一番の近道であったと思っています。

私は多くの医師の報告による臨死体験者の体験記録である「死後の世界」を信じます。
臨終の時には頭上で光に包まれた不思議な雲状の渦巻きに身体ごと吸い込まれていくといいます。
そして、それらの不思議な臨死体験者は全て信仰の持ち主であったと言われています。
彼らは皆な臨終の時まで天国を信じ希望を持ち続けました。そして何よりも一番の共通点は生前に於いて人々に対する温かい思いやりと、
つきることのない愛を持ち続けていたと言われます。この一点が彼ら臨死体験者の共通点となっているのです。したがった私の信仰もここから出発したいと思います。

(聖書にも、キリスト教の最初の殉教者 ステファノが殉教したとき、「天が開いて、人の子(イエスキリスト)が神の右に立っておられるのが見える」と言っている。(使徒言行録 7章 56節)

まず何よりも、人生は肉体の死で終わりだと信じないこと。苦しく、どうしようもない試練に立たされたときでも、
イエス・キリストがカルバリの丘に十字架を背負い登られたあの苦しみをを思い起こすこと。キリストは言われました「おそれるな私はいつもあなたと共にいると・・・・」

あなたの十字架(人間が死ななければならない原罪)は私があなたに代わって受けたのだ。
あなたは私に従っていれば何の心配もいらないのだ!そしてこのキリストの十字架の贖いを証明ずける聖書の言葉

「神(ヤーヴェの神)は、そのひとり子を賜ったほどにこの世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠の命を得る為である。」と

さらに十字架の上のイエスが、救いを求めたもうひとりの十字架上の重罪受刑者(イエスの左右に二人の受刑者がいたがその一人)に言われた言葉

「まことにあなたに告げます。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と
 

このように十字架上の重罪受刑者であっても彼自身が願い告白した臨終の一言

「イエス様あなたが御国の位にお着きになるときには私を思いだしてください」との控えめな信仰告白によって彼は天国に入ることを約束されたのです。

(このできごとは、親鸞の浄土真宗の教えの真髄となっている「悪人正機説」・・・・善人が救われるなら
一番強く助けを求め悔い改めようとしている 悪人が救われないはずがない・・・とする説の 歴史的証明で
もありあます)

私たちは、この十字架上の受刑者より恵まれた時間を持ち、臨終の時まで心の準備もできる立場にあります。
この意味で残りの時間をより強くキリストを信ずる信仰に生きたいと思います。

最後に作家遠藤周作氏の遺した小説「沈黙」の中の一節を転載してペンを置きます。

この場面はキリシタン迫害が厳しくなった江戸時代に布教活動した司祭が捕らえられ踏み絵によって転ぶ(幕府の命に従う)ことを迫られる場面です。

先輩のフェレイラ神父の助言により彼(司祭)が転ぶことにより司祭に従った多くの日本人信徒が拷問と処刑を免れた歴史上の出来事を小説化したものです。
この出来事でフェレイラ神父も司祭も本国の教会から破門さますが、司祭の心境とキリストの十字架上の思いが重なります。
当時のパリサイ人やユダヤ教の司祭によって異端の罪で告発されたイエス・キリストの姿が思い起こされるのです。
しかしこの事で司祭の行為を正当化しようとは思いませんが、私が感銘したのは次の一節です。

「その時、踏むが良いと銅板のあの人(キリスト)は司祭に向かって言った。踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ・・・・」と。

このようにイエス。キリストはいつも私たちと共にいてくださいます。

この世で味わった私のどの様な苦しみも、キリストの十字架上の苦しみを思えば、耐え忍ぶことができます。
年老いて死んで行かねばならないことを思うと、そら恐ろしく耐えがたい苦しみですが、この私の味わうべき苦しみをすでにキリストは私に代わって苦しんでくださいました。
このまま死の世界に引き込まれ、この世で得た全てのものを失うかと思うと、
耐えがたいむなしさと孤独感に襲われますが、その虚無感もキリストの再臨によって払拭され希望にかえられます。

キリストの十字架の贖いを信じる信仰によって、永遠の命(希望)を与えられ、天国でキリストと再会できるからです。
このようにキリストの言葉を信じた時、この世でどうしても理解できなかった不平等や試練も実はキリストと出会うための神からのプレゼント(無言のメッセージ)であったとすら思えてくるのです。

イエス・キリストはその生涯に於いて多くの人をいやされましたが、救われた人に対して「あなたの信仰があなたを救ったのです。
あなたの思いの通りになるように」と言われました。

 最後の審判(さばき)の問題

最後の審判(さばき)の問題(仏教では閻魔様のさばきに置き換えている)も救われるか(天国に行けるか)否かの問題も、
私は前述のキリストの言葉にヒントがあるような気がしてなりません。
前に述べた臨死体験者で信仰を持たない人が、恐ろしい光景をかいま見たり、地獄の体験をするのも、その人自身がかたくなに持ち続けた、この世への異常な、
執着心やねたみ、うらみ等によるもので、エネルギー不滅の法則に従ってその人が生前にイメージした暗く恐ろしい虚空の世界が死後に於いても展開されるのではないでしょうか。

また、神も仏もあるものか、金と欲と快楽のみが人生の全てである、と信じて疑わなかった人には、肉体の崩壊により、
金が消え欲も快楽も味わえなくなった時点で底知れぬ空虚感とどうしようもない虚脱感・飢餓感に襲われるのではないでしょうか。
自業自得といえばそれまでですが、エネルギー不滅の法則に従わされたといえば納得できるかも知れません。

しかし信仰者は肉体の消滅時に同じ様な苦痛を一瞬味わうかも知れませんが、肉体への執着以上に、
日頃から臨終時の魂の肉体からの解放を望んでいる意志(エネルギー)を持っています。
それ故に、死を一時的な現象ととらえ、その肉体の死後に来るキリストとの再会、天国への凱旋に強く執着しキリストの十字架の贖いによる救いを信じて疑わない故に「あなたの信仰があなたを救ったのです
−−−その通りになる様に−−−」と言われた如く死後の世界ではこのように明るい渦巻き状の光(聖霊)につつまれて天国へと導かれていくのです。

その信仰が強ければ強い程、エネルギー不滅の法則に従って明るく慈しみと愛に満ちたエネルギーに包まれてバラ色の天国へと凱旋できるのだと思います。

だからその日のために、日々神に感謝し人に感謝して慈しみの心と愛に満ちた明るい心で過ごしたいと思います。
どんな困難に出逢っても希望を棄てずキリストの再臨と天国への凱旋を夢見て明るく明るく、ただ幼な児の様な無垢な心で生きていようと思うのです。

この困難な信仰生活もキリストの再臨の約束と天国に入れることの神様との固い約束があって初めて可能なことなのです。






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