「裏嘆きの都」
第一話・前編
それは、もう十年も前。
それは、わずか十年前。
後に先生と呼ばれる男は、このときまだ卒業間近の学生だった。
「俺は現実問題を言っているんです。学科をまとめている先生が不在では、俺たちは卒業できないんですよ」
叫ぶのを、何とか押さえ込んでいると言うところだ。
この人に当たっても仕方がない。
問題の本質は、もっと別のところにあるのだから。
何より、青年は目の前にいるこの人を責めたくはなかった。
彼が話しているのは、この研究室の・・・正確に言えば助教授直属の助手というか講師である高音渚だった。
それほど背が高いわけではないが、細身でスラリとしているため、実数値より五センチは高く見える。
体躯にふさわしく、細面の美形でどうみても26には見えない。
「それで夢織、私に何を聞きたいのだ」
涼やかな声である。
しかし、どこか陰があった。
「先生の居場所を教えて欲しい」
「・・・おまえがそれほどまでに先生のことを気にかけていたとは、意外だな」
少し皮肉を交えたらしいが、あまりそれを感じさせなかった。
「それとこれは関係ないでしょう。この研究室の四回生が卒業できるかが現実に危ないんですし、下級生でも単位不足で進級できない奴がいるそうです。教えて下さい、高音さん」
「大した問題ではないと思うが・・・」
どうやら卒業や進級のことを言っているらしい。
「何故私に聞く?」
「あなたが先生の行方を知らないなんてことがあるはずがないんだ・・・高音渚」
「夢織。」
大気が一瞬、ピシリと音を立てたような気がした。
高音は瞼を閉じたまま、感情を読ませぬ声で続ける。
「死にたいのなら、素直にそう言え」
「・・・すみません」
半ば不本意ではあるが、今のは自分が悪い。
夢織は素直に頭を下げた。
瞼を閉じているが、この人は察知しているだろうと言う確信がある。
「でも、知っているんでしょう」
「聞いてどうするつもりだ」
「会いに行って、研究室に引きずってでも戻ってきてもらいます」
「不可能だ」
確かに、自分が水地先生を説得できる自信はない。
三百年は生きているんじゃないかと冗談話が出て来るくらい、人間の格が違う。
立場上は助教授だが、それは水地の実力に教授会が恐れをなして教授に昇進させないからであったりするくらいなのだ。
「それでも行くだけ行ってみますよ。
大体、最近あなたまでいないことが多いから、俺は大変なんだよ」
「不可能だと言ったろう」
ざっくばらんになりかけた夢織の口調に対して、高音の口調は諭すようなものだった。
「先生は生死不明だ」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
音を漢字に変換するのに一秒。
主語にふさわしくない補語に意味を当てるのに五秒。
「何ィ・・・・ッ?」
つぶやいた自分の顔がどんな表情か、鏡を見なくてもわかる。
信じられない、と言わんばかりに目を見開いているに違いない。
「調査先で事件があってな。今のところ遺体は発見されていない」
高音の声にいつにない陰があった理由がようやく解った。
一番、信じられない、と言いたいのはきっとこの人のはずなのだ。
「なら・・・同行した講師の堀田さんも・・・?」
「他言無用だぞ、夢織。このことを今はまだ教授会に知られたくない」
水地助教授が一二ヶ月いなくなるのは珍しくない、というのは広く知られているので、まだごまかせているのだろう。
それにしても・・・。
「なんで俺にそんな重要なことを話すんですか」
高音には嫌われているはずの自分である。
基本的に水地先生と対立している自分を嫌っていて当然なのだ。
「おまえは先生の認め印の場所と開け方は知っているな」
助教授と対立することが多かったが故に、夢織は書類を何度か偽造したこともある。
水地の性格なら、絶対にばれるだろうが十中八九黙認するという目算があったのだが。
こうなってはじたばたしても仕方がない。
素直にうなずいた。
「成績と卒業に関する事務もおまえがやれ。私は忙しいのでそこまで見ていられん」
「あの・・・このところの事務作業だけでも追われに追われて、俺まだ就職先が決まっていないんだけど・・・」
「知らんな」
にべもなく・・・ではなかった。
どこか含むような、聞いた後に考え込ませる言い方だった。
その虚の間に、高音は更に続けた。
「そろそろ戻れ夢織、私はこれから来客があるのでな」
「来客・・・?」
そのとき、扉が鳴った。
「来たようだ」
「・・・解った」
扉を通らずに隣の部屋へ通じる通路を通って部屋を出る。
出る間際にちらっとだけ来客の姿を見た夢織は更に悩むことになる。
若い顔立ちに銀髪の軍人だったからだ。
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