帝国大学物語
閑話四「未来の接点」




 夏とはいえ、八月も終わりとなれば日が暮れるのは存外早い。
 頼まれたいなり寿司を浅草で買って待ち合わせの永代橋につく頃には、西の空を染める赤が東の空まで届かなくなっていた。
 藍の背景から夕日に向かって飛ぶカラスが二羽、影絵のように見えた。
 そのカラスを目で追いかけると、永代橋の欄干に頬杖をついた人影がこちらに気付いた。

「夢織、遅いぞ」
「人を浅草まで走らせておいてその台詞は無いだろ……って、あん?」

 人影の服装が二時間ほど前に見たのと違っていたので妙な声をあげてしまった。
 昼間の龍の舞を見物……彼女に言わせれば観察らしいが……していたときは、白い長袖のワイシャツに黒ズボンというがちがちに堅い大学講師の服装だったのが、
 ゆったりと夏らしい浴衣姿に着替えていた。
 色は多分彼女の好みからして薄青と思われるが、夕日の中でそれは赤でも青でもない淡い色合いを見せていた。
 その背に腰まで延びている長い黒髪が、そこだけ一足先に星をちりばめた夜が訪れたように深かった。

 人に使いを押しつけて何をやっていたのかと思えば、単に着替えたかっただけかもしれない。
 しかし、これではあまり怒る気にはなれなかった。

「どうした?ぼーっとして」
「いや、大丈夫なのか。女装しても」
「今日は餌が増えて魚が喜びそうだな」

 目が細く引き締められ、美貌から可愛らしさが消えて鋭利さがにじんだ。
 声に若干殺気がこもっている。

「い、いや、そうじゃなくて……この間銀座を歩いて新聞の話題になったばかりだろ」
「あれはお前が洋服を着せたから銀幕に呼ぼうなんて話題になったんだ。
 今度は浴衣にしたし、暗くなってきたから騒ぎにはならないだろう」

 非難しているような口調だが、本気で非難しているのではないらしく、表情に可愛らしさが戻った。
 こうしてみると、洋服だろうが和服だろうが関係なく活動の関係者に目を付けられそうだと改めて思うが、確かに昼日向と違って顔はわかりにくくなるだろうというのは一理ある。
 銀座の表通りならともかく、市街から一歩離れればまだ夜の闇は深いのだ。

「それより、ちゃんといなり寿司は買ってきたか?」
「人に出費させておいてその言い方は無いだろ。
 こんなところで夕食にでもするのか」
「違うわ……」

 いなり寿司を手渡した瞬間、長い髪が風にたなびいた。
 静かだった川面が揺れ、枯れ草が風の痕跡を映して宙に舞う。
 いつのまにか、霊場に赴いたときと同じような霊気を感じる。
 ……霊気を感じるのが当たり前に思えてきた最近の自分にどうかと思わないでもないが。

「お供えするのよ」
「……な?」

 彼女が姿を消したかと思ったら、背後から声がした。
 慌てて振り向くと、少し離れたところに小さなお稲荷さんがあった。
 先ほどまで、そんなものがある気配すら感じなかったというのに。
 彼女が鳥居をくぐると、人一人がやっと入れるだろうかと思うような社の中から、白装束に身を包んだ年齢不詳の男が姿を現した。

「伯の娘さんか、大きくなったものだね」
「ご無沙汰しております」
「いやいや、これさえあれば堅苦しい挨拶は要らないよ」

 いなり寿司を手渡された男は、彼女の頭をよしよしと撫でた。
 子供扱いされるのを嫌っているはずだが、どうも旧知の仲であるらしい。
 なんとなく面白くないが、声をかけるのもためらわれた。

「ところで外の彼は?」
「あいつは……えっと……、先生の召使いです」
「待てい!」

 ためらいを一撃で吹き飛ばしてつっこみたくなる台詞を吐いてくれた。

「伯のお弟子さんだね。
 この子のことをよろしく頼むよ」
「え?」

 と聞き返したところで、男の姿はいなり寿司の箱ごと消えていた。
 いや、社そのものが姿を消していた。

「今のは……?」
「友達の知り合いの人。
 近くまで来たからご挨拶しておこうと思ったの。さ、行こ」
「あ、こら、ちょっと待て!全然説明になってないぞ!」

 はぐらかすように軽やかな足取りで神社へと向かう彼女を慌てて追いかけた。





 後にして思えば、師の正体を知るための鍵の一つだったのだ。





 隅田川沿いに歩くことしばし。
 大川神社の周辺は昼間とはずいぶん様子が変わっていた。
 出店が並び、大道芸が演じられているのはそのままだが、既に日は落ちて夜の帳が降りた中を
 灯籠の灯火や提灯が並んで照らしている。
 照らしているといってもその光量は蒸気灯と比べるといかにも儚いが、薄橙の火の明かりの群れはどこか懐かしさを呼び起こす揺らめきを漂わせていた。
 その明かりが、行き交うにぎやかな人々の影を幾重にも地面に重ねていく。
 洋服の者など一人もおらず、浴衣や着物姿の者がほとんどで、出店を出しているその筋の人は上半身半裸かサラシだけといった具合だ。

 対岸のそのまた向こうにならぶ工場の明かりもここまでは届かない。
 蒸気自動車のような文明の化身が吐き出す煙もない。

 そこは帝都東京ではなく、昔からある江戸の光景だった。

「夢織ー、りんごあめと綿菓子買って」
「なんでそんなに甘い物好きで太らないんだよ、まったく」
「それ以上に動いてるもの」
「痩せようと努力している人が聞いたら怒るぞ、その言葉」

 ぶつくさ言いつつも、月末で奨学金……教授会からふんだくっている……が入ったので財布の中身も少しは回復しているからつい言葉に乗ってしまった。
 さらに屋台の主人どもと来たら、お嬢ちゃんが可愛いからとおまけを気前よく足すこと足すこと。

「相手が持ちきれないかどうかってのを考えてくれよ」

 まさかこの集まりの中で念動力を使わせるわけにもいかないから、たこせんやらたい焼きやらはこちらが持つことになった。

「江戸っ子の粋を断るなんてやったら無粋じゃない」
「悪かったな、野暮な人間で」
「二人で食べれば丁度いいでしょ」

 そう言って、半分になった綿菓子が手渡された。
 意識してないのだろうか。
 断るのは無粋ということなので、たい焼きと交換で受け取る。
 綿菓子をほおばるなんて子供の頃……何年ぶりか忘れてしまったが、あれはこんなに甘いものだったろうか。

 そんな調子でお互い両手を徐々に空にする作業をしつつ出店を眺めながら歩いていると、不意に射的屋の前で足が止まったのでこちらも止まる。

「どうした?」
「……」

 返事がないので視線の行く先を辿ると、一番難しそうなところに置いてある熊のぬいぐるみだった。
 意外なものが趣味なんだと思う。
 普段の姿からは意外に過ぎるせいか、口に出して欲しいと言えないのかもしれない。

 とってやろうか、と言おうとしたところで、別の客が射的を始めた。
 亜麻色の髪の少女と、銀髪の青年の二人連れで、射的を始めたのは青年の方だったが、これが恐ろしい腕の持ち主だった。
 射的屋の銃なんてのは素人がいきなりやった程度じゃ絶対に思ったところに飛ばないようになっている。
 そのぶれや誤差を全て計算に入れているのか、正確無比に的に当てていった。

 このままではあの熊も簡単に捕られてしまうかもしれないと思うと、財布から十銭銅貨を二枚取りだして

「やるぜ、おっさん!」

 返事も聞かずにもう一丁の銃を手に取った。
 先輩から銃の使い方くらい叩き込まれていた。
 これについては彼女より上手いと思っている。
 重心を確かめ一発撃って軌道を確認し、即座に二発目を撃った。

 狙い違わず命中!……した次の瞬間、隣にいた青年の放った弾がつい先ほどまでぬいぐるみのあった空間を通り過ぎた。

「……」
「……」

 険悪な空気が流れた。
 銀髪の青年はおそらく自分と同い年か、もしかしたら年下くらいだと見えたが、眉間にしわを寄せて睨み付けてくる視線の強さは半端ではない。
 人間離れしている教員や先輩に囲まれている自分だからこそ平然と受け流せたが、並の人間なら震え上がって許しを請うのではないかと思うほど凶悪な目つきだった。

「こらこら真之介、大人げないわよ。私はこれで十分過ぎるくらいだから」
「そ……そうか?」

 こちらは青年よりさらに二三年下だろうか。
 どこか青年をあやすような口調で少女がとりなすと、青年は視線の矛先を納めた。

「そうよ、とった分だけでも持って帰るの大変なくらいじゃない?」
「……わかった」

 無愛想な青年に代わって少女がにこやかにぺこりと一礼し、妙な二人は戦利品とともに去っていった。

「なんだったのか、よくわからんが……ほれ」
「わぁ……」

 辛うじて取ったぬいぐるみを手渡してやると、子供のように嬉しそうな顔をして……それから慌ててこちらの視線に気付いて表情を堅くしたが、しっかりぬいぐるみは抱え込んだ。

「あの……その……、私、射撃は苦手だから……うん。
 一応、……ありがと」

 この一言と笑顔のためなら何でもしてやれると、心の中だけで告げた。



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