帝国大学物語
第二話「春の匂い」前編
春。
桜が咲き、若葉が芽吹き、虫たちが起き出す季節。
寒い冬が終わり、暖かな日差しの射す季節。
希望に満ちあふれ、新たなることを始めようと言う季節。
年度の始まりを欧米に倣わずに四月からと決断を下したのは、明冶政府の誰だったか。
これを祝うことにかこつけて、日本には誰が始めたのかも解らない習慣的行事がある。
おそらくは大陸伝来だろう。
桜の花見と言う名の、宴会である。
「はあーーーーーーーーーーーーーっっっ・・・・・・」
良く晴れたうららかなる春の日だというのに、それと対極に位置するような、何とも不景気極まるため息を耳にして、帝国大学文学部の水地新十郎助教授は苦笑せざるを得なかった。
確かめなくても誰だかよくわかる。
今回は暗い雰囲気と共に、多分本人は気づいていないのだろうが下級の怨霊まで寄せている。
素質はあるようなので、いずれ鍛えてやろうとは思っていた。
「こんないい日に、何を落ち込んでいる夢織」
「どうして昨夜のうちに嵐が来て桜が全部散ってくれると言うことにならなかったんだろう」
『をい』
研究室生全員による異口同音のツッコミを食らったこの学生、四回生の夢織である。
「先輩、日本の心、桜を何だと思っているんですか」
「だったら何でそれを酒と一緒に眺めないといけないんだ」
つまるところ夢織は酒が全く駄目なのである。
飲まなくても酒の場にいるだけで危ない。
この感度はほとんど病的である。
「う」
春風と共に行く先から漂ってきた酒の匂いに夢織に足がふらつく。
「だらしがないな」
突き放したように講師の高音渚が突きつけた言葉に、いつもなら反論するところなのだろうが、どうやら言い返す気も起きないらしい。
恨めしそうな横目でにらみ返す……というよりは単に視線を向けただけだ。
「おー、やっと来たか、水地研」
最上と思われる場所をしっかり確保していたのは、同じく帝大の、ただしこちらは理学部に変人名を轟かせている物理学科の横塚教授とその研究室一同である。
「待ちくたびれていたんで、たる一つは開封したぞ」
とも樽を二つも用意しているが、うち一つはもう蓋が割られていた。
「空きっ腹では回るのも早かろうに」
苦笑しつつ水地は、自分も背負っていた袋からじゃかじゃかとつまみを取り出す。
「やっと置ける」
ふらつきつつ夢織がよっこらしょと降ろしたものは、餅やら魚やらを焼くための七輪である。
これが研究室の備品だったりする。
「割れたらどうする、もうちょっと丁寧に扱え」
素っ気なく夢織を叱りとばしつつ、渚は手早く七輪に炭を入れて火をおこす。
空気の入れ方がうまいのか、すぐに熱くなっていった。
なんだか家庭的だなあと思った夢織だが、口に出すとまた文句が返って来そうだと判断して口には出さなかった。
それでも何のかんの言いつつ、渚が夢織に声をかけている回数が多かったりするのを、水地は唇の端っこで笑いながらするめを裂く。
「では、食い物も来たところで」
横塚は酒を回すように指示を出してから立ち上がる。
「えー、新年度を迎え新入生も入りうんぬんかんぬん。かくかくしかじかで両研究室の馬鹿騒ぎを願って……」
ちなみに、一言一句本当にこの通りに言っている。
「プロージット♪」
『乾杯!』
「ドイツ語にかぶれて来おったな、こいつ」
マスを傾けつつ、水地はいささか苦笑した。
物理学や化学などはドイツ、フランスが先行しているため、横塚はそれらの論文を良く読んでいる。
必然、それらの国の言語は必須なのだった。
苦笑してはいるものの、水地にしても江戸時代に長崎に潜り込んでいたこともあるのでオランダ語は十分に使えるし、黒船来航直後から英語は必死で勉強して、敵情を学ぶのに使えるまでには鍛えてある。
だが、西欧の言語は好きな言葉ではなかった。
とはいえ、横塚が遊んで使うのに一々文句を言うつもりもない。
日本語の大半も突き詰めれば朝鮮中国から来た外来語が多いのだから。
無暗に街に溢れつつある外来語たちも、いずれいくつかは日本語となって行くのだろう。
近代都史研究室の助教授として、ふとそんなことが水地の頭をよぎった。
「どうした水地、何をまた宴席で考え込んでいる」
升を平然と傾けていた横塚が、水地の微妙な眉のかげりを見つけてどやし気味に声をかけてきた。
これだからこの男は侮れない。
「桜が見事なのでな、根元に何ぞ埋まっているのではないかと邪推しておった」
「本当かあ?」
目で嘘だろうと言いつつ、横塚はそれ以上深入りすることはしない。
水地の正体を厳密に知っているわけではないが、本来自分とは違う世界の住人だと言うことはその存在から察している。
にもかかわらず信頼してくれているのは嬉しいが、踏み込んでいいかどうかとはまた別の問題だった。
必要なら奴の方から喋ってくることもあるだろう。
そんなわけで追求代わりに柄杓をすくって水地の升に注いだ。
フッと笑って水地もあっさりとそれを仰ぐ。
実はこいつの正体はウワバミなんかじゃないのかと思わずにいられないところがあるが……
まあ、やめておこう。と考え直し、横塚も一気に飲み干した。
「う……限界……」
端っこの方で、水地研の堅物こと堀田講師と餅をつついていた夢織だが、どうやら場に充満した酒気でやられたらしい。
持ってきた水筒とつまみを少々抱えて、フラフラと酒気の届かぬところへと退散していった。
「ふむ、十分二十秒。前回より一分半延びたな」
「うちの学生で何を実験している、横塚」
暇人なことに、横塚は夢織が何分持つか計測していたらしい。
ちゃんと実験用の携帯時間測定器を片手にしているあたりが何ともはや。
「あれで酒がちょいっと飲めたら、文句はないんだがなあ」
夢織を見送りつつ横塚は、独り言ではなく芝居懸かったわざとらしい口調で言った。
「……、なんだそれは?」
「ガハハハハ!御前さんの心境を代弁してやったんだよ」
平然と言ってのける横塚に、水地はこいつめ、と苦笑して仕返し代わりに酒を濃縮しつつ注いでやった。
水地の得意分野は水の術だが、転じて種々の液体に対して術法をかけることもできる。
これくらいは呪文の一つも必要とせずにやってのけたので、横塚は口にした瞬間にそれに気づいた。
が、これでもかまわず平然と傾けて、水地の升からこぼれるまで注ぐ。
泥仕合の始まりに、両研究室の応援合戦と周辺対決も始まった。
じゃぶじゃぶ。
小川で顔を洗って、ようやく落ち着いた。
まだちょっと頭の端が痛い。
とりあえず水筒からお茶を注いで、ふんだくってきた餅に海苔を巻いて食べる。
遅い昼食なので、食べる分にはしっかりと取っておく。
食べ終わると、小川に向かって下っている土手にごろりと横になった。
雑草が適度に生えているので、寝転がっても痛くない。
地面に顔を近づけたことで春の息吹が鼻をくすぐった。
ふと横を見ると土筆も生えている。
穏やかな風が吹いて、土手の上に並んだ桜の花びらが時折ひらひらと舞い降りて来た。
別にお酒なんか飲まなくても、こうやって春を眺めているだけでも楽しいだろうに。
何で花を見るのにお酒が必要なんだ。
と、心中で日本の年中行事に喧嘩を売る。
そうだそうだと賛成するように、モンシロチョウが二羽寄り添って飛んできた。
酒の臭気で花の匂いが消されては蜜を吸うのも大変だろうに、などと変な同情をしていると、なんだか飛んでいる蝶が頷いているように見えてしまう。
「……だめだこりゃ、酔ってら……」
自分に言い聞かせるようにして事実を確認する。
一応避難してきたつもりではいるが、風に乗って多少なりとも酒の匂いが飛んできているらしい。
「しばらく……おとなしくしていよ」
のどの渇きを覚えて、水筒からお茶をもう一杯……
「渚にも、分けてくれんか」
吃驚してあやうくこぼしそうになった。
「……なんであんたがこっちに来るんだよ」
起きあがって振り向くとすぐ近くまで来ていた水地は、
「あれ?」
髪の長いぐったりとなった人物を抱きかかえていた。
見慣れないが、しょっちゅう見ている人物である。
「高音さん、意識すっ飛んだのか」
腰までもある長い艶やかな髪は見間違えようもない高音の物だ。
ただし、いつもと受ける印象が全く違っている。
そうっと、壊れ物でも扱うような丁寧な動きで地面に降ろされた高音は、どこからどう見ても愛らしい美少女だった。
酒に酔ったのか、元々は抜けるように白い頬が柔らかい赤に染まって、薄く開かれた唇から時折吐息が漏れる。
「十一か十二の女の子に、酒なんか飲ませるな!保護者!」
回りに誰も聞いている者のいないことを確認してから、研究室でもこの場にいる三人しか知らない事実を引っぱり出して正面から水地を責める。
……なんで、自分は怒っているんだ?
ふっと疑問が頭を通り過ぎたような気がしたが、フラフラ頭だったのですぐ忘れた。
「肉体年齢は一応十九ほどだからな、本来は問題無いのだが、私がちょっと横塚と勝負をしている隙に二杯ほど傾けてしまったらしい」
「で、意識を失ったってわけか。何考えてんだこの人は」
高音はいつも意識的に自分の気配を制御すると共に、常に周囲に向けて作った自分の印象を放っている。
そのためにこの美貌を見られても女性とは認識されないので、野郎ばかりの大学に潜り込んでいられるのである。
だが、意識を失ってしまうと当然これもできなくなる。
そのためにいつもとは全く違う、見慣れない姿として映るのだ。
……というよりは、本来の姿が解ってしまうと言った方が適切だろう。
「さすがにこのままで寝かせて置くと、女だと知られないはずがないからな」
それはそうだろう。
素の状態の高音を・・渚を見て、男だと認識してしまう奴がいたら、そいつは目が腐っている。
「知られてしまった方が、この人を手放すにはいいんじゃないのか」
水地の愛娘。
それは疑っていないが、水地があまり渚に背伸びをさせたくないと思っていることも事実である。
詳しい事情は知らないが、十一か十二の女の子が身体だけは大人になってなおかつ男装……というのとは厳密に言えば少し違うがまあ似たようなものだ……までして大学に潜り込んでいるというのは尋常な話ではない。
そしてそれが、水地の傍にいて役に立ちたいというたった一つの真っ直ぐな想いから来ていることにも、最近になって気づいた。
娘が父を見るときの目じゃ、ない。
「いや、最近考え直してな。どうやら大学にいさせた方が良さそうだ、という結論に至ったのだ」
意味有りげに水地は笑ったが、この笑いの意味は計りかねた。
「そういうわけだ。渚の面倒は頼んだぞ」
「おいっ!」
渚の服の裾を整えてから当然のように立ち上がった水地を、思わず呼び止めていた。
「何だ。横塚と勝負の途中なのであまり長居は出来んのだぞ」
「……………………あのなあ、俺だって男だぞっ」
これで意味の分からない水地ではあるまい。
いや、そもそもそのことを水地が解っていないはずがないのだ。
このあたりにも桜が植わっているとは言え、花見の中心地からは離れているので、さっきからほとんど人が通っていないと言うことも。
渚は何にも聞こえていないのか、幸せそうな顔で寝息を立てている。
その寝顔を眺めてそっと微笑んでから、水地は言った。
「大丈夫だ、おまえならば」
普段は渚にしか向けられることのない優しい笑顔を、正面から見たのは初めてのようにも思う。
大きい。
無意識のうちに、心中でつぶやいていた。
感じられる水地の存在感が、いつもにも増して大きく見えた。
だが、それを感じさせたのは一瞬のことで、水地はすぐに表情を堅く冷たいものに変えた。
「おまえに、渚を襲えるだけの度胸はあるまい」
唇の端っこに、にやけたような笑いが残っている。
「言ったな……」
否定しきれないのが口惜しい。
ただ、本当に渚に危険が迫ったら、多分水地はどこにいても察知して、瞬間移動で飛んできて食い止めるのだろうとは思う。
「では、任せたぞ」
「あ……ちょっと……」
行ってしまった。
「任せるも何も……どうすればいいんだよ」
水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。