帝国大学物語
第一話「湯煙温泉旅行」前編
水地新十郎助教授は、毎年十月いっぱいは大学にいない。
他にもふっと出張することは多いので、留守を任されることの多い高音講師は横塚研の面々に「留守番先生」とあだ名されている。
ちなみに、尊称である。
他の誰に水地の代行が出来るというのだ。
教授会と対立している水地の留守に、ここぞとばかりに攻勢を仕掛けられているのである。
おまけに敵は外だけではなく中にもいるから気が抜けない。
一人は前任教授の教え子で、研究室内では堅物と言われている堀田講師。
もう一人は、水地に喧嘩を売りに来たと公言する三回生の夢織だった。
「夢織、水地の弱点はまだ見つからんのか」
夢織と喋る場合では、堀田は水地の敬称を外すことはばからない。
「無茶言いますね。そう簡単に見つかるくらいならとっくの昔に水地を叩き出せているでしょうが」
おまえらでもな、と心の中で付け足しておく。
水地と喧嘩する学生が水地研に入ったと言うことで、水地をどうにかして大学から排除したい教授会は堀田を通じて色々と支援と支持を送ってきていた。
その姿勢は気に食わないが、学費免除だの生活費手当だのがつくので、表向きはそれに従ったように見せておいている。
水地研に籍を置く研究生活においては副業をやっている時間など無いので、これが無いと生活が本気で苦しいのだ。
しかし追い出すなんて真似はそもそも性に合わない。
仮にも水地の下について学生生活を送っているからには、最終目標は自力で水地を論破して彼を超えることなのである。
大学から排除されては超えることもできない。
もっとも今のところ、その目標はとてつもなく遠大で不可能に見えることは否定できなかった。
「お前は色々水地の小間使いをさせられているだろう。
私よりはよほど奴の尻尾を掴みやすいはずだ。
たとえば女がらみの命令とかは無いのか?」
「考えたくないことをはっきりと言ってくれますね」
この水地研に入ってから、かなり色々なことをさせられている。
帝都中の寺社でおみくじを引いてくるように言われたこともあるし、内務省の人間に書類を届けに行かされたこともある。
帝都道路事業部に行って道路計画の変更を要求するように言われたこともあるし、静岡まで玉露を買いに行かされたこともある。
小間使い、という言葉は合っているような気もするがあまり考えたくはない。
「大体そっちの路線はほとんど絶望的じゃないですか。
水地に愛人なんてのがいるのなら見てみたいよ……」
水地をそこら辺の男と一緒にするだけ無駄だと、この半年でよく思い知らされている。
要素は色々あるが、その一つに女っ気が全くないと言うことがある。
横塚の下品な冗談に苦笑することくらいはあっても、並の人間の欲望とはまるで無縁らしい。
この半年でも二度ほど、水地失脚を狙ってかその手の女性が雇われて水地の部屋まで来たことがあったが、どちらも五六時間に渡って延々説教されたあげく、翌日にその職から足を洗っている。
どんな人脈を持っているのか知らないが、再就職の世話までしたらしい。
当然雇い人のもくろみなどまったく無駄になったわけであり、周囲が水地の壮絶ぶりを確認しただけに終わった。
「あの化け物が結婚しているかも疑わしい。
そもそも未婚なら誰とつき合っても醜聞にならないんじゃ?」
「それはそうだが、内容次第では手だてはある。
奴が帰ってきたらまた会話しにくくなるから確認しておきたかっただけだ。
いいな、何としても奴を追い落とせるように頑張るのだぞ」
打倒水地となるといささか熱血になる堀田を呆れ顔で見送ってから、はーっとため息を付いた。
そもそも文学部棟内でこんな会話が出来るのも水地が出張している間だけである。
普段水地は助教授室にいながら地下室の会話まで聞いていると言われているのだ。
恐ろしくてこんな会話など出来ない。
その水地は、明日には帰ってくる。
「は?」
「聞こえなかったのか?」
高音に思わず尋ね返してしまった。
「今なんて言いました?慰安旅行だ?」
「先生から先ほど電報が届いてな。戻ってきてすぐに小田原に出向く用事が出来てしまったらしい。」
と、高音に電報文を見せられても、暗号化してあってさっぱりわからない。
さぞかし電報手も頭を悩ませたことだろう。
「それでついでに旅行ってことですか」
「予定の空いている者の自由参加で構わんが、費用は先生が持って下さる。
そのあたりの旅館で明後日に十数人泊まれそうなところを探してこい」
「……俺がやるの……?こんな直前にんな無茶な」
壮絶に疲れを覚えて、思わず敬語が抜けた。
「今の季節でも、紅葉の良さそうなところを省けばなんとか見つかるだろう。
「へいへい、わかりましたよ、くそお」
聞こえるように毒づきつつも、しょうがないので至急電話のある事務室へ向かった。
やっぱり小間使いのような気がする。
手紙でしか予約できなかった時代のことを思えば、ずっと楽になったと言えるのだが
「空いてんのかなあ……二日後なんて……」
神奈川の電話帳を借り出して、ジーコジーコとダイヤルを回し始めた。
「まあ良く取れたな、夢織」
「二十七軒電話を掛ける羽目になりましたよ……」
と四回生に答える夢織はいささか疲れ気味である。
何のかんのと言いつつも、結局研究室の全員が列車に揺られている。
「で、どこに宿を取ったのだ?」
「湯本の近く。小田原からだと登山鉄道になる。値が張るところなので、先生よろしく」
「こいつめ」
さすがに半年でやり返し方はある程度身に付いてきたと思う。
水地を苦笑させるくらいが今のところ関の山だが。
「ところで、小田原なんかに僕たちまで呼んで何があるんだろうな」
四回生の襟倉が同回の橋本に妙なことを言った。
出張ついでの慰安旅行ではなかったのか?
その疑問が顔に出たらしい。
「夢織、まさか本当にただの慰安旅行だと思っていたんじゃないだろうな。
全員呼び出すからには、それなりの意味は疑えよ」
「……近代都史と小田原に一体どんな関係があるって言うんですか」
自分の甘さを揶揄されたのが悔しいが、その意味が分からない。
「確かにな。小田原が最後に注目されたのは秀吉が攻めたときだからずいぶん昔だ。
だが、何かがあるんだろう。
あの人の言ったことは三年から五年も経って初めてその意味が分かると言うことも少なくないらしいからな。
気を抜かないでしっかり見ておいた方がいいぞ」
水地に共感するところの多い襟倉は何か気づいているのかも知れなかったが、それ以上のことは口にしなかった。
彼自身にも計りかねているところがあるのだろう。
高音と一緒に座って風景を眺め始めた水地は聞こえているだろうに、特に何も言わなかった。
小田原城は維新の折に全国の多数の城と共に取り壊されている。
今は石垣と周辺部が残されているだけだ。
北条家の居城だったという知識くらいは研究室の全員が持っているが、さらに用意良く高音が細かい資料を配布した。
城郭の設計図やら、全盛期の住民に関する記述等々。
出張先の水地から連絡があった後二日間でまとめた……にしては、いかな仕事の手際がよい高音でも手が込み入りすぎている。
まとまるのはともかく、日本史研究室にも図書館にも、こんな資料がそもそもあっただろうか。
……以前から、何か小田原城に注目していたんじゃないか?
感嘆しつつも、フッとそんなことを考えずにはいられない。
確かに襟倉の言うとおり何かあるのだろう、この小田原には。
城跡の敷地内に入ると不可思議な感覚が身体につきまとった。
周りを見渡してみると、そう暑くもないのに冷や汗をかいている者が数名いる。
眉を寄せ、考え事と同時に何かに対抗しているようだった。
多分、自分も今同じ様な顔をしているのだろう。
水地の小間使いであれこれ行かされた霊場やら祭壇やらに入ったときの感覚に似ている気もする。
似ている……が、何かが確実に違うような気もする。
……助……け……て……
……い……や……だ……
……くわ……く……ない……
「!?」
「ん?どうした夢織」
耳と言うよりも頭に響いたような声に驚いて後ろを振り返った自分に、風間が怪訝そうな顔を向けてくる。
どうやら彼は今のただならぬ内容の声は聞こえなかったらしい。
自分の空耳だったのだろうか。
それにしては複数が重なって聞こえたような気がしたが。
周りを見渡して、今の声が聞こえていそうな人物は……
いた。
中空に訝しげな視線をさまよわせている……が、残念ながら高音だった。
あまりこの人に尋ねる気にはなれない。
いけ好かない、というよりもどうも話しにくい相手なのである。
向こうから話を振ってくる分には構わないのだが、何故か自分からは話しに行きにくい。
それにそもそも水地と喧嘩腰になっている自分を、高音は嫌っているはずだった。
高音以外には誰も聞こえなかったらしく、思い思いに土を掘ったり資料に書き込んだりしている者ばかりである。
水地は……少し離れた所へすたすたと歩いて行っているのでよく解らない。
現世の声ではなかったのかも知れない。
先ほどから感じる感覚といい、最近妙に霊感が強くなったような気がするのだ。
しかし、霊感によるものだとすれば何なのだ。
豊臣秀吉はほとんど無傷でこの城を落としたはず。
北条早雲がここを手中にしたときの霊だろうか。
そこでふと、我に返る。
半年前までならこの太正のご時世に非現実だと切り捨てていたであろうものを、やけにすんなりと受け入れてしまっている自分に気づいたのだ。
「何やってるんだ、オレは……」
結局、小田原では三時間ほどを過ごした。
途中で持ってきた弁当を平らげたりと、まあ確かに遠足気分ではある。
水地の分の弁当は意外にも高音が持ってきていた。
この二人の関係もよく解らない。
水地の推薦で助手として採用され、一年で三つの論文を書き上げて講師になっているが、
もしかしたら同居しているのかも知れなかった。
ただ、水地の姿を見かけたのは最初と最後と、それからこの昼飯時だけであった。
元々は水地の出張ついでに来ているので特に誰も詮索しなかったが、しかし、こんなところで誰か人に会うとも思えない。
何かの調査をしているのだろうが、さすがにそれを確かめに行く気にはなれなかった。
きっと、何年か経ったらその意味が分かるときが来るのだろう。
小田原蒸気鉄道箱根湯本駅から坂道を歩くこと十五分。
なるほど、二日前に宿が取れた理由の一つはこれかと納得できる場所にその宿はあった。
だが見晴らしは悪くないし、宿の外観内装ともにしっかりとしていて……言い換えれば高そうであった。
ところが、
「なんだ、ここか」
水地は納得したようなことを言う。
「来たことあったんですか?」
「文政のころに一度な」
江戸後期の元号の一つである。
少なくとも冗談には聞こえなかった。
研究室卒業生の何人かがまことしとやかに、水地は三百年生きている、と言うが、本当かも知れない。
「あー、つかれた」
「とにかく温泉に浸かりてえ」
この宿には男湯女湯の他に混浴があり、ここが一番見晴らしがいい。
という案内を見て、死にかけていた学生たちはとたんに元気になったのだが……
「おーい夢織、今日は俺たちの他に客は来ていないのか?」
「電話で予約を取ったときには、今日明日とオレ達の貸し切りみたいですよ」
『チイィィッッ!』
約半数の口から舌打ちが漏れる。
男子大学生の魂の叫びであった。
「夢織よ、混浴だというのに他の客がいないなど、ゴマの無いあんパンのようなものではないか!」
「その例えはよく解りませんが……」
「日本男児の純情を踏みにじった罪は重いぞ」
「どこが純情なんですか!」
「貸し切りとあれば話は早い。今夜は朝まで飲み明かすためにも、貴様は酒を買い込んでこい」
「何でオレが酒屋なんて場所に入らなければいけないんですかあっ!」
「宴席に同席できない分せめて下働きでもして宴会の一助を担おうという殊勝な気持ちぐらいあるだろう。
さあひとっ走り行ってくるのだ夢織、ふははははははははは!」
「はーいはいはい!わかりましたよぉ、くそぉ」
宴会大臣の異名をとる四回生酒井には逆らうだけ無駄であった。
本人は全く悪気が無い分、逆らうに逆らえない。
仕方なく、荷物だけ置いてもう一度駅まで戻ることにした。
とっぷり。
考えてみたら温泉宿の駅前に酒屋があるという保証はなかった。
結局一度旅館まで戻って、酒の卸元である小田原の酒屋の住所を教えてもらうことになったのだ。
このときに旅館の女将は、
「酒ぐらいちゃんと用意してありますけど」
と言ってくれたのだが、甘い。
常備している瓶の量を見せてもらったのだが、この化け物研究室一団では絶対に飲み尽くしてしまう量だったのだ。
かくて帰って来る頃にはすっかり夜になっていた。
台車を借りてまで買ってきたこれだけの量があればまあ多分足りるだろう。
「うむ、そちの働き申し分ない。御苦労であった、苦しゅうないぞ」
既に一同出来上がっていた。
扇子を広げた酒井に馬鹿殿よろしく誉められても、疲れて返す言葉もない。
すでに酸素より酒気の方が濃密になっているのではないかと思わせる宴会部屋からかろうじて脱出して、割り当ての小部屋にもぐり込んで倒れていることにした。
ちなみに押さえた部屋は学生の泊まる部屋が六人部屋一つに四人部屋二つで、この六人部屋が宴会部屋になっている。
それから堀田講師は一人部屋で、水地と高音は二人部屋である。
これは、仲がいいとはお世辞にも言えない両者を分けておくのが得策だと判断したためである。
部屋に入ると、ちゃんと一人分の御飯が用意してくれてあった。
さすがに料金が高いだけあってこの辺はしっかりしてくれていた。
夕飯無しで動き回っていたため、確かに腹ぺこである。
この程度のことで宿の人を呼ぶのも気が引けたので、持っていた燐寸で固形燃料に火をつけて小鍋を温めることにした。
煙草も吸わないのに燐寸を持ち歩くのは、色々と雑用をこなしているうちにあると便利だと学習したためである。
他にも経験から缶切りや千枚通しなどの複合型短刀も持ち歩いている。
が、まあここは燐寸だけでよい。
ひょいと熱くなる前に鍋の蓋を取って中身を確認すると、たっぷりの鴨肉にほうれん草などの野菜類が入っている。
それから別に酢の物、胡麻和え、卵焼きの小皿があり、まだ温かいサンマの塩焼きに加え、海老と茄子に蓮根の天麩羅が用意されていた。
皆の食事時間に合わせていたらとっくに冷えているはずである。
どうやら自分が帰ってきたのに合わせて一膳分作ってくれたらしい。
結果的にそうなったこととはいえ、高い所を予約しておいて良かったと思う。
冷めると良くないので、鍋が温まるまでにこちらから手をつけることにした。
お澄ましは昆布と鰹節の良い出汁で、御飯はさすがに産地や種類は解らなかったがおいしい新米であった。
しっかりと身のつまった海老の天麩羅をかじりつつ、学生の慰安旅行にしては贅沢すぎる気がしてきたが、
「ま、いいか。払うのは水地だし」
そろそろ鴨鍋から湯気が上がり始めたのを見て、それ以上考えるのを止めた。
この半年で自分はやっぱり図太くなったのだろう。
さて、払わされる当の水地であるが、
こちらは食事の後でも宴会部屋に行かずに、渚と一緒に小田原城調査のまとめをしていた。
「じゃあ、氏綱の魂はあそこに残っていたんですか」
「私も聖魔城に残っている物とばかり思っていたよ。
が、氏綱が行方不明になったのは、どうやら聖魔城を沈めた後の様だな」
そう言って水地が破らないように丁寧にめくっているのは、幕末の混乱期に手に入れた放神記書伝である。
三冊しか現存していないと言われるとんでもない本で、内容はと言うと、降魔誕生の発端になった降魔実験の詳細とその後の魔物の歴史というわけで、それに見合うとんでもなさである。
一応念のために黒鳳が書き写した写本を保管してくれているので、こんな所にもほいほいと持ってくることが出来るのだが。
「先生……、氏綱のことを考えていらっしゃるのは……、やっぱり、うまく行っていないのですか?」
「陸軍の対降魔部隊という小隊が存外に手強い。
もう少し政府中枢をどうにかしてくれると考えていた中型降魔が既に四体も倒されている」
さすがにこういう話をするときは、水地は周囲に音声結界を張っている。
身近にいる堀田あたりにわざわざ失脚の材料を提供することもない。
「もちろん、使わないで済むならそれに越したことはない。
氏綱を使うとなると帝都の一般市民への被害もおそらく相当なものになるだろう。
あれは最後の手段のつもりだ。策は一つではないから、安心していなさい」
「はい……」
頷きつつも渚はこのことをよく覚えておこうと心に誓っていた。
先生のされることに意味がないはずはない。
きっと、役に立つときが来る。
きっと……
「よし、取り急ぎまとめる必要があるのはこれくらいだろう。
渚、お前ももう風呂に入ってきなさい」
試験的に氏綱の霊力の欠片を採取した呪符をまとめて和紙でくるんで、輪ゴム……最近非常に便利なので多用している……で止めてしまい込んだ水地に対して、
渚は着替えと手ぬぐい、それにバスタオルを抱えたところでちょっとうつむいている。
「渚……?」
「あ、あの……先生……、その、一緒に、お風呂に入ってくれませんか……」
うつむいたその顔が真っ赤になっている。
ここに混浴があるというのはさっき夢織や酒井がえんえんと騒いでいたので聞いている。
野郎どもはもう既に入り終わって宴会に突入しているから、他の誰かが邪魔しに来ることもないだろう。
そう考え、勇気を振り絞っての発言だった。
「渚」
ため息をつき、水地は渚の潤みそうになっている顔を優しく上向かせて、こつんと……渚の額に当たる前で、右の拳を軽く握った。
「先生……」
「渚、もう風呂には一人で入りなさい。
そう、言ったろう」
渚はしゅん、となってしまう。
小さかった頃は水地は一緒にお風呂に入ってくれていた。
元来水神である水地に身体や髪を洗ってもらうと、一人で入るよりもずっとさっぱりして気持ちがいいのである。
そしてそれ以上に、大好きな先生と一緒にお風呂にはいるのは毎日の楽しみだった。
でも、大人になってからは一度もそうしてくれていない。
それがずっとずっと寂しかったのだ。
今日は温泉旅行とあって、ほんの少しだけ期待していたのだけど……
……やっぱり、駄目だった……
「私は少し宴会の方に出向いてくる。
顔を出しておかんと酒井の奴にあとで殴られかねんからな。
……いいね、お前は一人でゆっくりと入ってきなさい」
すうっと水地が去った襖を見つめたまま、渚はぎゅっと自分の着替えを抱きかかえた切ない表情のままで、
「はい……」
と頷こうとして、頷けないままに風呂場に向かった。
男湯、混浴、女湯、と入り口が並んでいる。
渚は少し迷った。
出てくるところを見られてしまう可能性もある。
さすがに女湯から出てくるところを学生たちに見られると大問題である。
かといって、男湯には入りたくない。
もう全員入っただろうから、混浴でも大丈夫だろう。
確か混浴だと露天風呂だと言っていたから、楽しそうだというのもある。
それと……もしかしてひょっとしたら、という想いが心のどこかに残っていたのかも知れない。
「大丈夫……だよ、ね」
おそるおそる混浴の戸を開けて、入ってすぐに左右を確認し、ぴしゃりと閉めた。
更衣室から湯船の方をさっと見たが、やっぱり誰もいないし、誰の荷物もない。
「うん、楽しもう……」
なんとか自分を励ますようにして言い聞かせた渚は、窮屈な大学用の洋服を脱ぎ、それからサラシをほどいた。
あずさには、そんなの使わなくても大丈夫だって、とよく言われるけれど、それを認めるのはそれはそれで嫌だったりする。
乙女の心境は複雑だった。
ちょっと憂鬱になりそうになったけど、目の前にあるのは温泉だ。
楽しんで浸からなきゃ、もったいない。
脱いだ服をきちんと畳んで……もし万が一誰かが入ってきて盗まれたりしないようにと、見えにくい奥の方に入れておいた。
最後にいつも後ろで束ねている髪をほどくと、裸の肩から背中をゆるやかに覆う黒く美しい緞帳となった。
「……ちょっと、伸びたかな?」
出来れば、この髪を綺麗だって先生に言って欲しかったんだけど……。
痛めないようにそっと手ぬぐいでまとめて頭に載せて、渚は風呂場に向かった。
「あー、食った食った。ごちそうさま」
部屋の外にお膳を出しておいて、どうと布団の上に横になる。
そのままうとうとと眠りそうになってしまったが、考えてみればこの箱根まで来て温泉に入らないというのは馬鹿げている。
このまま疲れっぱなしなんてやってられるか!
どうせだったら露天風呂とかも見に行って来よう。
というわけで、ぎしぎし悲鳴を上げている身体を叱咤激励しつつ、浴衣を抱えて風呂のある一階へと向かった。
水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。