眠れなかった。
眠れるわけがなかった。
布団に入って目を閉じても、瞼の裏か網膜か脳裏か、ともかく呆れるほど鮮明に覚えている映像が蘇ってきてしまい、興奮して目がさえてしまった。
布団から抜け出して、腕立て、腹筋、背筋等々思いつく限りの疲れることを試してみたが、どれだけ疲れ果てても眠る前に思い浮かんでしまう。
結局、東の空が白み始めるころには燃え尽きたようにぶっ倒れていることになった。
それでも一睡もしていない。
小鳥のさえずりが天国かどこかから聞こえてくるようだった。
まずい。
これは相当頭にきている。
何とか正気を取り戻そうと思い、鉛の鎧を纏ったように重い全身を引きずり起こす。
かろうじて立ち上がった……と思ったら、いきなり膝が崩れて顔面から畳に突っ込んだ。
畳の目に沿っていたのでまだ助かった方だが、それでも額と鼻の頭が痛い。
こうなったらとことん無様でいいやと開き直って、芋虫か尺取り虫のような動きで井戸のある庭先まで移動する。
最後は土の上なので、ここだけは何とか立ち上がった。
倒れ込む勢いを利用してポンプを一押し。
桶ですくっていた時代に比べて文明の有り難さを実感しつつ、ジャアッっと水が出てくる。
まず水分の補給。
それから思いっ切り顔を洗う。
その冷たさでようやく思考がはっきりしてきた。
しばらく倒れ込んだままでいると、徐々に水分が身体に行き渡って来たような気がする。
乾物になった気分だった。
東の山の稜線から日の光が射してきてようやく身体がまともに動くようになった。
今日は朝ゆっくりで、昼間少し箱根見物して帰るだけなので、多分なんとかなるだろう。
今ならもしかしたら一眠り出来そうな気がして部屋に戻ることにした。
『あ』
角を曲がったところで、見事に声が重なった。
よりにもよって今一番顔を合わせたくない人物がそこに立っていた。
それはどうやら向こうも同じらしい。
起き抜けらしく髪の毛がやや散らばっている印象を受ける高音の顔は、みるみる不機嫌そのものになっていった……などと生やさしいものではない。
殺気を超えた明確な殺意が瞳に宿っている。
ただ、その表情はいつものようなつり上がった目の冷たいものではなく、純粋に隠し立て無しに素直に怒っている少女のそれだった。
よく見ると高音も一睡もしていないのか、目が赤いのが痛々しく感じる。
そのため、殺されるという意識と、可愛いと思う意識が同時に湧き起こってきた。
人生の終わりかも知れないので意識が変になっているのかも知れない。
高音の右手に火花が走り、さらにその先に朝日の中でさえ鋭く光を放つ朧な剣のような物が見えた。
しかし渚は、電撃剣を出したところでその動きを止めざるを得なかった。
振るえばこの男の首はおろか、五体まとめて四散させることが出来るほどの威力がある。
思いっ切り、そうしてしまいたいのに、
−−駄目だ−−
先生の言葉がよみがえってきて、頭の中で響く。
「うう・・」
生まれて初めて、先生の言いつけを意図的に破りたい衝動に駆られてしまい、渚は泣きたくなってきた。
みんな、みーんな、こいつが悪いんだ!
私の裸を見て、それだけじゃなくって身体中……
考えただけでもまた顔から火が出そうだ。
それを正面から見ていると、元々が抜けるように白い頬が朱に染まって、……えもいわれぬ美しさというのはこういうことかと思わされる。
そう思うと、現世に執着したくなってきた。
この顔をもっと見ていたい。
我ながら狂っていると思うが、そんな気持ちに囚われながらともかくこの場を切り抜ける方法を探る。
「ちょっと待て高音さん。
オレは問答無用で殺されるようなことはやっていないぞ」
しかし、口をついて出てきたのはあまりにも月並みな言葉だけだった。
これでは弁明どころかかえって火に油を注いでしまったような気がして後頭部に冷や汗が走る。
「やってるわよ!
乙女の裸を見ておいて、八つ裂きにされても文句言える立場かぁ!」
威圧感は凄まじいのだが、妙に迫力に欠ける。
可愛すぎるのだ。
何も細工していない高く通る声は、叫びになっても耳に心地よい物だった。
とはいえ、内容は物騒極まる。
反射的に売り言葉に買い言葉が出た。
「覗いたんならそうだろうが、オレは気を失ったあんたを救けたんだぞ!
混浴風呂の中で気絶しておいて、そっちこそ文句が言える立場かよ!」
完全に火がついた。
しかし、剣ではなく舌戦となったのでひとまず数分の命は続きそうである。
即座に高音も言い返してきた。
「おまえが後から入ってきたから出るに出れなくなっちゃったんじゃないか!
好きで気絶していたわけじゃない!」
「だったら着替えをすぐわかるところに置いておけばいいだろうが!
あんな目立たないところに隠してあって、人が入っているなんて思うかよ!」
「おまえも先生の研究室に入って半年も経つんだから、気配くらい探れるようになっとけ!」
「ふざけんな!オレはあんたや水地と違って善良な一般市民なんだよ!」
「どうせ女の裸が見たくて混浴に入ってきたくせに、何が善良な一般市民よ!」
「その辺の理屈と浪漫については酒井さんにでも尋ねてろ!
大体学生と一緒の旅行で混浴になんか入りやがって、あんたこそ男の裸が見たかったんじゃないのかよ!」
「おまえみたいな助平といっしょにするな!
露天風呂なんて初めてだから入ってみたかっただけよ!」
さすがにここで言い返そうとして息が切れた。
高音も叫ぶだけ叫んで息を切らしている。
お互い、額に汗を浮かべて大きく肩で息をしつつ正面から睨み合う。
半歩踏み込めば唇が触れるくらいの距離しかない。
口から大きく吸い込む大気の半分くらいは、互いの身体の中を通ってきたものかも知れない。
「……大体、救けただけじゃ……ないでしょ……」
息が整わないこともあるだろうが、どこか控えめに高音がつぶやいた。
伏せがちながら見上げてくるその瞳がどれほど魅力的に見えているのか、本人は気づいていないんだろう。
「それだけだよ。それ以上何にもやってねえ」
「嘘だ!
だって私の身体濡れていたのに、目が覚めたら浴衣着ていたもの……。
か……身体中……触ったんでしょ……」
思い切り怒りを叩きつけてやりたいのに、何故かうまくいかない。
身体に力が入らない。
見つめられているところが、まるで触れられてでもいるように感じられてしまう。
今はちゃんと服を着ているのに、恥ずかしい。
「冷やさないように身体を拭いて、浴衣を着せて、布団に入れてやるためだ。
不可抗力だろうが」
「う……」
お前なんかに触れられるくらいなら沈んでいた方がましだと言いたかったが、何故か高鳴る鼓動が、それを押しとどめていた。
助けてくれたんだ・・ということをようやく実感する。
一応、優しいのかも……と思いそうになって、慌てて思考を否定しにかかる。
「だ、だけど……そのとき、身体中触ったのは……事実でしょ……」
「直接触ったのは一部で、あとはタオル越しだ!」
「どこ触ったのよ!」
思わず言い返したこの一言は、自ら墓穴を掘ったに等しかった。
というのもその返答が、
「肩から腕にかけてと、太股から足にかけてと、それから背中と首と……」
具体的に挙げられると、覚えてもいない触れられたときの感触が蘇ってくるような気がした。
「ほとんど全身触ってるんじゃないかぁ!」
大っ嫌いなこいつの前でなければ、今すぐこの場で泣き出してしまいたかった。
「ええい!胸とか尻とか、それから……その……えっと、つまり……なんだ、とにかくそういうところは触ってないからいいだろうが!」
答える方も恥ずかしい。
触ったときの喩えようもなく柔らかな感触が、指や掌にくっきりとよみがえってきて、煩悩に圧倒されてしまいそうだ。
「嘘だ!身体中触ってひどいことしたに決まってる!」
「なんでそう決めつけてくるんだよ!やってないって言ってるだろうが!」
「そんな言葉信用できるわけないでしょ!
襲ってないわけがないじゃない!
私のこと目の敵にしているお前なんだから、気を失っているのを幸いにして辱めてしまおうとか考えているに決まってるんだから!」
「ちょっと待て!裸を見るまであんたが女だなんてそもそも知るわけないだろうが!
知ったのは見た瞬間からだ!」
「じゃあ……、じゃあ、なんで……
なんで襲わなかったのよ!!」
「うっ…………」
今度はこちらが言葉に詰まった。
一番来て欲しくなかった質問だった。
「答えられないの?やっぱり襲ったんでしょ……!」
「襲ってないって……」
「じゃあ理由を言ってみなさいよ!言えるものならね!」
言えるか馬鹿野郎。
心中毒づいておく。
この場面で真っ正面から白状したら、ほとんど愛の告白になってしまうじゃないか。
本音なんか口が裂けても言えるか。
とにかくここはなんとか理由らしい物をでっち上げて凌ぐしかない。
ええっと……
「襲う気にならなかった」
「え……?」
これは本当だ。
意表を突かれた形になった高音は、こちらの喉元に突きつけようとした電撃剣を取り落とす・・ということにはならずに、手の中から消滅する。
一応なんとかなりそうだと判断して、さらに思いつくまま言葉を繋げることにした。
「色気を感じなかったってこと。
昼寝をしているみたいな顔で化粧ッ気も無いし、欲情するほどの胸があるというわけでもなかったし、これじゃあそもそも襲おうなんて……」
よくもまあ本心と逆の台詞がぽんぽんと出てくるものだと、我ながら感心してしまう。
頭のネジが既に四五本すっ飛んでいたのかも知れない。
気がついたときには高音の肩が小さく震えていて、口をほとんどへの字に曲げて、瞳中が潤んでいて、
「え……?」
泣かしてしまった。
それも、口に出した台詞とは逆にはっきりと認識している、よりにもよってとびっきりの美少女をだ。
これは男として最低の行為ではないだろうか。
裸を見たとき以上の、壮絶な罪悪感がこみ上げてくる。
多分、高音自身ものすごく気にしていたんだろう。
はるかに年上の、水地に憧れ続けているからなおのこと……。
肩の震えが大きくなり、腕から全身がわなわなと震えている。
「ご……っ、ごめん……!わるかっ……」
今さら謝ってももう遅い。
ゆらり、と高音の身体が舞うように動いた。
「ゆめおりの……」
たおやかな右腕が虹色の光を放ちつつ、音を後ろに従えた速度で振り抜かれる!
かわせるわけがない……!
その寸前に、一瞬だが強力な霊力の壁が出現したように見えて……
「ばかあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっっっっっっ!!!」
精霊集約、精華翔舞。
一瞬見えた壁を、精霊達は容赦なく突き抜けてきた。
そして、飛び交う精霊達よりもなお早く高音の柔らかな手の平が、殺人的速度で左頬を直撃する。
だが、なぜかその感触を確かめるように身体の中から妙な力が沸き上がってきて、その衝撃を受け止めようとしたかに思えた。
なぜだかは解らないが、しかし、それでも防ぎきれるものではなかった。
直後、足が床から離れて頭から全身へと猛烈な回転が加えられつつ後方へ吹き飛ばされる。
後ろに壁がなかったのは不幸中の幸いだろう。
宿の庭からはるか先まで、ゆうに五十メートルは飛ばされて草地に落下。
さらにそこから十数メートルほど地面を滑ってやっと止まった。
「そこで一生死んでろーーーーーーーーーーーーーーっっ!」
論理的には間違った内容の叫びが、その割には可愛らしい声ではるか遠くから聞こえてきたので、かろうじて自分が生きていることが解った。
「し……死ぬかと思った……」
だが、殺されかけたというのに、初めて触れられた高音の手のひらの感触は、はっきりと覚えていた。
「……オレ、やっぱり変態かも……」
* * * *
「お?どうした夢織、全身派手に怪我なんぞして」
「あー、その……、淡い青春の痕跡とでも申しましょうか……」
「はあ?」
酒井と夢織が話している声が聞こえてくるので、渚は拗ねたようにぷいと横を向いて食事をしている。
一応暫定的ではあるが決着が付いたようなので水地はほっとしていた。
精華翔舞の寸前に介入していなければ危うく殺人事件になっているところだったが、夢織の潜在能力も一時的に目覚めたらしく、これはこれで収穫だった。
直撃ではなかったとはいえ、渚の繰り出す精霊達を食らって朝食を摂れるというのは大したものだ。
しかしそれ以上に水地が驚いているのは、渚が実に素直に感情を表に出して、素顔に近い姿で怒っていることだった。
いつも無理をしている愛娘がこうやって素のままでいるのはなんとも微笑ましかった。
これは、考え直すべきかも知れない。
今までは渚を研究室から遠ざけることばかり考えていたが、方針を変えてみようかと水地は考え始めていた。
そう思い、自分の姿と雰囲気をごまかすことすら忘れている渚の周囲に細工をして、いつも通りの雰囲気の渚を周囲に見せておく。
夢織は、その細工をする前の渚をしっかりと視界の端で眺めていた。
箱根旅行は、その後滞り無く終了した。
* * * *
「うー!腹が立つー!」
家に帰ってきた渚は、収まりきらない怒りを座布団にぶつけている。
本気で渚が八つ当たりをしたらこの辺一体が消し飛んでしまうかも知れないが、押さえるくらいの分別は残していた。
とはいえ、周囲の精霊が感化されてピリピリしているので、あずさたちは怖くて近づけない。
「しょうがない、俺が行って慰めてきてやるか」
「優弥、お前は止めておけ」
「あら」
久々にお兄ちゃんらしいことが出来ると張り切った優弥は、水地に止められて思わず後ろにのけぞった。
「そりゃないでしょ、先生……」
「今回は少々訳ありでな。男が行っても仕方がないのだ」
その言葉に、あずさの目がきらーんと光る。
「ひょっとして渚ちゃん、旅行先で唇を奪われちゃったとか……!!?」
「違うわ」
「きゃーっ」
一応あずさに軽くお仕置きをしておいたが、そう的はずれな見解というわけでもない。
「私が話して参りましょうか、水地様」
紗蓮がついと進み出てきた。
優弥がお兄ちゃんならこっちはお姉ちゃんである。
「そうだな。頼む、紗蓮」
* * * *
「渚、そんなことをしていると座敷わらしに叱られるわよ」
「……紗蓮さん」
言われてようやく、座布団を虐待していたことに気づいた渚は手を引っ込めてうつむいた。
「一体どうしたの?聞かせてくれるかしら」
教えて、ではなくて、聞かせて、である。
渚が話したくなるようにうまく計らうのはお手の物であった。
「ええ、聞いてください紗蓮さん。酷いんですよあいつったら・・」
かくかくしかじかぐちぐちくどくど……
「あらら、それはあんまりな言い方よね」
「そうでしょう!夢織のやつー……」
頭に血の上った渚は気づいていなかったが、「あんまりだ」ではなく「あんまりな言い方だ」と紗蓮は言っている。
その夢織という青年の思考が大体読めたのだ。
渚にそんな風に迫られて本気で答えることが出来なかったのだろう青年の、困り果てたような顔まで大体想像が付く。
精華翔舞まで食らったという彼に、いささか同情しないでもない。
「渚もちゃんと育っていっているのにねえ」
「きゃあ!ちょっと……紗蓮さん!!」
いきなり胸を触られて渚は思いっ切り慌てた。
「うんうん、発育良好」
本人は大人になっている意識だから不満なのだろうけど、十一歳という本来の年齢で考えれば十分以上だと思う。
「そんなことを言って来るんだったら、見返してやればいいのよ。ね」
「あ……。そっか」
渚はぐっと拳を握りしめて決意を固めたらしい。
「よーし、あいつの卒業までに思いっ切りいい女になって、襲わなかったことを後悔させてやるんだから!」
「そうそう。その意気よ、渚」
渚をのせつつ、紗蓮は笑いを堪えるのに苦労していた。
渚の言い方が何とも愛らしいというか、罪が無いというか。
渚自身まだ気づいていないのだろうけど、それが何の前兆であるか紗蓮にはよく解る。
「一年半後ね。楽しみにしているわよ、渚」
どこまで話が進展しているかをね、と心の中でつけ加えた紗蓮の心情には気づかずに、
「はいっ!」
と渚は元気良く答えた。