帝国大学物語
閑話三「山の彼方のなお遠く」



「名古屋……ですか」
「古い知り合いが名古屋で茶店を開いているのだが、新装開店したからと言って招待状を送りつけてきたのだ」

 そう言って水地は切符らしきものを二枚取り出した。
 十数センチのその紙片に妖気を感じた……わけでは無かった、その時はまだ。
 何しろ水地自身が妖気を持っているはずなので、それにかき消されていたのだろう。

「それは構わないんですが……、これも一緒なんですか?」
「オレは物ですか」

 これ、という対物指示語とともに、高音の細い指が刺すようにこちらに向けられた。
 桜色の爪の先は綺麗な楕円を描いて切りそろえられているのにそう感じるのは、どことなく敵意があるのかもしれない。
 今がどういう状況かというと、水地に呼ばれておそるおそる助教授室に足を踏み入れて、そしてすぐ隣には続いて呼ばれた高音が立っている。
 この助教授室に入ることすら普段は滅多にない。
 まして隣に高音がいるというのは極めて珍しい状況だ。

「物なら文句を言わない」
「ひでえ」

 こともなげに言ってのけた高音の口調は、冗談なのか本気なのかよくわからない。
 だがこの水地の助教授室においては常に周囲に巡らせている張りつめた雰囲気が薄らぎ、ゆるやかに微笑んだその表情が歳相応の少女らしさを見せていたので、まるで嫌味には感じなかった。
 反則だと思う。

「私はあそこには行けぬ事情があってな……」

 そうつぶやいた水地の顔に、一瞬だが初めて見る表情が浮かんだ。
 それは信じられないことに、通常の人間の表情に照らし合わせることが可能であるのならば……恐れの表情に見えた。
 何があるというのだろう。
 水地が恐れる物がこの地上に存在するということだけでも驚きだが、想像がつかない。
 それに自分を厄介払いするのならともかく、愛娘を危険にさらすようなことをするとも思えない。
 横目に高音の表情を盗み見ると、どうやら同じことでいぶかしんでいるようだ。

「案ずるな、渚。おそらくお前は大いに気に入るはずだ。
 夢織がどうなるかは予想出来んがな」
「どうせ拒否権は無いんでしょう。名古屋までの出張費は出してもらいますよ」

 要するにここで何があるのかを言うつもりはないらしい。
 ならば結論は決まっている。
 それに理由はどうあれ高音と旅するというのは滅多に機会があることではない。
 心が弾んでいることが否定できなかった。
 我ながら救いがたいと思う。

「……生きて帰って来いよ」

 冗談には聞こえない水地のこの台詞に、背筋が凍る思いがした。





 速い。
 かつては徒歩で十日ほどかかったであろう帝都東京から名古屋まで、今や汽車でわずか六時間程度。
 蒸気機関車は汽笛も高らかに東海道を西へ走る。
 それに牽引された一等客室の中は、正直言って居心地が悪い。
 基本的に学生は贅沢をしてはいけないのである。
 乗るときはゴミゴミした三等客室が当然という思考回路の人間が一等客室の清潔かつ高級感あふれる柔らかな座席に座っていると、逆に調子が狂う。
 水地の知り合いに会うのだからと江戸か明冶初期のような和装で来たのが、モダンな雰囲気の内装に対してさらに場違いになってしまっている。

 向かいの座席に座ってまどろむかのように頬杖をついている高音は、車窓から眺める風景をそれなりに楽しんでいるらしかった。
 その高音はいささか昔じみた着物姿……それも女物を着ていた。
 正月に見た振り袖のような豪奢なものではなく深い紺の地味な色合いだが、かなり上等な物であることはなんとなく解る。
 服装もそうだが、雰囲気を隠さないままの高音の容貌は一等客室すらまったく問題にしていなかった。
 車窓の遙か向こう太平洋の揺れる水面に時折反射してくる日の光をうっすらと受けているその様は、どこかこの世の者とは思えない雰囲気があった。
 切符を拝見しに来た車掌が絶句したのも至極当然だ。
 そのあとでこちらに胡散臭そうな目を向けたのもこれまた当然だろう。
 腹立たしいが自分も他人の立場なら色々と疑いたくなるはずだ。

 華族のご令嬢の旅行に付き従っている下男、そのあたりが妥当な評価だろう。
 あながち間違いではない。
 外の風景と高音の横顔とどちらを眺めるか悩んで、時折横目で横顔を盗み見る。
 高音が視線を感じ取れることは知っているが、それでも見ずにいるのは不可能だったのだ。
 何十度目かにそうしたとき、丁度こちらを向いた高音と目があった。
 どうしようかと焦ったところで、

「ねえ夢織、どう思う?」

 大学にいるときとは違って女性的な……というよりは女の子らしい口調で話しかけてきた。
 盗み見ていたことを怒る風でもなく、今は二枚とも預けていた招待券を小袋から取り出す。
 「山」というその店の単純極まる名前が書かれてある。
 招待券持参のお客様お一人一品まで無料というから豪気だ。
 だが、それだけで終わるはずがない。

「どう思うって言われても、その招待券に呪いとかの類はかかってないんだろう?」

 高音の口調に合わせて、こちらもおざなりな敬語が消える。

「呪符としての危険性は調べたわ。特に術が込められているわけじゃなかった」
「だけど水地のあの表情……ただで終わるとは到底思えないんだよなあ」
「ふぅん、気づいてたんだ」

 少しだけ見直した、という様な顔で少し微笑んだ。
 思わず見とれてしまったが、その表情はすぐに眉を寄せて考え込むものに変わった。

「私だって先生のあんな顔を見たの初めてかもしれない。
 でも、戦いとかがあるとは思えないの」
「確かに、オレがいても戦力にならないしな」
「うん」

 一分の慰めもなく高音は肯定してくる。
 それでもその顔を見ているとまったく憎らしく思えないのはやっぱり反則だと思う。

「オレはあんたや水地の知り合いを他に知らないんだが、その店を知っている人はいなかったのか?」
「……聞いてみたんだけどね、思い出したくない、って言われちゃった」
「なんだそりゃあ」

 どうやらただで終わるわけではないことは確信できた。





 名古屋といえば赤味噌ときしめん。
 駅に着くと屋台がいくつも出ていていい匂いが漂ってくるが、さすがに招待券をもらっているのでそちらに向かうことにする。
 駅前で人力車を捕まえて、

「山という茶店で……」

 とまで言うと、住所も聞かずに人力車は動き出した。
 それなりに有名らしい。

「あの……、どういうお店なのかご存じありませんか?」
「知らねーで来たのかや?」
「はい」

 振り返って高音の容貌を見て、車夫はしみじみと言った。

「おじょーちゃん、生きてけーって来るだがや」

 高音と顔を見合わせるしかなかった。





 山が見えてきた。
 丘の上に向かって動いているというのに、そんなバカな。
 と思って目をこすり見直してみると、それは連なる山を描いた看板だった。
 しかし、そんな錯覚を抱かせるほどの、何か威容とも言うべきものが感じられた。
 その看板の下には何台もの人力車、さらにはなんと蒸気自動車すらも三台止まっている。
 帝都でもそうは見ない蒸気自動車を名古屋で持っているとしたらとてつもない金持ちだろう。
 そんな高級料理店だとは聞いていないのだが。

 順番待ちをしている客の列の向こうに、白壁の小さな洋館が見えた。
 どうやらあれが目指す店らしい。

「くれぐれも、気をつけるだがや」

 車夫がもう一度、ため息のような声で言って車を止めた。

「ありがとうございます」

 車夫ににこやかにお辞儀をする高音をエスコートするべきかどうか悩んで、やめた。
 手を取るには格が違いすぎる。
 こちらがそんな劣等感に囚われるくらい素敵な笑顔だった。
 どうも単なる社交辞令らしくない。
 車夫が去った後で、列に並びつつ思い切って聞いてみた。

「知り合いか何かだったのか?さっきの人」
「知り合いじゃないけど、先生に近い一族の人だったから」

 謎めいた答えが返ってきた。
 その理由はある程度納得できる。
 問題は、一族、という単語だ。
 いくら高音でも血筋なんてそう簡単に解るものとは思えない。
 しかし、人間ではないという前提ならば……?
 水地がウワバミだという冗談はあったが、そういえば箱根で見た水地の姿は確か……

「はいこれ。渡しておくね」

 高音の声で我に返った。
 水地からの預かり物なので、招待券は二枚まとめて預けていたのを思い出した。

「何ぼーっとしてるの?」
「ああ……悪い」

 何気なく受け取った瞬間、身体が傾き膝をつくほどのめまいがした。
 何かとてつもない呪符でも手渡されたかのようだ。

「な……なんだ、これは……」

 全身に危機感が走り、めまいの解けた頭から妙に五感が鋭くなっている。
 まずそれをはっきりと確信したのは嗅覚だった。
 店から漂ってくる、形容しがたい臭いを鼻が鋭敏に感じ取った。
 無理矢理に喩えるならば……蕎麦屋と牛鍋屋と甘味屋と綿菓子売場と生ゴミ置き場を一緒にしたような……かつて人生で一度として経験したことのない、不可解極まる臭いだった。
 と、思っていたら、

「うーん、いい匂いね」
「………………………え゛」

 横で大きく息を吸い込んだ高音が恐ろしい一言を口走った。

「ちょ……、ちょっと待て、高音さん……。今、なんて言った……」
「いい匂いだと思わないの?」
「八百万の神々に誓って、思ってたまるか……」
「夢織、風邪引いて鼻詰まってない?」
「違う……!絶対に違う!」

 高音の五感は自分より遙かに明敏なはずだが、これは一体どういうことだろうか。
 わけがわからなくなってきた。
 これ以上の嗅覚論争は不毛と判断しておとなしく待っていると、店の扉が開いて食べ終えた客が出てきた。

 警察官か軍人のように見える頑強そうな男が四人、全員揃って死霊にでも会ったかのような憔悴しきった顔で、足取りもおぼつかずにふらふらと歩いてきた。
 見ている間にそのうちの一人が、そのままその場に倒れた。

「水島!!しっかりしろ、水島!!」
「た、隊長……、自分は……自分はもう登れません……。お許しを……」
「何を言う……!お前はよく登ったではないか!!」
「そうだぞ水島!八合目まで登ったんだ……自分を責めるんじゃない!」
「済まないみんな……軟弱なオレを許してくれ……」

 がっくり。

 水島と呼ばれたその男は、泡を吹いて気絶した。

「諸君……。水島と、一緒に帰るぞ……」
「はっ!」

 隊長と呼ばれた男は自身もふらつきながら、気絶した水島某を背負ってなんとか隊列を維持しつつその場を去った。

「…………」

 自分はひょっとして……いや、もう、ひょっとしなくても十二分に……とんでもないところへ来てしまった……!!

 戦慄と共にそう確信せざるを得なかった。
 次に出てきたのは、山の男、といった雰囲気の漂う中年の男性だった。
 こちらは落ち着いた足取りと満足した表情で車夫を呼び、悠然と去っていった。
 ますますわけがわからない。

 その後に出てきたのは華族風の家族連れで、小さな男の子と女の子はきゃっきゃと喜んでいるが、両親はかなり疲れ果てていた。
 男の子の口元になにやら白いものがついている。
 ……ここでは、何を食べるんだったか、既に忘却していた。

 そうこうしているうちに、とうとう扉の前まで来てしまった。
 臭いはいよいよきつくなり、生け垣……これがまた、何故かサボテンだった……に隠れて見えなかったところに、数々の果物の卸売り用木箱が無造作に積み上げられていた。
 とどめのようにわけがわからない。

「高音さん、オレが中でくたばったら骨は拾ってくれ……」
「やだ。捨てておく」

 即答された。

 そして、ついに、目の前で、扉が、開いた。
 おそるおそる足を踏み出すと、遠慮なく高音に背中を押された。
 臭いが脳まで染み込んでくるような中で、その非情さというかまったく気にとめた風もない温かさというか、それが唯一の実感に思われた。
 現実逃避したい気持ちを抑えて店内を見渡してみる。
 土壁や柵でずいぶんと入り組んでいて、奥行きは深そうなのだがそこら中に張り巡らされた壁がさながら迷路のような雰囲気を醸し出していた。
 窓はあるものの、それらの一つ一つは細く縦長で、しかもその前に木の柵があった。
 閉塞感漂うそんな空間に、申し訳程度に洋風な木製の小さな卓と椅子が、あまり統一感無く配置されていた。
 二人二人で向き合う四人卓と、一対一で向き合う二人卓の比率は半々くらい。
 その一番手近な二人卓に一人で座っている男性の後ろ姿を見て、高音が驚いた声をあげた。

「襟倉、なんでこんなところにいるの……?」
「はぁ!?」
「ん、誰か呼んだか?」

 振り返ったその顔は、一つ上の先輩、襟倉だった。
 当然と言えば当然だが、向こうも驚く。

「誰かと思えば、完全無欠下戸人間なお子さまが、妙なところで会ったな」

 酷い言われようだが事実なので呼び名についての反論は諦める。

「いくらなんでも妙過ぎますよ。なんでこんなところにいるんですか?」
「ここの料理が好きで食べに来たに決まっているだろうが。
 これでもここは裏料理界に山ありと称えられた店なんだぞ。
 お前がいる方がよほど不自然だ」
「オレは水地の小間使いで来てるんですよ。悪かったですね」

 裏料理界って何だと突っ込みたかったが、なにやら怪しい雰囲気の名前なので聞かないで置くことにした。

「ところで夢織。おまえ、どこのお嬢さんをかどわかしてきたんだ?」
「は?」

 一瞬、何のことを言われたのか解らなかったが、そうだ、考えてみたら、高音が女であることは研究室の面々にも秘密だったのだ。
 少なくとも、自分がこんな美少女を連れていたら、普通は襟倉の推察が正しい。

「あ……、えーと、ですね。これにはわけがあって……、その……どうする?」
「あ……うん」

 話を振って、高音もようやく自分の失敗に気がついたらしい。
 冷静沈着なはずの高音にしては珍しい失敗だ。
 ごまかせないかとも思ったが、そこは襟倉も水地研卒業生の一人。

「あれ……、君……?どこかで……」

 こうなっては言い逃れは出来まい。
 何しろ最初に襟倉に声をかけたのは高音なのだ。

「襟倉……。私……なの」

 申し訳なさそうな高音の一言を聞いた襟倉は、ぽかんと口を開けて、次に陸上の魚のように口をぱくぱくさせて、さらに酸素欠乏に陥ってげほげほと咳き込んで、卓に置いてあった水をあおってようやく落ち着いたところで、

「たかねさん……あんた……、女の子……だったのか」

 こくん、と小さく高音が頷く。
 高音の秘密を知る者が増えてしまって、ちょっと面白くない。

「……参ったね。最初はオレにも山の幻影が見えたのかと思ったよ」
「ごめん襟倉。このこと、他のみんなには黙っててくれる?」
「わかりました。オレより先に夢織が知っていたってのがちと気にくわないですけど、訳ありみたいですから黙っておきますよ」

 その途中で襟倉はこちらに向かって「この野郎」という笑い顔を見せた。
 こんな秘密を後輩だけが知っているとわかったら、あるいは当然の反応かもしれない。

「まあ、ここはこの世じゃない体験が安価で出来るところだから、楽しんで下さいよ」

 そう言って襟倉は話を打ち切り、卓の上にあったモノを食べ始めた。
 パッと見た最初、それが何かわからなかった。
 卓の上に富士山が出現したような錯覚を覚えたのだ。
 シャリシャリという音とかすかな冷気から、それは氷を細かく砕いて上から糖蜜をかけたものだとわかった。
 ただし、高さは三十センチを超える。
 常識外れなこの店の真の姿が、ようやく見えてきたような気がした。
 そして、酒井に比べれば常識人だと思っていた襟倉も、やはり変人研に名を連ねる一人であることを、このときようやく実感させられた。

「お二人様、どうぞ」
「うーん……」

 やはり不可解な臭いと不気味な気配が漂ってくる厨房は、店内満席ということもあってかなり忙しそうだ。

「挨拶は後にするか……」
「それがいいみたいね」

 生きていたら、と続きそうになった言葉を飲み込みつつ高音に尋ねると、どうやら同じ考えだったらしい。
 二人卓に案内されて高音と向かい合わせに座る。
 卓が小さいため、高音の顔がずいぶんと近くにあった。

 で、肝心のお品書きだが。
 ひやしあめ等の飲み物、五種のあんみつ、三種のおしるこ。
 ……この辺は普通の甘味屋に見えなくもない。
 かき氷が糖蜜の種類によって八種。
 おそらくこれが襟倉の食べていた代物だろう。

 問題はその後だ。

 焼き肉そば、たらこクリームそば、イカスミそば、たこすそば……
 姿を想像するのが不可能なほどの名前がづらづらと並ぶ。
 一部に括弧綴じで「うどんもあります」という文字だけが、かろうじてここが食べ物屋であることを主張していた。
 そして、

「あ、夢織。これなんかおいしそうじゃない?」

 まったく裏を感じさせない楽しそうな高音の指が示した先には、派手に色を変え、目立つように囲まれた中に、

 甘そば

 という、日本語と日本文化を否定するような一単語が書かれてあった。
 その下にはぞろぞろと、

 バナナチョコそば
 抹茶小倉そば
 メロンクリームそば
 イチゴパフェそば
 おしるこそば

「……………………ここは、現世か?」

 そう声に出さずにはいられない絶望感が、ずっしりとのしかかってきた。
 わかった。
 ようやくわかった。
 あの水地をして恐怖させ、ここに来ることを罪もない学生に押しつけてまで逃亡させたものの、おぞましい正体が。
 そして、さらに横からとどめの一言。

「ああそうだ、夢織。最低でも甘そば一品は注文すること。先輩命令な」

 逃げられない…………。

 窓が狭く柵が巡らせてある理由もこれで理解した。

 どうすればいい……。

 暑さと寒さを同時に感じて全身から冷たい汗がにじみ出てくる。
 それなのに、

「どれにしようかなあ……迷っちゃうなぁ……」

 今まで聞いたことがないくらい、うきうきと嬉しそうな高音の声。
 常日頃ならば極上の音楽に聞こえるはずのそれが、今は裁判の進行を進める裁判官のそれに聞こえた。

「お客様。ご注文はお決まりでしょうか」

 この異常極まる状況には場違いな、至って常識的な店員の物言いが、かえって不気味だった。

「それじゃあ私は、メロンソーダと、バナナチョコそばをお願いしますね」
「はい、メロンソーダとバナナチョコそばがお一つ」

 単語だけで常識を凌駕する品名を復唱するときにも、店員は眉一つ動かさない。

「……そ……、それじゃあ……」

 判決文は自分で読み上げなければならなかった。

「……ま……抹茶小倉そばを……」
「はい、抹茶小倉そばがお一つ。以上でよろしいでしょうか」
「夢織、それだけでいいの?」

 これ以上何を頼めというのだ。
 茶切りそばというのが現世にもあるくらいだから、これならせめて少しはまともなモノが食べられるかも知れない。
 そう考えての決断だった。









 静かに到着の時を待つ……とはならなかった。
 何のかんのと店内はやかましい。

「ひやしあめお待たせしました」
「軟弱者!麺に一口も手をつけずに屈するとは、貴様それでも日本男児か!!」
「あと三口だ……!あと三口……!」
「ぼくはもう食べれません……」
「鈴木ーっ!死ぬなあぁー!」

…………何なんだろう。

 となりの人の所にきたひやしあめは、どう見ても一升近くある。
 店内を見渡せば、まともな色のソバはほとんど無い。
 黄色、緑、赤……

 ま、まあ、魚そうめんにそんなものもあったな、と
 無理矢理自分の精神回路を納得させる。
 そして、

「メロンソーダとバナナチョコソバ。お待たせいたしました」

 高音の前に突如として、山と塔が姿を現した。
 緑色の液体の詰まった一升近い威容を誇る塔。
 そして、皿に載せられた湯気の立っている黄色いひも状物質の集合体……の上に、大きく輪切りにされた半分のバナナが六本、石柱のようにそそり立ち、そこからさらに血のように赤いサクランボが掲げられた中心へ向けて褐色の墓標のようなチョコレートが点々と延びている。
 さながら日時計か風水盤……いや、いくらなんでもここまでおぞましくはないと思う。

 山だ。

 それは確かに、難攻不落の峻嶺に見え……

「じゃ、お先にいっただっきまーっす」
「あ゛」

 ぺこりと高音がおじぎした気配を感じた次の瞬間、山の七合目付近に銀色の三つ又の鉾が深々と突き刺さり、くるくると回転して山肌をえぐり取ると高音の唇の奥にひょいと放り込まれた。
 あの小さな唇の間をあんな物体がどうやって通ったのか、動きが速すぎて目にも止まらなかった。

「ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、おいっしぃ〜〜〜〜〜〜っっっ」

 美食ここに極まれりといった感じで子供のように……忘れそうになるが実年齢はまだ十一だった……とろけそうな笑顔を見せる。
 阿鼻叫喚の地獄で格闘していた他の客が、天国から聞こえてくるような声に違和感を覚えたか、一斉に振り向いた。
 地獄に仏というのとはちょっと違う気もするが、その純真無垢な笑顔を見て魂が洗われたような表情を見せる者多数確認。
 なんだかちょっと面白くない。
 でも正面からこの笑顔を見られるのは今は自分だけだ、などと情けないことを考えてしまった。

 目をつぶってるように見えるが、あれは笑ったときの高音の癖らしい。
 確かに、見ているだけで幸せな気分になる笑顔だった。

「夢織のも後でちょっと分けてね」

 語尾に音符でもついていそうな明るい調子で言うと、三つ又の鉾、ではなくてフォークによって、魔の山がみるみるうちに瓦解していく。
 どうしてソバを食べるのにフォークなんだろう、という疑問を抱いている暇は無かった。

「抹茶小倉ソバ、お待たせいたしました」

 来た。
 目の前に、緑の樹海を抱いた成層火山が姿を現した。
 すそから頂上へと伸びる白い積雪……これは多分ケーキに使われる生クリーム。
 頂上の上にさらにそびえる溶岩ドーム……これはあんこの塊だと分かる。
 その上に立つ火柱……へたのついたサクランボだがそう見えた。

 茶切りソバが実在するなどという浅はかな期待など抱く方が間違っていたのだということを、嫌と言うほど思い知らされた。

「夢織、食べないの?」

 気がつけば、高音の前にあった山は既にその半分近くが壊滅している。
 そんなに長い時間茫然としていたつもりはないのだが、多分、高音の動きが速すぎるのだ。

「い、いや、その……」
「おい夢織、登山経験者として助言しておいてやる。
 先にクリームを片づけておかないと、熱で油分が分離してえもいわれぬ味になるぞ」

 氷山を片づけたらしい襟倉が、つまようじ片手に楽しそうな口調で恐ろしい予言を放り投げてきた。
 なるほど、確かに山に接しているところから雪が解け始めてきている。

 意を決して、やはり置かれていた箸ではなくフォークを手にとって、除雪作業に取りかかる。
 単独で見れば、普通の西洋菓子と同じもののはず……
 そう思いこむように半ば自己暗示をかけつつ、最初の一掻きを思い切って口に運んだ。

「…………………………うっ…………………」

 元より冷えていた上層部と、地熱で溶けかけるくらい暖まっていた下層部が舌の上で混在して、
 これはなんというのか、その、まずいとかどうとかいう問題では無い気がする。
 それでもまだ元々のクリームの質の良さだろうか、食べて食べられないことはない。
……が、とにかく量が多い。
 乗っているクリームだけでケーキが一つ作れそうなくらいある。

 半分の除雪が終わったところで、口の中を整えようと水を一口含む。
 舌に残った残雪を溶かし、流していくせせらぎの味。
 ああ、命の水よ……!

 浸る間もなく作業を続けることにする。
 雪国の人々の苦労が身に、いや、舌に染みてわかる。
 ……雪国の人に失礼かも知れないが、本気でそう思った。

「ふう……」

 襟倉の助言通り、緑の山肌に分離した油分がこびりついてはいるが、なんとか致命的な雪崩が起きる前に除雪作業を終えた。
 既に身体は満腹感と疲労感を覚えつつある。
 しかし、目の前にはなお無傷の山がそびえ立っていた。

 いや、千里の道も一歩から、
 臆していては何も始まらない。

 手にした三つ又の鉾を山の三合目付近に突き立てる。
 頂上近くには、無意識に攻撃を避けさせる雰囲気があったのだ。
 ともあれ、蔦のように鉾に絡みついてくる「それ」を引き上げると、山中にこもっていた熱気が湯気となって立ち上った。

 少々外観が浮世離れしているが、ソバと同じように食べればよいのだ。
 問題はおそらく量だけのはず……。
 無理矢理そう思いこんで口の中に放り込んだ。

「…………………!!」

 なんだ、これは………………!!?

 その味は、現世の感覚に喩えることが出来るのならば……とてつもなく甘い、というのが一番近いだろう。
 しかし、どうしてもそれとはまた異質の味に思えて仕方がなかった。
 一応甘いとは感じている部分もあるので、甘いことは甘いのだろう。
 すなわち甘ソバとは周囲の飾り付け群のことではなく、その麺本体を指す忌まわしき言葉だったのだ。

 しかも、それだけではない。
 ねっとりとしたそれはまるで原生動物のように舌に絡み着き、味覚全てを破壊しそうな味を口中にぶちまけている。
 噛めば粘つき、糊か水飴のように奥歯と奥歯をくっつけようとする。

 飲み込むんだ……、一刻も早く……!!
 喉元過ぎればなんとやらだ。
 とにかく舌をこの触感から解放しないことには、精神が破壊される。

 吐き出すという選択肢は無かった。
 この物体の噛んだ後の唾液にまみれた姿など見た日には、次は視覚が破壊されかねない。

 しかし、舌と歯にまとわりついた麺は容易に嚥下出来ない。
 水だ。
 水よ、全てを押し流せ!!

 すがるように水を口にすると、麺がたっぷりと含んでいる糖分が溶けだして砂糖水のようになるが、それでもとにかく流し込んだ。

 ごっくん。

 ぜえ……はあ……ぜえ……はあ……

「夢織、どうしたの?顔が真っ青だよ……」

 高音が元気にパクつく手を止めて、驚いたように尋ねてきた。
 社交辞令ではなく、一応本気で心配してくれているらしいが、

「ど……どうしたも、こうしたも……」

 まだ日本語を紡ぎ出せる程度に舌が生きていたことに感謝すべきかも知れない。

「たかね……さん、あんた、なんともないのか……?」
「え?すっごくおいしいよ、これ」

 無邪気にそう答える高音の皿は、その言葉が嘘でないことを証明するかのように既に七割以上片づいていた。
 麺の色はこちらが緑、高音のが黄色だが、色によって根本的に味が違うのだろうか。

「……すまん、一本くれないか……」
「いいけど、後で私ももらうからね」

 高音の皿から一本、チョコレートが少しまとわりついた黄色い麺をもらって口にする。

「…………っぐっ……!?」

 同じだった。
 いや、ひょっとすると違いがあるのかも知れないが、それは細部に過ぎないだろう。
 凄まじい甘さと触感は何ら変わらなかった。
 こんなものを高音は平然と七割以上も食べたというのか……!?
 驚愕の目で見つめるこちらに対して、高音は不思議そうな表情で小首を傾げる。

 そういえば四月の新歓のときに高音は甘い煎餅が欲しいとねだったことがあるが、つまり、甘いものはおいしいと感じる子供舌なのかもしれない。
 それでも、水地の食事を作ったりしているからそこまで狂った味覚ではないはずだ。
 むしろかなり鋭敏と言っていいはず。
 数えるほどしか飲んだことはないが、高音の入れる茶は確かに美味かったのだから。

「フッ、もう倒れるのか夢織。
 まだお前は登り始めたばかりだぞ……!」

 また横から実に楽しそうに襟倉が茶々を入れてくる。

「ええい、わかってますよ……!」

 破れかぶれだ、と心中毒づいて、二撃目を山に叩き込む。
 今度は出来るだけ口の中にとどまる時間を長くすることにした。
 本来のソバがそうであるように、すすって、流れにまかせて飲み込む……!
 しかし一本あたりの滞在時間が短くなるとはいえ、新しい麺の部分が次々と入り込んでくるのはまた別の意味で苦痛であった。
 最後に水をあおり、かろうじて二口目完了。

 まだ、道ははるかに果てしなかった。

 手にしていたフォークが止まる。
 味覚が胃にまで出張していったのか、単にこれ以上の異物の侵入を拒絶しているのか、
 クリームのころから感じていた満腹感が、もはや耐え難くなってきた。
 生命は全て、自分の命を守るように動くのだとよく分かった。

「夢織、そういうときはだな。
 自分の知っているものを食べるのだ」

 ちょっと待ってくれ。
 皿の上にある自分の知っているものというと、溶岩と噴火……ではなくてあんことサクランボだ。
 どちらも、甘い。

 もういやだ。
 これ以上甘いものなど断じて嫌だ。

「お前の考えていることはわかる。
 だが、ひとたび現世に帰ってくるのもまた、山を登るにあたって有効な手段なのだぞ」

 横から襟倉が熟練登山家の顔でとうとうと語る。
 一方目の前では深刻な雰囲気が理解できないらしい高音が、こちらと襟倉とを交互に眺めた後、最後に残った三口分を名残惜しそうに食べ始めた。
 ひどく現実感の希薄な光景だった。

 まあ、いい。

 だまされたと思ってやってみろ。
 これは水地研の伝統標語の一つだ。

 あんこを少々削り、目を閉じて口に放り込む。
 すると……甘いことは甘いが、不思議と食べられるではないか。
 現世に帰ってくると言う言葉の意味がよくわかった。
 確かにあんこは甘い。
 しかし、これは現世の世界の食べ物なのだ。
 甘いことが当然であり、子供のころから理解しうる味だった。
 食べられる。
 まだ、これならば、食べられる。

「いかんっ!それ以上あんこを失っては、先へ進めなくなるぞ……!」

 しまった。
 気がついたときにはすでにあんこをあらかた食べ尽くしてしまっていた。
 先へ進めなくなったときにすがるためのものを、ほぼ失ってしまった。
 つまり、もはや頼れるのは水と、絶望的な緑の海に浮かぶサクランボのみ。

 それでも、先に進まなければならない。
 三口目を捕らえるべくフォークを突き刺さねばならない。
 しかし、手が重い。
 これ以上進んでは駄目だと、生存本能が叫びをあげているのがわかる。
 目の前が霞んで見えるが、それでも山に鉾を突き刺し……巻き取る。
 のろのろと口へ運ぶ。

 今度は唇が侵入を拒絶しようとするが、無理矢理に押し込んだ。
 これだけ甘いものばかり食べていたらいい加減に甘いと感じなくなりそうなものだが、しっかり甘いと感じさせられた。
 あの触感が再び口いっぱいに広がっていく。
 希薄になる意識の中で、味覚を呪縛するその味だけが最後まではっきりと残っていた。
 飲み込んだのか、飲み込めなかったのか。

「前……へ……」

 カラン・・







 ほおに柔らかな風が当たっている。
 ずいぶんと規則正しい風だと思った。
 それに交わるように、少し冷たい風が思い出したように吹く。
 吸い込んだ大気が清浄だ。

「ここは……」

 うっすらと目を開けると、深みのある空の青が飛び込んできた。
 そして視界の端には、その青さえ霞むほど美しい天女が、山、と書かれたうちわを手にして自分を見下ろしていた。

「極楽浄土……か……?」
「酒井といい、おまえといい、どうしてそう厚かましいの。
 行けるわけないでしょ」

 天女はえらく聞き覚えのある声で、辛辣な言葉をかけ下ろしてきてくれた。

「高音さん……?」
「誰だと思ったの」

 まさか天女だと思ったとは口には出来ない。

「ここは……?」
「お店の外。
 店内に邪魔物を転がして置くわけにいかないでしょ」
「今、物体の方の物って言ったな」
「うん」

 してやったり。という微笑みすらも思わず見入ってしまうほど可愛らしいから始末が悪い。
 ただ、どこまで本心かは分からなかった。
 先ほど感じていた柔らかな風は、高音が手にしているうちわで扇いでくれていたという以外考えられなかったから。

 横にされているのは店の外にある木製の長椅子上だが、背中も頭も特にごつごつした感触は無く、何か敷いてあるようだった。

「何だ、これ」
「さっきから質問ばっかりね。
 水をまとめているだけよ」
「は……?」

 触ってみると、水枕のようにやわらかいが同時に質感のある物質だった。
 ただし、袋に該当するようなものに包まれているわけでもないのに、触っても濡れないし形も大きく崩れない。
 これが……水?

「すげえ……」
「もう起きられるの?
 ならとっとと起きなさい」
「ああ……多分だいじょ……」

 起きあがろうとすると胃の中の流動物が動いてかすかに吐き気を覚えた。
 さすがに立ち上がれずに椅子の上で身体を起こすのみに留めておく。

「おう起きてたか」

 店の出口から、見るからに山小屋の主人といった風貌の大柄な男が姿を現した。
 四十前後に見えるが、纏っている気配が普通の人間とまったく異なる。
 水地の気配に似ているようにも思うが、どこかそれとも異質だった。
 ともあれ、つまり、この男が、

「当方の出来の悪い学生が失礼を致しました」

 高音がさらりと当てつけるように言いつつ、優雅な仕草で頭を下げた。

「夢織、こちらの方が店長で先生の友人の山嵐さん。
 ……ほら、ぽかんとしてないで頭を下げる」
「いてて……わかってるってば。
 済みません。ご迷惑をおかけしました」
「ふふん、出来の悪い学生……ね。
 あの水地が見込みのないヤツを身代わりにするとも思わんが、ま、そういうことにしておこうか」

 山嵐は、東……水地のいる帝都の方向へ一瞬視線を飛ばして笑った。

「昔の先生をよくご存じなんですか?」

 どこかすがるような目で高音が尋ねたのがひっかかった。
 愛娘と呼ばれる高音ですらも、水地の過去を知らないのだろうか。
 いや、娘だからこそかもしれないが……。

「知っているというどころではないな。
 今を遡ること二百数十年前、儂と奴は裏料理界五行星の一員として互いの技を競う仲だった」
『え・・・・・・・・』

 絶句する声が高音と唱和する。

「あるとき裏料理界から将軍に料理を出すことになり、俺と奴のどちらが出すか試食会が行われたのだ。
 先行となった俺の料理を食べた審査員五人が失神し、唯一残った審査員は俺の料理の満点をつけた。
 だが……、結果は何故か俺の負けだった」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

 あの甘ソバを美味いと言った高音すらも、思わず自分と顔を見合わせた。
 それはまあ、そうだろう。

「失意の俺は江戸を離れ、裏料理界を離れ、この名古屋の地で自らの店を作った。
 この味を真に理解してくれる者のために、この味を貫こうと……!」
「あ・・・・・・・えーっっと」
「その……、山嵐さん……。今の話、どこまで本当なんですか……?」

 さすがの高音もこれを鵜呑みにすることは出来なかったらしい。
 良かった……。
 高音がまだ、自分に近い感性の持ち主であってくれて。

「ふっ、うら若き少年少女よ。
 真実とは己の目で見、己の耳で聞いて確かめるものだ」
「はぁ……」

 肩に手を置かれた高音が、ものの見事に煙に巻かれてしまった。
 教授会の面々でさえ手玉に取る高音を翻弄するとは、少なくとも水地の旧友だというのは嘘ではないだろう。
 それ以上の内容については、出来るだけ嘘だと信じるように努力する。
 というよりも、考えたくなかったので話題を無理矢理変えることにした。

「そういえば、襟倉さんは?」
「また質問?
 質問を続ける前に、私にも何か一言あっても良いんじゃないの?」

 一応こちらの意図を察してくれたのか高音は振り向いてくれたが、ゆるやかな曲線を描く眉が笑顔のままで少し歪む。
 ちょっと怒らせてしまったらしい。

「ご迷惑をおかけいたしました申し訳ございませんお世話いただけたことまことかたじけなく存じ上げますにて候」
「うん、くるしゅうないぞ」

 水地研らしいどこか異質な日本語のやりとりだったが、ひとまず許してもらえたらしい。
 笑顔が元に戻り、ちょっと演技がかった仕草で左うちわだ。
 何か間違っている気がするが、まあよしとしよう。

「じゃあ、襟倉からの伝言。
 『四口で力尽きるような軟弱者にさしのべる手はない。
  その程度で我ら卒業生に近づけると思うな。
  猛省の上精進せよ』
 以上、わかった?軟弱者」
「くっくっく、やっぱり彼も水地の弟子かい。
 それにしちゃあ耐久力があるんだがな」

 やはり襟倉は既にここの常連と化しているらしく、山嵐は納得したように笑ったが、

「襟倉さんと二人揃って容赦無しかよ……」
「当たり前でしょ、本当なら食べ物を残したらもったいないおばけが出てくるんだから」

 高音が言うと説得力がある。

「ってことは、取り憑かれるのか、オレ」
「何言ってるの?私が全部もらったよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?

 その言葉を理解するのに何十秒か要した。

「たかねせんせい。いまなんとおっしゃいました?」

 理解しがたいその事実を避けるように、普段は使わない敬語が妙な抑揚で口から出た。

「物わかり悪いね、夢織。
 後でもらうって言っておいたでしょ、いまさら文句は無いわよね」
「いや、文句とかそういう問題じゃなくて……
 その細い身体のどこに二皿分も入るんだよ!!」

 味の問題など、他にも言いたいことは幾つかあるが、何よりもまず信じがたい事実がそれだった。
 しかし、山嵐と違って高音は冗談を言っている様子はない。

「こういう格言を知ってる?」
「……何だよ」

 高音はどこか悪戯っぽい、澄ました笑顔で言った。

「甘いものは別腹♪」
「そんな一言で片づけるなあっ!!」






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