帝国大学物語
閑話二「桜の咲く前に」
あいにくと、桜にはまだ少し早かった。
それでも旅立つ者は旅立っていく。
帝大は本日卒業式であった。
「卒業証書授与、卒業生総代酒井耀一!」
「はい!」
三年連続、水地研究室から総代である。
ちなみに、三年前にその座を明け渡してからこれまた三年連続で横塚研究室から副総代である。
横塚の顔は文字通り苦笑と言う他無いものだった。
総代は各代表の最高成績者の中から全学生による投票で選ばれる。
これは学生自治の一環であり、教授会や大学がどう言おうが覆らない。
必ずしも学生数の多い学部の代表に決まるわけではないので、この機構は今のところ正常に働いているらしい。
酒井は学生の中でも群を抜く人気があった。
喧嘩は帝都最強級、酒は学生中最強。
在学中から水地研の人脈を使って事業を六つほど興して荒稼ぎしては、苦学生のための奨学金制度を作ってしまった。
大蔵、外務の両省から誘いが来たらしいが、丁重に断って何かするつもりらしい。
彼の今後については卒業生の間でも話題であった。
ともあれ。
「ほれ、金時計入手せり」
『だから、そんなに軽々しく扱わないで下さい!!』
式が終わって酒井たち卒業生を迎えた水地研三回生一同が、異口同音に言い放った。
総代に与えられる金時計は、同世代最高位の証であり、憧れの的である。
それを「ほれ」などと軽々しく扱われては他の者の立つ瀬がない。
「それ自体は過去の結果だ。
これからの生活では耐久性のよい時計でしかないということだろう」
「さすが高音さん、話が分かる」
我が意を得たり、とばかりに振り返ると、高音と堀田の講師二人が来ていた。
「あれ?先生は」
この二人は仲が悪いことで有名である。
そもそも高音が水地と一緒でないのが珍しい。
「ああ、少し準備してからいらっしゃるそうだ」
高音が含み笑いを残しつつ答えたので、卒業生も在校生も顔を見合わせる。
こういうときには、何か面白いものが見られそうだと互いの顔に書いてあった。
「それよりお前ら、私に挨拶も無しか」
「と、いけねえ。こいつは失礼いたしやした」
やや不機嫌な顔の堀田に、冗談めかしつつ酒井が答えて卒業生が整列する。
「二年間ありがとうございましたぁ!」
『ありがとうございました!』
一応高音と堀田の二人に向けて挨拶をしているが、どちらかというと酒井たちは高音に挨拶をしているつもりだったりする。
堀田が水地を失脚させようとしているのは半ば公然の秘密であり、水地に大恩ある身としては堀田は好きになれない人物だったからだ。
ただ、教授会との繋がりは夢織と共に強いので、適当におだてておかないと研究室予算にかかわるのでここではおくびにも出さない。
「そうそう、高音さん。
一〇分ほどつき合っていただけませんかね?」
顔を上げた酒井は全員にとって意外なことを言った。
「お礼参りか?酒井」
「あー、そうとも言いますな」
すっとぼけた表情で答える酒井だが、目は真剣そのもので高音の全身を上から下まで見定めている。
酒井が高音にこんな視線を向けることがまず無い。
「何も卒業式の日に不敗伝説を終わらせなくてもいいと思うけど、……いいだろう」
周囲にどよめきが走る。
酒井はこの四年間喧嘩で負けたことがない。
一方で水地の弟子である高音も未知の実力者と目されているのだ。
「見学は禁止だぞ。総代が負ける姿を衆目にさらすわけにはいかないからな」
「言ってくれるなあ」
すたすたと二人して人気のない理学部第三倉庫裏へ向かう。
学内喧嘩の名所である。
追っ手がないことを確認すると、高音は防音壁を張り巡らせた。
「それで、内密の話とはなんだ」
「……やっぱりあんたもただ者じゃないよなあ」
酒井はしみじみとため息をつくように言った。
まあ、ここまで見抜かれるのは予想の内である。
「一つ確かめておきたいことがありましてね」
もう一度高音の全身を見回してから、酒井はすたすたと高音に近づき、自然体の動きで高音の胸に触った。
「きゃああああああああああああああああああああああっっっっっっっっ!!!!」
ズガシャアアアァァンンッッッッッ!!!
甲高い叫びと共に起こった稲妻のような衝撃波が、卒業生最強の男を一撃で黒焦げにして叩き伏せた。
「さ、さ、さ、酒井っっ!!いきなり何するのよ!!」
「オ、オレでなかったら、今の、本気で死んでたよ……高音さん……」
身体をちょっと痙攣させながら言った言葉は冗談でも比喩でもない。
「乙女の胸を触っておいて、殺されても文句言える立場じゃないでしょ!酒井!!」
顔を真っ赤にしている高音は思わず叫んだ。
「やっぱり」
荒い息の中、酒井は何とか顔を上げてニッと笑った。
「そいつを確かめておきたかったんだよ」
「あ……」
何のことを言われたのか気づいた高音は、怒りより恥ずかしさが勝ってうつむいてしまった。
いつも身に纏っていた鋭利な雰囲気が消えて、素顔の少女の姿がはっきりと見て取れた。
遊び慣れた酒井でさえ、思わず息を飲むほどの美しさだった。
「どうして……気づいたの……?」
今にも消えそうな声も、鈴の音を振るわせるような、などと喩えでなんとかなるようなものではない。
答えてやりたいところだが、
「話す前に、ちょっと手当して戴けませんかね……?
さっきから極楽浄土の使いが目の前に見えているんですけど……」
「極楽に行けるつもりだったの?酒井」
「ひどいなあ。オレそんなに悪行は積んでいませんよ」
高音は気づかなかったようだが、極楽からの使いというのは比喩のつもりだったりする。
高音の姿が、いっそこの世の者とも思えなかったのだ。
ただどうも高音は、自分の美貌をよく自覚していないのではないだろうかと思う。
「厚かましい、って言ってるの」
「料金は出世払いってことで、お願いしますよ」
「……高くつくからね」
しょうがないな、と小さくつぶやいてから、高音は酒井を抱え起こして治療を施してやった。
夢織と違って、水地をちゃんと尊敬しており実力もある酒井は嫌いではないのだ。
火傷を負った全身がみるみるうちに回復して痛みがとれていくのを感じて、酒井は思わず口笛を吹いた。
「さっすが先生の愛弟子」
「ねえ、話して。
どうして気づいたの?誰かから聞いたの?誰かにもう話したの?」
「順序立てて話しますってば。
オレは美人の頼みは断らないから」
「からかわないでよ……」
このちょっと困ったような、戸惑ったような顔が酒井はいたく気に入ってしまった。
自分にも妙な趣味があるものだと思わないでもないが、どの表情も魅力的だといえばそういうことかもしれない。
「別に誰かから聞いた訳じゃない。
自分で気づいたんだよ。
おかしいな、と思ったのは昨年の秋くらいからで、ひょっとして、とは思ってたのさ。
研究室で高音さんは妙に家庭的なところがあったからな」
水地にお茶を持っていったり、水地の部屋を掃除していたりするのは日常茶飯事だった。
小田原では水地の弁当まで作って来たことがある。
時代は明冶から太正になり女性の社会進出が進んでいる一方で、女性の仕事ができる男性はまだ少ない。
とはいえ、酒井もその例外の一人なのだが。
「まあ、確信に至ったのは今年の元旦」
「え?」
「明冶神宮に初詣兼遊びに行ったら、うちの研究室一奥手なドーテー君が絶世の美少女の手を引いているのを見てしまったんだなあ、これが」
何のことを言われたか高音はすぐに思い至った。
「美人の顔は絶対忘れないはずのオレが、知っているはずなのにすぐには思い出せなかった。
考えたあげくが、こんな身近の美人だったとはね」
じいっと見つめられて、高音は思わず一歩引いた。
賞賛の視線なのだが、こういう風に見つめられるのは何だか怖い。
「酒井……、私のこと脅しているの?」
いつもの強気の態度とは全く違う、おどおどしたとでも言いたくなるような態度に、酒井は胸をくすぐられるものを感じてしまった。
なるほど、確かにこれでは弱味を握って脅しているようなものかもしれない。
「悪い、高音さん。そういうつもりはねえ。
後輩の純情のために確かめておきたかっただけなんだよ。
そもそもオレの守備範囲は五つ下までだって」
後輩の純情という言葉も気になったけど、それよりも
「酒井、私の歳知ってるの?」
「二十五ってのは絶対大嘘。
今見るところ二十歳も高すぎだな。
十四……くらいと思うんだが、どう?」
高音はふるふると首を横に振った。
こうなっては嘘をついても仕方ないし、酒井が言いふらしたりする人間でないことは知っている。
「……十一……」
「はあ!?」
酒井らしからぬ思い切り間の抜けた声を上げて、茫然と口を開きしばらく開きっぱなしになった。
なんとか呼吸を落ち着けて唾を飲み込んで、なんとか言葉を絞り出す。
「……お、おどろいた……」
うすうす年下だろうとは思っていたが、この二年間自分を遙かに上回る知識で指導してくれた高音が、まさか自分の半分にも満たない年齢だったとは。
「……すげえよ、高音さん。
オレが三百年生きられたら先生くらいの男になってやるけど、十一の頃のオレは単なるガキ大将だった」
嘘ではないだろう。
酒井はそれくらいの判断はついたが、しかし高音の容姿を改めて眺めれば眺めるほど信じられないと思ってしまう。
「うーむ、こんな美人を見せられると守備範囲を下に思い切り広げたくなってくるな」
明冶神宮で見たときも思わず見とれたが、世間慣れした酒井でも高音ほどの美少女に会ったことはない。
活動の関係者が目を付けたら何が何でも銀幕にデビュウさせようとするだろう。
「襲ってくるのなら、今度は手加減無しだからね」
「ひでえなあ。せめて口説くと言ってくれよ」
そこで酒井はちょっと考え込んだ。
「どうしたの?」
その気になれば考えを読めるが、高音はあえて聞くことにした。
「いや、一瞬本気で口説こうかと思ったんだが……、可愛い後輩のものを横からふんだくるのは良くないな。
やっぱり止めておこう」
「ちょっと酒井!誰が誰のものだって!?」
ビシリと高音の指先に稲妻が走るが、今度は酒井も動じない。
「自分でも解ってるはずだぜ、高音さん。
少しは素直になったらいいんだよ」
高音が女だと気づいてから、酒井は習慣としてその視線の行く先をしっかり調べていた。
この三ヶ月で視線の向いた回数の多い対象は二人。
一人は言うまでもなく先生。
これは酒井でなくてもみんながみんな知っていて、その視線は絶対的な信頼に満ちていた。
もう一人に気づくのは、明冶神宮での一件を見ていなければ不可能だったろう。
こっそりとしていて、絡み合いそうになるとついとそらしてしまっていた。
「ち……ちがう……!私、別に夢織のことなんか見て……」
思わず口に出してしまってから、自分の言葉を必死で否定しようというのだろうか、高音は唇を押さえて首を振る。
本当に可愛らしい。
くそ、夢織の奴め、やっぱりあとで一発どついてやる。
「……えっとな、人生の先輩から一つ助言させてもらえるかな。
四月の新歓で……そうだな、あんたなら二杯くらいあおってみるといい」
新歓とは、毎年四月に横塚研と合同でやっている研究室新入生歓迎酒飲み会のことである。
酒井は宴会大王として水地を除く研究室全員の酒への強さを把握していた。
高音は夢織ほど壊滅的に弱くはない。
そして、産湯が酒だったんじゃないかとまで言われるくらい小さい頃から飲んでいた酒井にとっては、十一歳という高音の年齢はまったく気にかける必要のないものだった。
「それで、何かわかるの……?」
「ああ」
尊敬する師が何か企んでいるときの微笑を真似してみる。
「これで一勝一敗だぜ、高音さん」
「……もうひとつ、教えてくれる?」
「あん?」
意外にも高音は反論しなかったばかりか、おそるおそる、とでも表現したくなるような仕草で尋ねてきた。
よしこれで二勝一敗だ、と心中で妙なことを考えつつ、
「そりゃあ、オレの答えられることなら何でも答えますけど」
「……、三回生たちの、その、女性づきあいって……どうなってるの……?」
「あー、えーっと……」
ここで、三回生たちの、というのは建前だろう。
無論酒井は全員の状況を把握しているが、ここで答えておくべき人物は一人だけだ。
「無いに等しいと思いますよ」
「本当?」
「あんまりあいつが情けないんで、一度吉原に引っ張っていってやったことがあるんですけどね。
どうなったと思います?」
話が三回生全員ではなく、特定の一人になっても、高音は文句一つ言わずに話に対応した。
というよりも最初からそれしか考えていなかったらしい。
高音は吉原、という単語に嫌悪感を感じたが、遊び人として高名な酒井からこの単語が出る分には慣れている。
ただ、あいつを連れていったというのはどうかと思う。
ただ、酒井の顔はニヤニヤしていて楽しんでいる。
ということは、あいつならどうなるだろうかと考えこんで、
「ひょっとして、鼻血を吹いて倒れた?」
「悪くない考えだけど、残念、ハズレ。
正解は、敵前逃亡」
「……、逃げたの」
あいつらしいといえばあいつらしい気がする。
何故かすごくほっとしている自分がいた。
「だから、心配いらねえ。
あいつは女性経験なんて皆無といって間違いない」
「そっか……。よかった……」
意図せずに言葉が出た。
絶対大丈夫だろうとは思っていたけど、やはり人からそう言われると安心できる。
まして、後輩のことはしっかりと把握している酒井の言葉だ。
というところまで考えたところで、さっきからあいつのことばっかり話していることにやっと気づいた。
「さ、酒井……えっと、その……、つまり……」
「高音さん、オレの忠告、覚えておいてくれよな」
さわやかな勝利の笑みとともに、酒井は答えた。
「またえらくズタボロにされましたね」
「ふっふっふ、それでも一応勝つには勝ったぞ」
と言われても、二人の様子を比べるととてもそうは見えない。
どう見ても高音は無傷は無傷だ……が、少し雰囲気がいつもと違うような気もする。
「本当だ」
と、高音はこちらに顔も視線も向けないまま回答してきた。
壮絶に疑わしいが、そういうことにしておこう。
「ああそうだ。夢織、ちょっと来い」
酒井が、水地そっくりの人の悪そうな顔で手招きする。
何だと思って近づいてみると、
どげしぃっっっ!
「いきなり何をするんですか!あんたは!」
十割の本気ではないが、三割くらいは本気の入った拳でどつかれてしまった。
抗議の声をあげると、襟首を掴まれて小声で脅される。
「オレ様の間近であーんな美人をたぶらかすとは、いー度胸だなあ、ヲイ」
「ちょ、ちょっと待って下さい……!
なんですかそれは!?
絶対冤罪です、冤罪」
「元日の明冶神宮で誰の手を引いていた、お前」
「!!
酒井さん、高音さんのこと知って……!?」
思わず大声を上げそうになったところで、遮るように腕に抱え込まれて首を絞められた。
「ぐあぁ、締まってる締まってる……」
ふりほどこうにも、喧嘩では酒井に勝てるわけがない。
「夢織、いいな。
絶対に高音さんのこと泣かすんじゃねえぞ」
「な……泣かすなんて、そんな関係じゃないことくらい見てれば……」
「八百万の神にかけて誓え」
「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああ、わ、わかりましたぁ……」
「よし」
意識がすっ飛ぶ寸前でなんとか解放された。
さすがに苦しめどころも心得ている。
「もし泣かしたら、オレ様の全力でぼてくりこかしてやるからな。
覚悟しておけ」
「酒井さん……、ひょっとして……、いてっ!」
余計なことは口にするなともう一回拳が飛んできた。
理不尽な暴力は振るわない酒井にしては珍しいことだ。
だけど、同じ高音の素顔を見た者同士、なんとなくわかるような気がした。
「何があったんだか知らんけど、そのへんで止めとけや、酒井」
「おう」
同じく卒業生牧野が、最後まで酒井の歯止め役をしてくれた。
「揃っているな」
『!!!』
わいわいと盛り上がっている所であってもはっきりと通る声が響き渡った。
それとともに、微かに湿り気を大気が流れて周囲に光が溢れる。
太陽の光がその大気によってその秘めたる色を鮮やかに映し出す。
未だ蕾のままの桜の代わりに、光の花を木々に咲かせた。
こんな真似が出来る者は、この大学に一人しかいない。
「私からのはなむけだ」
突然の現象に目を向ける周囲をよそに、真っ先に振り返った研究室卒業生たちの目に、一瞬その姿が揺らめいて……
「……竜……」
酒井の口から微かにその単語が漏れた。
四年間の、様々な疑問が全て氷解した瞬間であった。
「……整列!」
弾かれたように酒井が号令をかけ、水地研卒業生五人が水地の前に揃う。
「気をつけ!」
在校生まで思わず直立不動になるのは、この一年で身に付いた条件反射である。
「水地助教授に、礼!!」
『ありがとうございました!!!!』
構内くまなく響き渡るような声とともに、五人は万感の想いを込めて頭を下げた。
水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。