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世界の三大宗教とキリスト教の将来  By Angel77

{前編}

1.日本のキリスト教の歴史と現状

フランシスコ・ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝えたことは有名ですが、安土・桃山時代の織田信長のもとではキリスト教の布教が公認されていた為、当時信徒は100万人(当時の人口の30%)以上になったと伝えられています。しかし豊臣秀吉が迫害政策に転じ、江戸時代にはキリシタン禁止令が発布されて徹底弾圧が加えられた為、殉教者が続出しキリスト教は壊滅状態となります。その後、明治に入り開国政策がとられた為「キリシタンの禁制」は解かれましたが、明治政府は天皇を中心とする国家神道政策により、キリスト教は以後、昭和20年8月15日の第二次大戦終結まで厳重な宗教・思想を取り締る当局の監視下におかれたのでした。しかし第二次大戦終結後は戦争の悲惨さとファシズムへの反省からキリスト教は見直され再び人類史の中心的舞台へと呼び戻されていくのです。こうした背景から20世紀のキリスト教史で最も注目される運動が起こりました。それはキリスト教宗派を越えて「聖書によって明らかにされたイエス・キリストを神にして救い主であると受け入れ聖霊を互いの対話の中に見い出そう」という世界教会一致運動(エキュメニカル運動)でした。1948年にオランダのアムステルダムで第1回世界教会協議会(WCC)の総会が開催され1962年にはカトリック教会の第2ヴァチカン公会議が召集され遂に1965年カトリック教会もこの世界教会協議会(WCC)に加わることとなったのでした。その場に於いてカトリックとプロテスタントの諸教会が一緒に聖書翻訳を行うことが決定されたのです。こうして現在のカトリックとプロテスタントが同一の聖書を用いるという「新共同訳聖書」が生まれたのでした。こうした世界的な動きに対して、日本のキリスト教会に於いては、依然教勢(信徒の数)は増えず全人口の1.4%程度の信者数に止まっています。(日本のキリスト教信徒数は177万人(2000年調査)))。また教会の宗派数は現在カトリック系5、プロテスタント系20前後の教派となっていますが、それらの諸教派が互いに対立しわずか1.4%しかない信徒を奪い合っているのが現状です。

 日本のキリスト教会の問題点と今後の課題

 (1)問題点とその原因
以下の主張はAngel77の個人的な意見であり必ずしも定説とは言い難いのですが今後のキリスト教布教の一助としていただければ幸いです。

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 この問題点は、信者層が都市部に集中し知識人(インテリ)層にかたよっている。信徒数もお隣の韓国30%以上にくらべ日本はカトリック・プロテスタント信徒あわせ1%程度であることだと、私は思います。

この原因は遠く江戸時代にまでさかのぼらなくてはならないと思います。徳川幕府がキリシタン禁令政策をしいた折、同時に進めていた宗門改めは制度化し、

日本人は必ずどこかの寺の檀家となることになりました。現在市役所で行われている住民登録制度が寺請制度として定着することになったのです。
以後この制度は明治維新まで続いたのですが、ここで重要なことは住民登録制度は以後政府の手にゆだねられましたが法要・葬儀等の宗教的儀礼はそのまま所属している寺の
(檀家制度)の中で引き続き行われたことでした。
従って世間体を重んじる日本的風土の中で地方に於いてはこの所属している寺から抜け出して先祖のお墓を棄て去り独立したキリスト教会へ宗旨変えすることは至難の技となっているのです。ではこの様な現状の中で日本のキリスト教会は絶対に教勢を伸ばすことは出来ないのでしょうか。
私はインターネットの普及が進む今こそ千載一遇のチャンスだと思えるのです。まずこのチャンスを生かすには日本の教会自身も自ら変わらなければならないと思っています。

 (2)宗教の融和傾向の中での教会の変革
  仏教とキリスト教の歴史的な接点 

日本の仏教とキリスト教がその思想において全く対立するものであるかというとそうではありません。
仏教が伝来した遠い歴史を考察すれば、それは解明できます。
4世紀以降トルコで発祥したコンスタンティノーブルの総主教ネストリウスを教祖とするキリスト教のネストリウス派は、ペルシャや中央アジアに定着し中世初期にはインドから中国に布教が展開されていったのです。
このネストリウス派のキリスト教は中国では景教と呼ばれ中国仏教に大きな影響を与えたと言われています。
日本にもその影響が最も大きかったと言われる浄土宗にそのルーツが見られます。
即ち、浄土宗や浄土真宗でいわれている阿弥陀仏はイエス・キリストそのものの呼称の変更であり、
阿弥陀仏
(イエス・キリスト)を信じる信仰によってその絶対的他力信仰によって神(阿弥陀仏)の恩寵により極楽浄土(天国)が約束されるというのです。江戸時代初期キリシタン禁令がしかれてからキリスト教徒は隠れキリシタンとしてこの阿弥陀像を十字架に置き換え日夜礼拝して来たと伝えられています。
隠れキリシタンにとってはまさに信仰を維持していくにはこの方法しかなかったのかもしれません。
キリスト教作家遠藤周作氏がその著「深い河」で述べているインドの女神はまさにネストリウス派がインドや中国に布教したイエス・キリストの化身であったのかも知れないと思えてなりません。
中世の日本ではキリシタン禁令によって公にはキリストを礼拝できなかったのですが、しかし神は深い慈しみとあわれみをもってキリストの化身「阿弥陀仏」を信徒に与え心の平安と希望を彼等の魂に与えたのでした。
私は日本人の多くが育った仏教的土壌の中で生きて来ました。私の祖父は天台宗(日本仏教の母ともよばれる中心的宗派)の中本山の住職、父も末寺の住職でした。祖父は一時管長(天台宗の最高責任者)候補にもなったと聞きます。
(しかし祖父は妻帯していたことから最終選考では別の住職が選ばれたと聞きます)。
そうした家庭の中で育った私にとって仏教は私の心の寄りどころであり心の支えでもありました。今も天台の教えは私のキリスト教信仰の土台になっているのです。
私が随筆集で書いた「今日一日を大切に」の中の「この身今生に於いて度せずんば、さらにいずれの生に於いて度す」の言葉は私がクリスチャンとなる直前まで仏壇の前で唱えていたお経の一節です。
 

 仏典と聖書、コーランの共通点

仏典と聖書の共通点など何もないという先入観をもっていた私にとって聖書を学び始めた頃の感動はひとしおでした。
旧約聖書の随所に記された人生の無常観は仏典の転載かと思われるくらい酷似していたのです。旧約聖書コレヘトの言葉
(伝道の書)に書かれた「空の空、いっさいは空である」(1章2節)や「私は生きることをいとう。
太陽の下に起ることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなものだ」
(6章17節)などはコレヘトの言葉(伝道の書)全編が釈迦の説く人間の生老病死に関する人生の無常観でつらぬかれていたからです。
思いおこせば世界の三大宗教であるキリスト教イスラム教仏教にはいずれもこの世に終りがあり天国と地獄の裁きが待ち受けていると、とかれています。そしてその天国に至る道はそれぞれの
生き方でつつましく信仰生活をつらぬくことです。と、書かれています。
この意味では仏教もキリスト教も大筋では大差のない宗教だと思えるのです。尚イスラム教に関しては天地創造の神は旧約聖書の創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記
(モーセの五書と言われている
)までは、ほぼ同じ経典が使用されており、現在のユダヤ教も同一の経典なのです。
最近の歴史研究によれば、聖書の記述も地理的に近かったインド仏教の影響を受けて書かれたという説もありそのルーツを辿ると現在の世界三大宗教
(キリスト教・仏教・イスラム教)は同一の思想から出発しているのかもしれません。
こういった共通の基盤の発見があったからでしょうか、近年世界の各地で宗派を超えた世界宗教会議が催される様になり、
日本でも天台宗の総本山比叡山の延暦寺に於いて仏教・キリスト教・イスラム教などの代表が集まり世界の平和と人類の幸福、信仰のあり方などについて討論がなされたのでした。
[注記(追記)仏教にも他力を本願とする浄土宗や浄土真宗がありそれらの
 宗派では 西方浄土(極楽)があると といています。しかし、禅宗など
 自力を本願(観自在菩薩こそ救いの本質)とする宗派では 天国や地獄の
 概念も自己の心の中にこそ起因するもので、自己の外に存在するものではな い・・・・と 説いています。このことに関して、私 個人の思いは、
 後者の 禅宗的な見方のほうが 納得がいきます。この考えを 補う為に
 「随想 U」で 次のように 述べていますので、興味ある人は
 もう一度 メニューにもどり 「随想 U」の 「最後の審判(裁き)の
 問題」・・・をご一読下さい。なお、参考までに その一部を 下記に
 転載しました。

 これは キリスト教の見解と いうより 私個人の思いです。

前に述べた臨死体験者で信仰を持たない人が、恐ろしい光景をかいま見たり、地獄の体験をするのも、
その人自身がかたくなに持ち続けた、この世への異常な、執着心やねたみ、うらみ等によるもので、
エネルギー不滅の法則に従ってその人が生前にイメージした暗く恐ろしい虚空の世界が死後に於いても展開されるのではないでしょうか。

また、神も仏もあるものか、金と欲と快楽のみが人生の全てである、と信じて疑わなかった人には、
肉体の崩壊により、金が消え欲も快楽も味わえなくなった時点で底知れぬ空虚感とどうしようもない虚脱感・飢餓感に襲われるのではないでしょうか。
自業自得といえばそれまでですが、エネルギー不滅の法則に従わされたといえば納得できるかも知れません。

(3)ネットによる新しいキリスト教の伝道

ではこのような現状の中で日本のキリスト教会は絶対に教勢を伸ばすことはできないのでしょうか。
今、この様な世界的な宗派を超えた宗教の融和傾向の中で、
日本のキリスト教会だけがかたくなに自己の宗派にのみ固執して、他宗教・他宗派を攻撃している現状をみて、私はインターネットを通じ新しいキリスト教の伝道のありかたを模索したいと思ったのでした。

(
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