「裏嘆きの都」
第五話



対降魔部隊SS6「嘆きの都」より

第四話第三章



 目が覚めたときには全てが終わっていた。
 いや……、正しく言うならば、何も終わっていないのだろう。
 しかし、自分にとっては全てが終わったという以外、何も言いようが無かった。
 共通の認識を持っている人がいないわけでもない。
 と言うよりも、その方が多数派かも知れなかった。

 帝都全域に渡って、そこら中の建物、橋脚、道路、街路樹等々が莫大な被害を受けていた。
 一般家屋に比べて耐震設計のされているはずの近代建築物の被害が大きめなのが、不思議と言えば不思議だった。

 「こと」が終わった二日後、軍部から正式発表があった。

 陸軍の精鋭部隊二百三名は、死者行方不明者百七十五名を出しながらも、秘密組織の幹部全員を討ち取り敵本拠を破壊、かろうじて帝都全滅を防ぐことに成功した。
 これより残敵の掃討に移るので、帝都市民諸君の勇気と協力を期待するものである。

 生還率二割五分というのもとんでもない数字だ。
 陸軍は先の内乱で失墜しかかった権威を、犠牲の数と割合で修復しようとするつもりらしい。
 突入したのが二百三名というのも、ロシアとの戦いで壮絶な死者を出した二〇三高地とかけているのだろうか。
 だが、それらに感慨を受ける心の余裕はなかった。

……幹部全員を討ち取った……

 彼女が、幹部の一人でなかったはずはない。
 水地亡きあと、きっと先頭に立って動いていたのだろうと思う。

 だからといって、軍の発表をそのまま鵜呑みにするほど愚かではない。
……と、思っていた。
 実際には、受け入れることが出来なかっただけだろう。
 あらん限りの人脈と自分の足を使って事態を探り直す。

 まず、歩き回っていて気づいたことがある。
 魔物が増えている。
 一度など、中型降魔に遭遇したくらいである。
 だがそいつは何故か攻撃の意図を示してこなかったので助かった。
 その代わりに、何か別のことを目的として動いているように見えた。
 降魔が、だ!
 これが残敵などであろうはずがない。
 やぶ蛇になるので陸軍の内部に話を聞くことは出来なかったが、そう確信している。
 帝都の多くの人々なら戦慄するであろうその推論に、微かに希望を抱いている自分がいた。

 そして、人脈を伝っていったところからは意外な情報がでてきた。
 組織の首領は寸前で逃亡したというのだ。
 ついでに、小田原で何が起こっていたかも解ったし、小田原城の守将も生き延びているらしいことも解った。
 探れば探るほど妙なことが出てきて、処理できる情報の限界を超えてきた。

 研究室の本職とは関係ないので後輩たちにやらせるわけにも行かないし、やらせたくもない。
 そんなわけで全部自分で処理しようとしたのだが、ものの見事に限界にぶち当たった。
 理由の一つに、先の大災害で帝大もかなりの被害を受けていたので、その後処理にかり出されたことが挙げられる。
 現在の立場が大学院生兼助手という変な立場とは言え、教授会に対しては近代都史研究室の名代として予算委員会や復興計画委員会に出なければならない。
 水地と対立していた学生、と言うことが知られているので、彼らの覚えが悪くないのがせめてもの幸いだった。

「では、近代都史研究室は以後、教授会と対立する意志はなくなったと言うことだね」
「私が水地助教授と対立していたことは、皆さん御存知でしょう」

 対外的には反水地であることを印象づけて、研究室の方針改善を述べ、研究室存続決定を何とかもぎ取ることに成功した。
 というのは、先の件で教員が欠けたような研究室は、予算を復興に回す必要性もあって、いくつも統廃合される動きがあったのだ。

「いくらやってることが近いからって、ほいとまとめられてもなあ」

 理学部の横塚教授は、陸軍の制圧部隊が大学に入るのを無断許可した罪を糾弾されて危うく辞職させられそうになったが、決定寸前に加藤内閣総理大臣から事態解決への協力を感謝するという声明が入り、教授会としても辞めさせることが出来なくなってしまった。
 あーだこーだと二時間ももめた末に最終的に出た結論は、教員が欠員となった二つの研究室の学生を引き受けるという、罰なのか恩賞なのか解らない決定だった。
 一応、書類上は戒告と一緒に処理されるが、元よりその程度でへこたれる柔な人間ではない。
 ともかく彼が教授に留まってくれたのは、前から仲のよかった水地研にとっては朗報だった。

 他にも決定したことは多いが、水地研に関することと言えば、予算が削られたことと……これはどの研究室も軒並み削られて学棟の建設に充てるので文句は言えない……、部屋の半分を一時的に他学部に貸すことだった。
 これは、文学部と理学部を除いた建物の多くは被害が大きく、人間は生き残っていても入る場所の無くなってしまった研究室が多かったためである。
 被害のあまり無かった研究室は、建物が新築されるまで彼らに部屋を貸与するのがまあ人情だろうということになったのだ。
 仮設研究室を建てる費用を惜しんだというのが真相の様にも思うが、決まってしまっては仕方がない。
 当然、水地の部屋と渚の部屋、そしてその間を繋ぐ部屋を死守した。
 もっとも、借りる方としてもかの水地の部屋なんぞ怖くて使えないと言うのが正直なところだろう。

 そんなこんなで、三部屋……事実上水地の部屋にはなかなか入れないので二部屋に圧縮されて少々窮屈になった研究室で、調べたいことも調べられずに面倒な仕事に追われる。
 騒乱の情報は、仕方がないので後で調べられるようにしておくしかなかった。
 何しろ大学関係の事務処理が多すぎる。
 腹立たしいが、しかしこんな仕事を渚もやっていたのだと思うと、少しは気分が楽になる。
 思った後で、これは重症だな、と自嘲するのが日常茶飯事になっていた。

 水地、及び渚宛の公文書を処理するのも仕事の一つである。
 他人宛の手紙を見ることに多少の罪悪感はあったが、どうせ二人の私的生活はこちらの宛先には届かないだろうと開き直って、学会の通知などに欠席と今後の研究室について返信する。

 そんな風に機械的に処理しようとした中に、その手紙はあった。

 手に取った瞬間、他の手紙とは違うことが解った。
 水地新十郎助教授宛ではなくて、
 水地新十郎様、水地渚宛となっていたからだ。

「水地……、渚……」

 さすがにこの手紙を開けるのはためらわれた。
 しかし、無視することも不可能だった。
 単に死亡連絡を伝えるだけで片を付けたくない。
 この手紙を出した人は、水地のことも渚のこともよく知っているはずだから。
 差出人の名前は茶霧仁太郎となっており、住所は銀座の一角だった。

「行ってみよう」

 明日の仕事はさぼることが強制的に決定された。


     *     *     *     *     *     *


 帝都地下鉄は現在運行停止になっている。
 公表されている理由は先の激震による落盤ということだが、かろうじて処理できた情報の中にその理由があったので真相を知っている。
 中に、魔物が出るのだ。
 落盤までは本当だったようだが、その復旧工事に当たっていた作業員が何人も行方不明になり、列車が一編成丸ごと行方不明になったという未確認情報もあった。
 しょうがないので歩いていく。

 何故か現在魔物たちは、本能によって生物を襲うことはあっても建物や物体を壊したりはしていないらしい。
 だから、家の中に引きこもっていれば今の所安全なのだった。
 そんなわけで外出している人間は平時の十分の一にもならないだろう。
 出ている人間も、襲われないようにと自転車や駆け足で急いで移動する事が多い。
 街の活気そのものが失せてしまっている。

「へい兄ちゃん!帰りには野菜買ってくんな!」

 不意に横から声をかけられてびっくりした。
 こんなご時世だというのに、店を開いている八百屋があった。
 衣料品などはともかく、食料品が無くては帝都中が魔物に殺される前に飢え死にしてしまう。
 軍人とは意味が異なるが、彼らには帝都数百万の命を支えているという誇りがあるのだろう。
 魔物何するものぞと言わんばかりの八百屋のオヤジの笑顔は、思わず絶讃したくなるくらい爽快だった。

「では、トマトと大根、それからキュウリの取り置きお願いします」
「おう、ちゃんと取りに来るんだぞ」

 この言葉、聞きようによっては予約を踏み倒すなよと聞こえるかも知れないが、実際に聞けばそうでないことが解る。
 魔物なんぞにやられるなよと言ってくれているのだ。
 江戸っ子万歳、と口の中でつぶやきつつ、先を急いだ。
 見ると街のいくつかの場所で魚屋、肉屋、酒屋、米屋など、一時食料品店が頑固に店を開けている。
 大きめの店で人が集まっているところには、五六人の軍人が立っていた。
 おそらく装備している軍刀は、小田原戦から導入されたという新兵器だろう。

 逆に飲食店は軒並み休業していた。
 中に客を入れるタイプの店は内装などに被害を受けると商売にならないだろうし、そもそも外食に行こうという人間がいなくてはどうしようもない。

 目指す住所は、そんなミルクホールの一つだった。

 準備中の札が下げられている。
 もっともこれは、裏側が「営業中」の札なので単に今はやっていないと言うことなのだろう。
 札の下の方に「河庵」と書かれてある。
 この店の名前なのだろう。
 緩やかな浮き彫りの施された濃い茶色……珈琲色と呼んだ方がいいかも知れない……の木の扉をノックする。
 深みのある響きと共に、扉の向こう側に付いているのだろうベルが微かに鳴った。

 一呼吸、二呼吸、三呼吸……

「誰じゃな。開店は十時からと言っておるのに……」

 カランコロンと音がして、八十くらいの老紳士が顔を現した。
 老人と呼ぶには背筋がしっかりとしていて、ゆったりとした風格がある。
 ミルクホールの店主にふさわしく、なかなかハイカラな服装をしていた。

「……おや、常連かと思ったら一見さんじゃったか」

 驚いたことに、この状況下でも営業しているらしい。
 常連がしっかりしているというか、あるいは頑固なのかも知れない。

「それは……!」

 老紳士が、持ってきた手紙に気づいた。
 とするとやはりこの人が、手紙の差出人の茶霧という人なのだろう。

「夢織と言います。水地新十郎の……不肖の弟子です」

 弟子、と言ったときに感じる引っかかりは以前に比べてずっと小さくなっていた。

「……入りなさい」




 茶霧と書いて、「さぎり」と読むのだと言う。

「四民平等の際に、水神様がつけて下さった名前じゃ」
「水神様……って、まさか、水地……?」

 口調は疑問のそれだが、頭の中では理解と納得が大勢を占めていた。

「聞いておらなかったのか。意外じゃのう」

 返事を返しながら茶霧は手早くお湯を沸かしていく。

「安政の大地震の際に江戸が大火を免れたのは、あのお方のおかげなのじゃよ」

 黒船来航で揺れている時代のことだから……この老紳士が青年の頃だろう。
 当然のように語る口調は、確信を持っているからではなくて、事実を語っているからだった。

「当時茶店を営んでいた私の家が猛火に包まれ周囲にまで延焼しようとしたときに、水神様は即座に火を消し止めて私と両親を守って下さった」

 水地の行動はある程度納得できる。
 たとえ人前で力を示す愚を犯そうとも、大火となって手がつけられなくなる前に片を付けたかったのだろう。
 明暦の大火などで教訓を得ていたのかも知れない。
 それにしても……やはり水地は百年から生きていたのだということでも納得してしまう。

 ただ、珍しいとも思った。
 水地が人並みはずれた力を持っていることには誰も異論を挟めぬのに、実は能力を直に見たことがあるのは自分を含めても大学内にわずか数人しかいなかったからだ。
 横塚と、渚である。

「まあ、飲みなさい」

 考え込んでいたら、目の前にティーカップがついと出されてきた。
 ミルクとクリームがたっぷりと入った紅茶である。

「どうしてこれを?」

 まず一口味わってそのうまさを堪能してから、疑問に駆られて尋ねてみた。
 カウンターの横に置いてあるメニウはまず珈琲から書かれてあるし、店の設備もまず珈琲の方が多く並んでいる。
 一見の客が頼む前に出してくるなら、この場合珈琲になるだろう。

「胃が弱くて、あまり珈琲は飲めんのじゃろう」
「え?」

 さすがにびくりとなって表情が止まった。

「水神様から聞き及んでおるよ。
 自分の説と論理に喧嘩を売るためにわざわざ研究室に入ってきた学生さんの話を」

 その言葉を聞いて妙な感覚に囚われた。
 不快だったのか嬉しかったのかよく解らない。
 釈迦の掌で踊っているような感覚とでも言えばいいだろうか。
 その混乱を察しているのかいないのか、茶霧は話を続ける。

「あまり舶来のものは好まれなかった水神様じゃが、文明開化と共に私の家が茶店から喫茶店に転向したときに祝いに来て下さってな。
 ついでにものは試しと、私の入れた珈琲を飲んで下さった」

 そこで話を少し切って、茶霧は食器棚の一番上を見た。
 そこには、よく手入れされているらしい、華美ではないが立派な珈琲カップが飾られてあった。
 きっと、そのときのカップなのだろう。
 今も手入れされていると言うことは、水地が来たときにはそのカップを使っていたに違いない。

「幸い、お気に召されたご様子で、それ以後も時々来て下さっては大学の話や江戸の話をして下さった」

 この「江戸」と言った言葉に、江戸時代とは別の意味があるように聞こえたのは……気のせいだろうか。
 昔話ではなく、今の話であるように茶霧が言ったように聞こえたのは……。

 まあ、それにしてもだ。
 珈琲カップを傾ける水地の姿というものが、そのカップを目の前にしてさえどうしても想像できなかった。
 研究室では渚の入れたお茶か、横塚と酌み交わす酒か、そのどちらかしか飲んでいた記憶がない。

「別に水神様は西洋のものを全て嫌っていたわけではない。
 学会の帰りなぞに、西洋制服姿でいらっしゃったこともあるし……大学では背広を召していらっしゃったこともあったじゃろう」

 難しい顔をしてしまっていたらしい。
 的確な指摘が入った。
 落ち着こうとして二口目を飲む。
 少し冷めていたが、ゆっくりと味わうには丁度良い温度になっていた。
 味わいがある。
 今までに飲んだ紅茶の中でも一番か二番だろう。
 これを飲んだ後でも、自分で入れた紅茶が飲めるかどうかが少々心配だった。

 ふっと、いつの間にか気分が落ち着いていた。

「水神様は……」

 口を開こうとしたところで、茶霧がゆったりと話しかけてきた。
 間が、少しあって、

「亡くなられたのじゃな」
「!!」

 どうにも、言い出しにくかったことを言われてしまった。
 楽をしたという思いよりも、申し訳ないという思いが先にこみ上げてくる。
 自分はまだ、余りに未熟だ。
 本来、自分がちゃんと伝えねばならなかったのに。

 考えてみれば、手紙を水地でも渚でもないこんな若造が持ってきたという事実だけで雄弁だった。
 先ほどから茶霧が水地のことを語るときに過去形で語っていたことにようやく気づいた。

「……はい……」

 たっぷり二十回は息を吸って吐いて、ようやく答えることが出来た。

「……いつ亡くなられた?陸軍の内乱のころか」
「いえ……もっと前だそうです。渚……高音さんから聞いたところでは、昨年の十二月に帝都の遥か地下で……」
「そうか……、ならば先の事件を起こしたのは渚なのじゃな」

 ああ。
 この人はやっぱり、自分の知らない二人を知っているんだ。

「高音さんのことも……、よく?」
「小さい頃から、水神様が時々連れていらっしゃったし……。
 そもあの子の使っていた高音という名字はな、私の娘婿のものなのじゃよ」

 意外な言葉を聞いた。
 水地と渚は実の親子ではないと聞いていたが……

「では、渚はあなたの孫?」
「そうではない。……まあ戸籍上はそうなっておるし、おじいちゃんとも呼んでくれたがの」

 茶霧の目はふっと優しくなると同時に、哀しみの雲が差した。

 呼んで……くれた……

 そのことを素直に受け入れることは出来そうにない。
 直に渚の死を見たわけではない。
 遺体を確認したわけでもない。
 情報の中にも、生存の可能性を示したものがある。
 ただ、生死不明であることだけは間違いない。
 今、この場にいないと言うことだけが……。
 そう……思いたかった。

「八つか九つの時だったか……。数カ月ぶりに来たあの子は、十歳分近く成長しておった」

 いきなり信じられない話を茶霧は切りだした。
 話だけならそんな莫迦なと一笑に付していたことだろう。
 しかしそれは、かつて水地が教えてくれた渚の実年齢に対する確かな回答だった。

「先生にふさわしい女性になりたい……と言っておった。
 水神様は、渚がそんなことをしても喜ばれなどしなかったものをな……」

 ぎりっと、心臓に錐を突き込まれたような痛みが走った。
 これは……認めたくはないが、実感の方が雄弁だ……、嫉妬という奴だ。きっと。

「そのときは、私に頼みに来たのじゃ。
 名字を変えたいから、戸籍を使わせて欲しいとな。
 九つの子が頼みに来る内容では無かったのう……」

 またも信じがたい内容だった。
 つまりそれ以前の名字は「水地」ということなのだろう。
 あれほど水地を慕っていた渚がそんなことを言い出すというのが納得できることではない。

「水地は……渚を勘当したのですか……?」
「まさか。
 叱りはされたじゃろうが、あのお方の愛情がそれで揺らぐと思うかね」
「……思いません」

 研究室で憶えている、渚に対する水地の態度はいつも限りない優しさにあふれていた。
 実の娘ではないと言っていたが、愛娘とも言った水地の言葉には一片の偽りもないことを証明するものだった。
 それは甘やかすだけではなく、……研究室で知っているのは自分だけだが、時には水地は渚をきつく叱ったこともある。
 それらも、言葉の端々に諭すような愛情が込められているのを自分はこの耳で確かに聞いた。

 今まで、「高音」というのは、大学内で二人の関係を表面化しないための単なる偽名で、本名は水地渚だと思っていた。
 だからこそ、水地渚様宛であるこの手紙に飛びついたのだ。
 しかし……、渚が水地との関係を自ら断ち切ろうとしたというのは……。

「先生の子供では、先生のお嫁さんになれないから、じゃそうだ」
「はあ……」

 我ながら、何とも間の抜けた声しか出てこなかった。
 多分、悔しかったのだろう。羨ましかったのだろう。
 そこまで渚に想われていた水地が。
 なんだか、渚を一発くらい殴ってやりたくなった。

 何が、「先生のことを解ろうともしないで」だ。
 一番解っていないのは自分じゃないか。

「あんの……莫迦が……」

 殴ってやりたいのに、いない。
 でもきっと、目の前に渚がいてもきっと殴れないだろうとも思う。
 握りしめた拳を持っていく場所が無くなって、手紙を手にしたままだったことに気がついた。

「……すみません。これ、お返しいたします」

 少ししわが入ってしまったそれを、すっとカウンターの上に差し出した。

「……律儀じゃね」

 封を開けていないことを言っているのだろう。
 少し寂しそうな顔で受け取ってくれた。

「渚の好きなものを用意して待っていたのに、半年以上も姿を見せてくれんから催促したんじゃよ……」

 自分の書いた宛名を眺めつつ、茶霧は深いため息を付いた。
 水地渚様、と書いたのは、ちょっと叱りつけるつもりだったのだが……それも無駄になってしまった。

「渚の、好きなもの?」

 研究室では、和洋を問わず甘いお菓子を好んでいたようにも思う。

「水神様が初めて連れてくると仰ったときに用意しておいて、飲んでみたら一番の好物になったと言ってくれたものじゃ。
 ……あまり、君のような青年向きではないかも知れないが、飲んでいくかね」
「いいのですか」
「この店で他にこれを飲むものは来んよ」

 店の奥に一旦消えてまた戻ってきた茶霧は、どうやって保存していたのか、新鮮なイチゴを持ってきた。
 水地が冷凍結界を使っていたのかも知れない。
 ミルクに蜂蜜、その他いくつかの香料などが加えられてからミキサーにかけられてジュースになる。
 一見しただけで甘そうだと解った。

「どうぞ」

 考えてみればこの秋にとんでもない贅沢な代物が、綺麗なガラスのグラスに注がれて出てきた。
 もしかして、渚もこのグラスで飲んだのだろうか。
 ストローの先を入れるとき、ふっとそんなことを思った。
 ついと吸い込んで、とろりとした液体がストローを駆け上がってくる。
 冷たい感触が唇の間をすり抜けて、舌の先に甘い……甘いはずなのにどこか哀しい味が、時を止められたままだった春の香気が、その中に確かに感じられる。
 とろりと甘い舌先の感覚以上に、甘酸っぱい。

 花見で無理に酒を飲んで酔っぱらってしまったときに相手をしてやったり、
 温泉でのぼせて倒れたときに部屋まで運んで寝かせてやったり、
 水地のことを思って屋上で黄昏ていたときに泣かせてやったり、
 ほかにも……いっぱい。
 数え切れないくらい、思い出の中にあった渚の匂い。

「あ…………、かはっ…………」

 違う……。
 そうじゃない……。
 むせただけだ。
 あまりにも甘いから、耐えきれなくて咳込んだだけだ。
 耐えきれなくて……。

 水滴がこぼれ落ちる微かな音が、あざ笑うかのように耳に入ったので、視界が歪みかかってくる前に無理矢理目を閉じる。

 認めたら、駄目だ。
 それは……渚が帰って来ないと認めることになるから……。
 泣いてなんかいない。
 泣いてなんか……。

「あ……あああ………っ!!」

 何も言わずにいてくれた茶霧の優しさに甘えて、
 声を上げて、泣いた。





 我に返ると、珈琲の香りが店内を支配していた。
 そういえば営業開始時間前に無理矢理押し掛けてしまったことを思い出した。
 そろそろ辞するべきだろう。

「また……来てもいいですか」

 客の言う言葉ではない。
 また、話を聞かせて欲しいという意味だ。
 ただそれは、茶霧にとってはつらいことにもなる。
 だから、無理は言えない。

「いいとも……」

 という返答が返ってきたとき、ほっとすると共にどこか申し訳なかった。

「ただな、」

 それを裏付けるというわけでもなかったが、茶霧はそれだけでは言葉を終えなかった。

「この店で相手できるのは、いいとこあと半年ほどになるだろう」
「え?」

 一瞬何を言われたのか解らなかった。

「店を移転するのですか?」
「そうではない。……まあ、多少の修理は必要じゃろうが、渚が守ってくれたのか、他の店に比べたら壊れていないも同然じゃ」
「じゃあ……」
「私ももう歳でな。そろそろここに立つのが難しくなってきているので、前から考えていたのじゃ。
 それに……私よりもずっと若い者がいなくなってしまって……いささか疲れた」

 付け加えたような言葉だったが、後の言葉の方がずっと深く響いた。
 この人にとって、渚が来てくれると言うのは何よりの励みになっていたのだろう。
 その気持ちは、自分も痛いほど分かったから止めることは出来なかった。

「店はいずれ、常連の一人で信頼できる男に譲るつもりだ。
 最近は腕も上がってきたから、まあ、丁度いい時期なのかも知れん」

 それまでに。
 店の持ち主が変わる前に、あの渚の好物の作り方だけは習っておきたいと思った。
 そのことを告げると、

「なに、今起こっている戦いが終わるまでは店に立ち続けるつもりだからな。
 構わんよ」

 見届けようと言うのだろう。
 渚と水地が起こしたことの結末を。
 もしかしたら、帝都は本当に滅びるかも知れない。
 ただもしそうなるとしても、自分はそれまで二人のいた場所を守っていこう。
 もし帝都が助かったら、そのときは二人の記憶と共に、やはり死ぬまであの場所を守っていこう。
 おそらくは、この人と同じように。

 勘定を払おうとしたが、紅茶の分の代金しか受け取ってくれなかった。
 その意味が分かったので、ここは素直に言葉に従うことにした。

「それでは、またいずれ来ます」

 と言って扉を開けたところで、店の外の看板が目に入った。
 扉と同様、「河庵」という店の名前が小さく書かれてある。

「店の名前も、いずれ変わるのですか?」
「ああ、茶店時代からの名前じゃからな。
 この太正のご時世にあった名前にすると言っておった。それがよかろう」

 少し寂しい気もするが、なるほど確かにちょっと今の銀座に合う名前ではないだろう。

「では、何という名前になるんですか?」

 興味に駆られて尋ねてみた。
 茶霧はしばらく記憶をたどっていたようだが、ふっと思い出したらしい。

「確か……、太正浪漫堂と言っていたな」







対降魔部隊SS第七弾「虚ろなる貴方無き世界(仮)」及び、英爺氏作「太正浪漫堂」に続く



初出、百道真樹氏サクラ戦史研究所内掲示板


水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。