帝国大学物語
第一話「湯煙温泉旅行」後編


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 酸素とアルコールとどちらが多いのだろう。
 そんな空間であった。
 食物を摂らずとも呼吸だけで用が足りるという真似は果たして可能だろうか、などと愚にもつかぬ事を考えていた水地である。
 いたいけな三回生は既に全滅しており、今意識を保っているのは四回生だけである。

「よし、目標撃沈せり」

 向かいで、講師の堀田と呑み比べしていた四回生の酒井が勝ち鬨を上げる。
 かつて受け持った教え子の中でもこの酒井は群を抜いて強い。
 堀田も自分への対抗意識があるせいかなかなかに保った方だと思うが、今は卓に突っ伏して倒れている。
 それを横目に、酒井は戦利品の刺身をパクついていた。

「次は私とやり合ってみるか、酒井」

 箸からポロリとマグロが落ち、酒井の顔が蒼くなった。

「いえ……今は謹んで遠慮させていただきます」

 大学にはいる前から遊び慣れている酒井は、研究室新入生歓迎会でも水地に敢然と挑み、そして生涯初めての敗北を味わさせられた。
 さらにその後、理学部の横塚教授にも負けている。
 酒井はまだ到底勝てる気はしない。
 この二人は化け物中の化け物なのである。

 ちなみに、水地の正体が妖怪でしかもウワバミであるという噂の出所はこの酒井だったりする。
 それは彼にとって最大級の賛辞であるのだが、意外にもそれなりに真実に近いところをついていたりするものである。
 ともあれまたあっさり空になった水地の杯へ、横にいた襟倉が苦笑しつつ瓶を傾けた。

「ん?」

 水地がふと気配に気づいて入り口を見やったところで襖が開き、濡れた手ぬぐいで鼻と口を塞いだ不審人物が入ってきた。

「おう、どうした死人」

 酒井が声をかけたので他の四回生も、なんだ夢織か、と納得する。
 よく倒れないでいるものだと思ったら、どうやら呼吸を止めているらしい。
 やれやれと苦笑してから水地は視線に軽く力を込めて夢織の周囲の酒気を吹き飛ばした上で遮断した。

「もう呼吸できるぞ」
「え……?」

 ちょっと舌を出して大気に触れさせてみると、確かに酒の味はしない。

「自殺行為同然に何をしに来たのだ、お前は。刺身なら既に酒井が……」
「ハイ、既に接収完了しております」

 接収ではなく摂取の間違いではないかと思う水地である。

「えーっと、その、まあ……自殺行為ってえのはそう間違いじゃないんですが、先生にちょっと来てもらいたくて」
「……?私でなければならんのか?」
「はあ、ちょっと高音さんが」

 一同揃って、珍しい、という顔をする。
 少々距離が離れていようが、水地と高音の間に伝言が必要になったことはないのだ。
 きっと心話でも使っているんだろうと、研究室では誰も疑問に思わない。
 ということはおそらく、気分が悪くなって倒れたのではないかと酒井は考えた。
 高音の耐久力は常人とほぼ変わらないので、夢織ほどではないにしても酒気に当てられた可能性がある。

「ふむ」

 水地は渚が子供のころは常にその周囲に注意を払い、何か起こってもすぐに対応できる体勢でいたのだが、渚が大学に入ったのを機に危機感知結界だけを張るだけにまで監視を緩めている。
 あまりに過保護に過ぎると黒鳳に笑われたからなのだが。
 心中舌打ちしつつ愛娘の様子を調べてみる。
 場所はすぐに解った。
 講師の宿泊部屋で眠り込んでいるようだが……少し呼吸に落ち着きがない。

「なるほど。済まぬが席を外させてもらうぞ」
「ぶーぶー」

 やる気のない文句の声をあげる酒井に、牧野の裏拳が入りおとなしくなる。
 夢織は一足先に部屋から逃亡していたので、水地は早々に後を追って襖を閉める。

「さて」

 部屋を出てしばらく歩いたところで水地は立ち止まった。
 覚悟はしていたので夢織としても止まることにする。

「何があって何をしたのか。包み隠さず報告せよ」
「は……、はい……」

 既に大気が凍気を帯びてきている。
 怖くて水地の顔を直視できない。
 本気で脳裏に死の一文字が浮かび上がる。
 何度も唾を飲み込み息を整えようとする。

「落ち着け」

 落ち着いていられるものか。
 目の前にいるのはおそらく帝都でも一二を競うであろう最強の存在なのだ。
 その逆鱗にわざわざ触れに行くのだから、やっぱり逃亡すればよかったという気になってくる。
 しかし、人生最後となるのなら、せめて胸を張って立っていようではないか。
 そう思い、ようやく口を開いた。

「一時間ほど前、私が混浴の露天風呂に入っておりましたところ……」

 そこで水地の眉が微かに跳ね上がった。
 次にどういう言葉が行くのか予想がついたらしい。
 ままよ、とばかり言葉を続ける。

「奥の岩陰で意識を失った高音さんが沈みかかっているのを発見。
 これを救助しました」

 風呂の中でということから自明であるので、救助したときの互いの格好については言及しない。
 恐ろしくて言えるはずがなかった。

「湯から引き上げて、見たのだな」

 その声だけで魂を吹き飛ばさんまでの威圧感がある。

「は……はい……」

 何を見たのかは言わずもがな。
 不可抗力だとか、下手に弁解を入れようものなら多分その瞬間に舌先を裁断されていることだろう。
 幸い、未だ執行は飛んでこなかった。
 先ほどと同じ表情のまま、水地はただ口を開いた。

「次にどうしたか、続けろ」
「長時間湯に浸かっていたのか、のぼせて意識を失ったように見受けられたため、浴室から運び出しました」
「体勢を詳細に説明せよ」

 聞いて欲しくないところを思いっ切り的確に聞いてきてくれる。
 水地が本気になったら教授会の長老たちでさえコテンパンに論破されると噂されるが、有り得る話であった。

「さ……、最初は膝裏と背中に手を回して抱き上げましたが、その後一身上の都合により背中に背負い変えました」
「一身上の都合、か」

 そこで水地は微かに笑った。
 死神が犠牲者を前にして微笑むとしたらこんな笑いになるんだろうか。

「運び出して、どうした?」

 いたぶり殺す型の死神らしい。
 もっとも、水地にしてみれば一部始終を知っておかねばならないのだろう。
 だから報告が終わるまでは少なくとも生きておけるらしい。
 それだけ水地にとって高音さんが大切だと言うことなのだろうが……そういえばこの二人の関係もよく解らない。
 いや、ますます解らなくなってきた。
 表面上は師弟関係。
 だがまるで女っ気のない水地を揶揄するように一部でささやかれていた愛人関係というのは……
 いや、それはいくらなんでも無いと思う。
 でも今にしてみれば、高音さんが水地に向けていた目は……
 くそ、なんだってこんなに肋骨の裏が痛むんだよ……!

「夢織」

 気がつくと水地は数歩近づいて来ていて、真っ直ぐに自分の瞳をのぞき込んでいた。

「……っ!!?」
「安心しろ、殺しはせん」

 心なしか、先ほどより穏やかな声に聞こえた。

「読んだのか……?」

 心を、だ。
 水地が精神探査を使えたとしてもまるで不思議はない。
 しかし、意外にも水地は首を横に振った。

「渚を辱めるまで堕ちていれば、そんな目はしていないだろう」

 その言葉はある意味で精神探査よりも恐ろしかった。
 自分は、さっき何を考えていたんだ?
 高音さんが、水地に向けていた視線のことを……
 それは、つまりそういうことだと、納得せざるを得なくなってしまった。
 読まれたというのならば反発も出来るが、顔に出てしまったとあればどうにも否定のしようがなかった。
 それは表面上の思考ではなくて、自分の偽らざる気持ちだということなのだから。

 嫉妬、というやつだ。

 そうだろう。
 もし最後まで実行していたら、先ほど自分の顔に浮かび上がったのは薄汚い優越感と征服感であり、そして断罪されるべきであったはずなのだ。
 否定のしようがなくなった一方で、少し落ち着いた。
 落ち着いて、そして自分のとった行動を反芻することにする。

「脱衣室まで運び込んで、まず長椅子に寝かせた。
 それから高音さんのバスタオルを引っぱり出してきて身体中を拭いた。
 直に手で触れたのは肩から先と、頬の一部と、膝から先。
 あと、体を起こすために背中も少し……」
「バスタオル越しなら、全身まさぐったというわけだな」

 水地がもう一歩踏み込んできた。
 否定は、出来ない。

「……ああ」
「いい度胸だ」

ゴオウッッ!

「ガッッッ!!」

 水地の目が見開かれたかと思うと、凄まじい殺気が全身に叩きつけられた。
 一瞬、全身をズタズタに引き裂かれたような感覚が脊髄から脳に伝達されたが、それは水地の放つ膨大な霊力に当てられた頭が独りでに見せた幻だけだったらしい。
 この旅館くらい丸ごと消し飛んでしまわないのが不思議なくらいの圧力だが、どうやら無制限に放っているのではなく、自分に向けて収束させて叩き込んでいるらしかった。
 などと、かろうじて考察している気力があるのは、水地自身が殺さないと先に約束したからである。
 権謀術数いくらでも弄することの出来る水地だが、学生に向かって空約束をしたことはない。
 だからこそ、恐れられつつも他研究室の学生にまで尊敬されているのだ。
 その殺気も殺す気ではないはずだ。
 そう確信してうつむきそうになる首を上げて水地に真っ直ぐ向き直ろうとする。

「……!?竜!?」

 その時、水地の姿がぼやけて別の物のように見えた。
 青にも緑にも見える深い色合いの鱗、蛇のように長い胴体に、長い爪を先に生やした両手両足。
 長い顔に角、切れ長で金色に輝く瞳。
 日本人にとってはあまりにも身近で、実際にはほとんどの者が見たことなど無いはずであろう存在、竜。
 自分も、当然ながら見るのは初めてだった。
 もちろんこの廊下に収まる大きさではないので、これも現時点では虚像なのだろうが……その神気ともいうべき存在感は思わず崇めたくさせられるほどのものであった。

「見えたか、夢織」

 少しだけ意外と言う顔をして、水地は殺気というか神気を叩きつけるのを止めた。
 緊張感が解けて、こちらはへたり込んでしまう。
 よく失禁しなかったものだ。

「隠さず、と言ったはずだ。
 先ほど何か、一つ二つ隠したことがあるだろう」

 人間じゃない。
 確かに人間じゃない。
 絶対に人間業じゃない。
 心を読んでいるわけでもないのに、何でそこまで見抜いてしまうんだ!

「素直に白状しろ」
「眠ってる高音さんにのしかかった」
「…………。その後は?」
「……何にも出来なかった」

 自分が惨めに思えてきて、自嘲気味に吐き捨てた。
 そこをしっかり水地は突いてくる。

「何故かな?」
「悪かったな!意気地無しで!!」

 これ以上言わせるなと、思いっ切り声を叩きつけてやった。
 本当はそうじゃない。
 だが、そんな恥ずかしいことを言わされるよりまだこの方がいい。
 どうせ言わなくたってこれで見抜かれるはずなのだし。
 案の定、水地の笑みが変わった。
 口は引き締めて、目は思いっ切り笑っている。
 その人の悪そうな笑みの中に、どこか優しげな雰囲気が漂っているように思えたのは何故だろう。

「なるほどな。そういうことにしておいてやろう」

 と言って水地は、左拳を握りしめて演技過剰気味にはーっと息を吐き掛ける。
 さらに湧き起こした風によって裾を翻して、流れるような動作で振りかぶる。

「げっ」
「夢織、歯ぁ食いしばれ!」

 一瞬だけ神気を放ちつつその拳が、

 ばきこん!

 派手な音を立てて右頬に炸裂した。
 力積で二跳び分ほど後退させられ、踏みとどまろうとした膝も崩れてその場にへたり込んだ。
 足に来ている上に、頭の中がぐるぐる回って目の前に星が飛んでいる。
 もっとも、水地が千分の一も力を込めていなかったことは明らかだ。
 神気は命中の瞬間ではなくその前に演出というか脅しとして発せられただけだし、頬も痛みこそ焼き付けられているが、実のところは歯一本とて折れていない。

「人の愛娘の裸を見た代償としては安いものだろう?」
「……愛……娘……?」

 ことさらいかめしい顔つきで水地が言ったその単語の意味を理解するのに六秒ほど要した。
 それは、つまりだ。
 思考がまとまると時を同じくして驚きが発動する。

「あんた結婚していたのか!?」
「赤子のころから育てた少女を娘と呼んではいかんか」

 水地の返答は自分の答えとは外れているようで、実は正確以上に説明していた。
 水地が高音さんに対して注いでいる、弟子に対してには余りに過分な愛情の理由も。
 高音が水地に向けている目が、娘が父に向けるものとは違っている理由も。
 何だか、無性に腹が立った。

「ひょっとして……、若紫?」
「たわけ」
「ぎゃーっ!」

 水地の指先から凍気が小竜の形を取って発せられ、全身をぐるぐる巻きにされた。
 思いっ切り冷たいことこの上ない。
 ちなみに若紫とは源氏物語の章題の一つで、光源氏が幼少のころに見いだして妻になるまで育て上げた紫の上のことを指す。
 ともかく、否定の仕方はまっとうな物だった。
 水地にはその気はないのだろう。
 ほっとした。

「お許し下さいませお代官様もう申しません」
「解ればよい」

 終わりがけに髪の毛の先を半寸ほど凍結させられたがともかく解放された。

「確かにもう十一年育てているが、赤子のころから数えての話だ。
 あの好色一代男と一緒にするな」

 そう言ってしまうと別の作者の別の作品になってしまうが、水地はもちろん解って言っているのだろう。
 光源氏が好色一代男……あんまりだと思うがまあ解らないこともない。
 しかし、肝心なのはそんなことよりもだ。

「今何て言った?十一年だ!?」
「そうだ。正確に言えば十一年と一ヶ月弱だな」

 いくらなんでもそんな莫迦な。
 高音が十一歳だというのか。
 確かに童顔だという評判は以前から立っていた。
 大学に登録されている年齢は二十五かそこらになっているはずだが、研究室の四回生も含めて大体の人間は高音の実年齢を十八から二十ほどだと考えていた。
 だが、その約半分とは考えもしなかった。
 背はそれほど高くないと言っても、女性の平均身長を考えればほぼ大人のそれだろう。
 実務能力を考えても、高音は帝大近代都史研究室においてお飾りの講師をやっているわけではない。
 一週に三回の授業も受け持っていてその教え方には定評があるし、水地の留守中にはその代理として事務局や教授会とよくやりあっていたりもする。
 研究室の予算管理は高音がほぼ一手に引き受けていると言える位なのだ。

「事実だ」

 混乱に止めを刺すというか決着をつけるように水地は言い放った。
 どうやら失言ではなく意図して言ったらしい。
 しかし、その理由は計りかねた。
 手を出したら犯罪だという脅迫だろうか。
 それとも別に何か考えているのだろうか。
 読めなかった。

「しばらくそうやって転がっていろ」

 これ以上は秘密だと言うかのように水地は背を向けて歩き出した。
 しかし、それはそれで困る。
 まだ立ち上がれないこともそうだが、

「安いって言ってもな……このあと高音さんに殺されるんじゃやってられないんだが」

 高音が意識を取り戻してことの真相を知ったら……まず間違いなくそう来るだろう。
 水地ではなく高音が殺しにかかるとすると別に約束を違えているわけではない。
 むしろ最初からそれを意図していたのだとすると、今教えてくれたことは冥土の土産ということで納得……できるものか。

「命の保証はしよう。渚にお前は殺させぬ」

 何か決断をしたかのように聞こえる言葉を残しつつ、水地は廊下の向こうに消えた。

「……なんなんだ?」


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 水地は無論、頭の中で色々と考えていた。
 予想外の事態ではあったが、愛娘の純潔は守られていたのでかろうじて許容範囲としよう。
 しかしやはり父として許し難かったので我慢しきれずに拳が出てしまったが、使えるのではないかと考えたのだ。
 今までは、自分に寄り添ってくる娘をなんとか遠ざけてやろうと画策していたが、方針を逆転させてもいいかもしれない。
 ともかく、渚の様子を見てからだ。

 部屋に入ると、丁寧に整えられた布団の中で渚は穏やかな寝息を立てていた。
 見たところ外傷などは無さそうだ。
 起こさないようにそっと近づいて、二筋ほど瞼までかかっていた髪の毛をのけてやる。
 それから、脳を痛めていないかどうか気脈の流れから調べてみる。
 これも多分大丈夫だろう。
 あとは渚が目を覚ましてから、ちゃんと覚えているかどうかを確かめればよい。
 とりあえず安心して愛娘の寝顔をのんびりと鑑賞する。
 父親の幸せを実感する一時である。

 さて、どうしたものか。
 夢織のことを言うべきかどうかだが……、勘の良い渚のことだ、意識を失う直前に夢織が間近にいたことはちゃんと解っていただろう。
 むしろ、夢織が入ってきたので出るにでられなくなったという可能性が高い。
 そうすると、どうごまかしても夢織に見られたということには気づくだろう。
 ならば最初に教えてしまってその場で対処した方が適切か。

 そこで、ため息が一つこぼれた。
 まあ、渚の教育にはその方が面白い結果になるかも知れない。
 あとは夢織次第だが、今回の一件を見る限り期待してもいいだろう。
 元々自分に突っかかってくるなど、一目置いてはいたのだ。

 私の期待を裏切らんでくれよ、夢織。
 そこで今度は苦笑いが出た。
 その気配を感じ取ったのか、渚の呼吸の周期が変わった。
 まったく賢い娘だとつくづく思う。

 やや霞がかかったような目がうっすらと開いた。
 少しぽーっとしているようだ。
 いつもの渚なら目を覚ましたらすぐに体を起こすのだが、やはりのぼせて倒れたあとではいつも通りにはならないらしい。
 娘の弱いところを一つ発見して嬉しかったりする。
 渚は今や江戸の中でも屈指の実力者である。
 だが孤高であって欲しくはないのだ。
 誰かの助けが必要なくらいの弱さがあった方が幸せになれる。
 三百年生きていきた水地の持論だ。
 娘には、幸せになって欲しかった。

「せん……せえ……」

 渚はまだどこか夢を見ているようなあどけない表情で、水地の顔を見つけて柔らかく顔をほころばせた。
 目を覚まして、もしそばに誰もいなかったらとても怖かったから。
 一安心して、頭の中を整理し始める。

「え……と、わた……し……」
「ちゃんと考えられるか、渚」

 先ほど調べたので多分大丈夫だとは思うが、体温が高い状態が続くと脳の細胞が痛むことがある。
 数々の精霊を駆使して体外の変化にはめっぽう強い渚も、身体の内は普通の少女とさほど変わらないのだ。

「たしか……おふろで……」

 どうやら大丈夫らしい。
 しかし水地は緊張を解かなかった。
 ちゃんと覚えていると言うことは、ここからが問題だ。

「ゆめおりがはいってきて……、のぼせちゃって……」

 そこではっと顔をこわばらせた渚は布団から上半身を起こして、自分が服を着ていることを確認する。
 素肌の上に直に浴衣を着ているが、胸元はしっかりと合わされていて乱れた様子はない。
 はあ……と、おそらく自覚していないのだろうがなんとも魅惑的に響くため息をついて渚は顔のこわばりを解いた。

「よかった……。先生が助けてくれたんですね」

 安心したというよりも、どこか嬉しそうにも見える笑顔だった。
 しかし、父親に裸を見られて喜ぶようでは困るのである。
 いささか胸が痛んだが、水地は真相を告げることにした。

「いや。お前を助け出したのは私ではなく、すぐ傍にいた夢織だよ」

 その瞬間の渚の表情をなんと表現していいものか。
 水地は渚のこんな表情をかつて一度しか見ていない。
 実の両親のことを教えたときだ。
 あのときと比べて渚も大きくなっていた。
 だがその表情の色合いはあのときよりも深い。

 その表情の中に一切の感情を排したような虚ろな目をして、のろのろと掛け布団から抜け出した。
 元々の顔が美しいために、自分が父親でなくてもきっと痛々しく感じるだろうと思う。
 抜け出した布団を丁寧に畳んでから、部屋を見渡して自分の荷物を見つけて歩き出す。
 うつむいているために長い黒髪が顔の前にかかり、その表情を時折にだけ見せる。
 鞄の前にかがみ込んで中から細長い包みを取り出す。
 その中身は、持ち歩くなと言っておいた懐剣だった。

 きちんと正座をして、膝の前に懐剣を置いてその上に両手を載せ、今にも泣き崩れそうな表情を必死に支えて、渚はまっすぐに最愛の父親を見つめた。

「先生……」

 緩やかな動きで頭を下げると、長い漆黒の髪が畳にまで届く御簾となった。

「先生……。
 みなしごであった私をここまで育てて下さりありがとうございました。
 渚はこの十一年間、本当に……本当に幸せでございました。
 どうか、先立つ不孝をお許し下さいませ……!」

 言い終わるが早いか、こぼれ落ちる涙とともに懐剣を鞘から抜き放ち、上がった御簾の間に覗くか細い喉に突き立てようとする。
 しかし、あらかじめ予想していた上にそれだけの前口上の時間があって、そんなことを目の前でみすみすと許す水地ではない。
 渚を金縛りにすることも出来たが、ここはあえて直に渚の右手首を掴んでその動きを止めさせ、即座にその手から懐剣をもぎ取った。
 渚は涙溢れる瞳で驚いたように間近にいる水地を見たが、

「離して下さい、先生!渚は死にます!」

 水地の優しい目から逃れるように顔を振って、唇を閉じたままあごを開き……
 それで次の動作は予想がつく。
 少々手荒だとは思ったが、水地は右の人差し指と中指を無理矢理に渚の唇の間へ押し込んだ。
 間髪入れずに、水地でさえ顔をしかめるほどの痛みが指に走る。
 本気で舌を噛むつもりだったことがうかがえた。
 そしてまだ、渚は諦めなかった……というべきか、諦めていたと言うべきか。

 なおも様子がおかしいと思ったら、胸が前後していなかった。
 自分で呼吸を止めているのだ。
 水地は即座に左手の指の背で渚の胸の少し下……横隔膜のあたりを軽く叩いた。
 身体を痛めないように、しかし、咳き込むくらいに。
 渚の身体の強さ弱さはちゃんと心得ている。
 狙い通りに渚は咳き込んでしまい、呼吸を止めるどころではなくなった。
 ただ前のめりにかがみ込んでしまったので、歯を止めていた指が抜けてしまった。
 渚が再び舌を噛もうとするより前に、水地は渚を抱きしめた。

 優しく包み込むように、しかし手に込めた力は強い。
 渚が微かに息苦しさを感じるくらいに。
 こうやって強く抱きしめられるのが、渚は一番安心できるのだ。
 幼いころから、ずっとそうだった。
 咳き込んだ勢いのままに渚はしばらくもがいていたが、自分が水地に抱っこされていることに気づくと、全身から力が抜けた。

「せんっ……せえ……」

 しゃくり上げる声とともに、瞳からは涙があふれ出す。

「わたし……せんせえのおよめさんに……なれなくなっちゃったぁーっ!」

 水地の胸にすがりついて、浴衣が吸いきれなくなるくらい思いっ切り泣き出した。
 あふれ出す感情の激流に感化された水や風の精霊達が宿の外で張り切りだしてしまい、にわか雨まで降り出してしまった。
 襖と障子の、古い建物だったから良かったものの、これで窓に硝子など使っていたらおそらく全て割れていただろう。
 宿に入ってすぐに、この部屋に音声結界を張って作業したのは今にして思えば幸いだった。

 とはいっても、叱る気にはなれない。
 この反応は予想していたし、泣いている渚もまた可愛かったので、水地はあまり苦くない苦笑を浮かべるくらいだった。

「落ち着きなさい、渚。そんなことをしていたら、私は今頃彼を生かしてはいないよ」
「え……?」

 まだ雫を瞳を縁に残したままであるが、渚はひとまず泣きやんで顔を上げる。
 そこで手の力を緩めて、今度は背中を優しくさすってやった。
 こういう時には実年齢以上に幼くなる渚は、子供のような扱いをされてもだだをこねたりせず、むしろ背中に感じる大きな掌が嬉しくて、少し気持ちよさそうな顔を取り戻した。

「渚、どこか痛んだり変わったりしたところはあるか?」

 言われて渚は自分の身体を確かめてみた。
 そういえば、鈍く頭が痛いだけで身体は全然痛くないし、むしろ疲れがとれていて軽いくらいだった。

 初めてのときってすごく痛いとかって紗蓮さんが言っていたけど……、ということは……

「私、それじゃあ……」

 やっと声に理性的な張りが戻って来るとともに、安心したような表情を見せる。
 が、思考が巡るようになったことで本来の聡明さも戻ってきてしまい、根本的なことに思い至ってしまった。

「あ……あの……、でも……その……、私を湯船から引き上げたのは……、夢織なんですよ、ね……」

 瞬時にして導き出された推論を前提条件で否定して欲しくて、渚は恐る恐る尋ねる。
 だがここで嘘を言っても仕方がない。
 渚は既に結論を解っていて、それを無理矢理否定しようとしているだけなのだ。
 あとに引かせるよりは、今一気に解らせることで乗り越えさせよう。
 あまり効果はないだろうが、出来るだけ柔らかく告げることにする。

「その後彼は、濡れたお前の身体を拭いて浴衣を着せて、ちゃんとここまで連れてきてくれたのだよ」
「やっぱり死にますっっ!!!」

 あいつに裸を見られただけじゃなくて、意識のないときに身体をさんざんまさぐられたかと思うと、顔から火の精霊が吹き出してしまった。
 そんな汚された身体で先生の前にいるなんて、耐えられない……!

「渚」

 ぺと。

 水地の右手の人差し指と中指が額に当てられたのを感じて渚は茫然となり、次の行動を忘れてしまった。
 修行の最中は例外として、渚は水地にぶたれたことは一度もない。
 叱るときでも、多くの場合は軽く拳を固めて渚の目の前にかざすだけだ。
 それでもすっごく怖くて、しゅん、となってしまう。
 それで済まないときは、人差し指をこつんとする。
 過去一番叱られたときのたった一度だけなのだ、水地が二指を額に当てて叱ったというのは。

「先生。渚は悪い子ですか……?」

 水地はあのときと同じように両肩に手を置いて、真っ直ぐに渚の瞳を心の奥底まで全て見通すかのように頷いた。
 そして、震えだした渚の身体をゆっくりと抱き寄せて、その存在を確かめるようにしっかりと包み込む。

「悪い子だ。
 親よりも先に、それも、自害しようなんて、悪い子だ」

 全身から力が抜けて重みを全て預けてくる渚の、背に流れる夜のような黒髪を、優しくあやすように指で梳く。
 悪い子だと言っても、決して放り出したりはしないよといっているのだ。

「渚、忘れないでくれ。
 おまえは、私にとって、今この地上で一番愛しい、かけがえのない存在なのだよ」
「せん……せえ……っ」

 ぎゅっと、そんなに長くはない手を精一杯に伸ばして、大好きな先生の身体を自分でも抱きしめようとする。

「せんせえーーーっ」

 渚は、先ほどとは違う理由……今度はどうしようもなく嬉しくなってふえーんと泣き出してしまった。
 水地はよしよしとあやしながら、一通り気が済むまで思うだけ泣かせてやった。

 ようやく泣きやんで。

「じゃあ、先生。夢織を殺してきます」
「駄目だ」

 当然の責務のように言った渚に、ここは即答する。

「どうしてですか!?
 先生にたてつくこと幾度に及んだかわからないくらいですし、それに……それに、私の裸を見て、それから、その……とにかく許せません!!」

 恥ずかしさを怒りにすり替えて何とか自分を保とうとする渚も結構可愛げがあると、水地は親馬鹿にも思った。

「前にも少し話しただろう。
 彼は人間にしては希有なくらいの潜在霊能力者だ。
 今はまだ話にならないが、五年十年先を見据えたときには大いに存在価値がある」

 というのは嘘ではないが、水地は今その上にもうひとつ考えていることがあった。
 五年、十年後に、彼には渚を支えられるだけの男になってもらおう、と。
 ただこのことは、口にはおろか表情にすら出さずに、心の中にしまっておく。
 今の渚が聞けば、きっと逆上して嫌がるだろうから。
 さりとて渚は、表面上の理由だけでは到底納得できず、不満そうな顔を隠そうともしない。
 さて、どう納得させたものか。
 少しは売り込んでおこう。

「それにな、彼と同じ男として少し弁護させてもらうと、
 ああいった状況になってもお前を襲わなかったというのは、それなりに大したことなのだよ」
「……そんな理屈、嫌いです」

 拗ねたようにぷいと明後日の方向に目をやりつつ、渚はちょっと考え込んでいた。
 いくら先生の言うことでも、あいつが大したやつだなんて絶対思わない。
 でも、それならなんで夢織は自分のことを襲わなかったんだろう。

 もしかして……。
 恐々と、自分の浴衣の胸をそっと押さえてみる。
 ひょっとして、襲う価値も無いと思われたんじゃないだろうか……。
 そう思うと、なんだかものすっごく腹が立ってきた。

「じゃあ……、せめて私の裸を見た両目を……」
「駄目だ」
「……片目」
「駄目」

 実はかなりえげつない会話である。
 水地としては本音を隠しているので難しい交渉になるが、後々のことを考えてもそんな真似をさせるわけにはいかない。
 しかし当然渚は不満を募らせる。

「じゃあ……じゃあせめて、あいつのほっぺた思いっ切りひっぱたいていいですか……!」

 もう一回泣き出しそうな顔で懇願する愛娘に、さすがに気の毒になってきた。
 渚が全力で攻撃したら、今の夢織ではまず助からないのだが……。
 横からこっそりと防御できるように連動型の結界を張っておくことにしよう。

「わかった。
 だけど、許せとは言わないが、そこまでにするんだ。
 約束だよ、渚」
「………………はい」

第一話・完結編へ


水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。