帝国大学物語
閑話一「陰謀の掌の上」


 明冶神宮は人で埋まっていた。

「オレは別に神も仏も信じていないんだけどなあ」

 ここ十年ほど初詣というものに来ていなかった。
 この正月はたまった未読本を片づけるのに費やすつもりだったのだが、年末に水地に言われた一言のためにこの元日を潰す羽目になってしまった。

「元日の明冶神宮くらい調査しておくものだ」

 近代都史研究室として、言いたいことは解らないでもない。
 何しろ自分はまだ卒論の主題も決まらずに雑用ばっかりさせられている身分なので、逆らうことも出来なかった。

「調査って、何を調査しろって言うんだよ」

 人がいっぱいいました。
 以上。

 ではさすがにどやされるだろう。
 しかし、この本堂に近づく気にはなれなかった。
 屋台で飾られた参道は、人が河か海のごとくうねっている。
 いや、うねっているところはまだいい方だ。
 中には淀んで喧嘩が起こっているところもある。
 火事と喧嘩は江戸の華というが、こんなに混んでいるところでは喧嘩も喧嘩にならない。

 賽銭箱の前まで行けばおこぼれが拾えるかなあ……などと貧乏学生らしいことも考えたが、人に埋もれて帰って来れなくなるような気がする。
 得るものよりも危険性が大きい。
 結論、
 人の少なそうな所を見て報告書を書く。

 内容としては……、
 明冶神宮は一点に人が集まらざるを得ない構造をしているため、初詣という極めて短時間に多くの人が集中する催しに向いているとは言い難い。
 これは神宮というものの現代における存在意義を無視した設計であり、この太正時代に合わせるためには、分散型の集団礼拝機構を考案する必要がある。
 ……うむ、まったく関係なさそうで良い感じの文章になりそうだ。

 さぼり、手抜きは学生の永遠の命題である。
 とかなんとか頭の中で勝手な理屈を付けて、すたこらさっさと本筋から外れる。
 とたんに人口密度が低くなった。
 腕を回しても当たらないくらいの間隔がとれるようになり、先ほどよりもぐっと静かになった。
 やっとまともに露店で物を買うことが出来る。
 二人待ち程度ならばどうということはない。
 悩んでみたところで、林檎飴など買って食べてみる。
 おせち料理なんて無い生活の中では、これでも十分に正月気分を味わえるものとなる……かもしれない。
 報告書をうまく引き延ばす材料は無いかと、あちこちに視線を巡らせつつ歩いていると、どうやらこの先に北辰権現があるらしい。
 北斗七星の神だったかと記憶を探ってみるが、詳しいことは覚えていなかった。
 いずれにせよ、明冶神宮の境内にこんなものが併設されているのは面白いことだと言える。
 よし、これでもう十行は稼げるだろう。

「なあ、オレ達につきあえよ」

 いきなり、頭の中でまとまりかけていた文章を吹き飛ばすように剣呑な声が聞こえてきた。
 ぐるりと視線を巡らすと、人の視線が集まっている場所があるのですぐ解った。
 少し離れた灯籠の前で、五人ほどの人影が集まっていた。
 書生らしき野郎が四人も集まって、振り袖姿の女の子に声をかけている。
 声をかけていると言っても、どう見ても平和的紳士的な雰囲気ではない。
 人目がないところに連れ込んでよからぬことをしてやろうという意志が、まああからさまなくらいわかる。

 さて、困った。

 義を見てせざるは勇無きなり、とは言うが、あいにく腕っ節には全く自信がない。
 より厳密に言うと、喧嘩で勝てないことには自信がある。
 一方で、集まっている野郎たちはいかにも喧嘩慣れしてそうで、懐にドスの一本や二本忍ばせていても不思議ではないという風貌をしている。
 書生とは人間の中でも最も凶暴な生き物であると書いた作家は誰だったか。
 それはともかくとして、その雰囲気が咎めようとする者の足を遠ざけていた。
 下手に声をかけようものなら殺されてしまうかも知れない。

 すごく困った。
 が。

「あれ」

 思わず声が出てしまった。
 取り囲まれて怖がっている女の子の顔に、妙に見覚えがある。
 思い出すのに、一秒、二秒、三秒……
 思い出した。
 何のことはない。
 いつもは男装している高音渚講師その人である。
 ただ、いつもの近づきがたい雰囲気ではなく、手を身体の前で一緒にしてびくびくしているその姿は、いつもの張りつめた雰囲気からはちょっと想像できない。
 以前に女の子としての顔を見ていなかったらわからなかっただろう。

「何か用か、てめえ」

 あ、まずい。
 野郎どもが四人ともこっちを見てすごんでみせる。
 考えてみたらまじまじとそっちを見つめて声を出したのだ。
 そりゃあいくらなんでもこちらに注意を向けてくるだろう。
 この間にとっとと逃げればいいのに、と思ったが、震えているらしくて高音は動かなかった。
 ただ、こちらには気づいたらしく、顔がちょっと明るくなって、それからまた暗くなる。

 何を考えているのか大体読めた。
 助かった、と思って顔を上げてみたら、あいつじゃ駄目だ、とでも思ったんだろう。
 何だか腹立たしくなってきた。
 こうなったら後には引けない。
 精一杯平静を装ってつかつかと近づいていく。

 高音は薄蒼というか水色というか、明るい青を基調にした振り袖を着て、肩をずいぶんと小さくしていた。
 振り袖の値段なんて知らないけれど、ずいぶんと高級そうだということはわかる。
 水地が愛娘のために奮発したんだろう。
 少なくとも、その着物を切られたり汚されたりということは無いようだった。

「ゆ……夢織……」

 いつもの勢いはどこにもない。
 不安そうな顔で見上げてくる高音は、振り袖を着ていることもあって女の子そのものだ。
 それも、見つめているだけで胸の奥を思い切りくすぐられるくらいの美少女だ。
 こんな女の子が一人でいたら、そりゃあこうなるよなあと納得する。

「何だてめえは?この女の男か?」

 残念ながら、少なくともそう言う事実はない。

「いや、そう言うわけじゃないんだけど」
「なら引っ込んでいろ。これからオレ達は忙しいんだ」

 どう見ても暇を持て余しているようにしか見えないし、はいそうですかと引っ込むわけにもいかない。
 とりあえず野郎どもと高音の間に立つ。
 やっぱり怖い。


 一方渚にしてもとっても不安であった。
 怖くて身体が動かないから、来てくれたのはすっごく嬉しいんだけど、喧嘩慣れしている酒井ならともかく、こいつじゃ多分話にならない。

「えーっと、うん」

 なんだか、夢織が一人で納得したかと思うと、

ぎゅっ

 と手を握られて、思い切り引っ張られた。

「きゃああああっ!」

 いきなりのことで動転して思わず声を上げたが、そのおかげでか、すくんでいた足があっさり動いた。

「ちょ……ちょっと夢織!」
「いいからとっとと走って逃げるんだよ!」

 いきなりの事態に目を白黒させていた四人も、ようやく我に返って追いかけてくる。

「こら待ちやがれ!」
「この野郎!返しやがれ!」
「別にお前らのものじゃないだろうに……」

 至ってもっともなことを言ってくれるのはいいんだけど、

「ねえ夢織、こういうときって、その、ぱーっと、かっこよく、悪人たちを、やっつけて、くれる、ものじゃ、ないの?」

 慣れない振り袖姿で走るものだから息が切れてしまっているが、それでもともかく文句を言う。
 これじゃあ全然男らしくない。
 こいつにそんなものを求めても仕方ないんだろうけど。

「馬鹿言え!オレは水地や酒井さんとは違って一般市民なんだよ。
 徒手空拳で一対四なんか勝てるか!」
「善良じゃ、なく、なったんだ」
「……細かいこと覚えているな」

 箱根では「善良な一般市民」だと自己主張していたのが、少し控えめになっていた。
 それはともかく、このままじゃ追いつかれる。
 瞬間移動してしまおうかと、ようやく頭が冷静さを取り戻してきたけど、ここではまだ人目につく。
 あんまり騒ぎを起こして身分がばれたら、大学に居られなくなってしまう可能性もあった。
 どうしよう。
 不安になって夢織の方を見る。
 無造作に引っ張る手は、特に迷った風もなく直進していた。

「ねえ、このまんまじゃ、追いつかれ、ちゃうよ!」
「飛び越えるから準備してろ」
「え?」

 気がつくと、高さ三メートルはある土壁に向かっている。
 境内を仕切っている壁なので、飛び越えれば確かにこいつらは撒ける。
 私はどうにでも飛び越えることが出来るけど、こいつは大丈夫なんだろうか?
 
「ええい!観念しやがれ!」

 追い込んだと思った男たちが勝ち誇った声を上げる。
 やだ、怖い、聞きたくない……!

「行くぞっ!」

 夢織は私を引っ張りながら地面を蹴って、まず目の高さあたりのところに右足を持っていった。
 垂直の壁だというのに、そこからさらに蹴り上がって壁の瓦の上に飛び乗ってしまった。
 と、気づいたときには私も引っ張り上げられて上にいた。

「はい、さようなら」

 思わずこちらが笑いたくなるくらいのんびりした口調で、夢織は眼下の男たちに手を振って、しゅたっと反対側に降りた。
 当然、引っ張られて私も降りる。
 周りの人が何事かと思って視線を向けるが、こちら側からは壁から降りてきたところしか見えていないから、奇異の視線はすぐになくなった。
 壁向こうから聞こえる怒号も、諦めたのかそのうち聞こえなくなった。
 ようやくほっとする。

「よーし、撒いた撒いた」
「……この壁を飛び越えられる時点で一般市民じゃないと思う」

 あんまりにも平然としているこいつが憎らしくて、ちょっと言ってやった。

「水地に言われていろんなトコを歩き回らされたら、これくらい出来ないと死ぬんだよ」
 そういえば、修行させる目的で色々な所に使い走りをさせているって先生が仰ってたっけ。
 よく見てみれば、研究室に入った頃よりは体格がしっかりしてきたようにも思う。
 それでも、酒井とかに比べたらまだ貧弱だけど。

「それを言うなら、オレの一千倍は強いくせになんであんなのに取り囲まれてんだよ。
 軽く一蹴出来るだろうが」
「……しょうがないでしょ、怖かったんだから」
「はあ?」

 無神経に、あきれた、という顔を見せてくる。

「あんなのが、か?」
「だって……、すっごく嫌な目をしてたんだもん……。
 怖くて、動けなかったんだよ……」

 何かを思い出しそうになるのだ。
 もう忘れたような、すごく嫌なことが。
 人の気も知らないで。

「……離してよ!」

 そういえばずーっとこいつに手を握られていたんだった。
 通りがかる人が、時々視線を向けてくるので恥ずかしくなってしまう。
 初詣客の多いこんなところで手なんか繋いでいたら恋人みたいじゃないか。
 慌てて手をふりほどいて二歩下がる。

「痛えな、この女」
「礼なんか言わないからな」

 今の今までこいつに向かって、優弥さんたちに向かって言うような言葉遣いをしていたことに気づいたので、いつも通りの口調に改める。
 でも、なんだか、さっきまで握られていた手があったかい。
 優弥さんに手を引いてもらったときみたいに思えた。
 ……こんな、嫌な奴なのに。

「あーそーかいそーかい。勝手にしろ」

 怒ったらしく、ぷいと背中を向けられた瞬間、何故かちょっとだけ、胸が痛んだ。
 別に、こんな奴のこと気にしなくていいはずなのに。
 もういい、気晴らしに甘いものでも買って食べよう。
 と思ったら、

「あ」
「どうした?」

 声を上げた瞬間に夢織が振り向いてくれたのでちょっとだけほっとする。
 でも、事態は深刻だった。

「……お財布が、無い」
「どこにしまっておいたんだよ」
「ここに結んでおいたの」

 帯の外紐に結んでおけば、無くすことは無いし、落としてもすぐに気づくと思ったのに、いつの間にか無くなってる。

「お賽銭投げたときはあったのに……」
「さっき本堂の方に行ってきたのか?」
「うん」

 夢織が白い目で見てくる。

「なによぉ」
「……世間知らず」

 むっかあ!
 遠慮の欠片も無い言葉を叩きつけてくれた。
 だからこいつ嫌いなんだ!

「あのなあ。
 あの人混みでそんなところにくくりつけておいたら、スって下さいと言ってるようなものだろうが」
「そうなの?」

 ということは、無くしたんじゃなくて盗まれてしまったのか。
 信じられない。
 江戸では誰もそんなことをしたりしない。
 喧嘩はしょっちゅう起こるけど、誰も盗んだりなんかしないのだ。

「そうなの……って、なあ」

 夢織は大きくため息をついた。

「いくら入ってたんだよ」
「……四円と、五十銭くらい」

 それを聞いて夢織がのけぞった。
 いつも食費を厘単位でケチるこいつにはとてつもない大金だろう。
 私も、これだけ盗まれるとちょっと痛い。

「最近の盗人には仁義も無くなってるからな。
 多分返ってこねえよ」

 昔の盗人には現金なら半返しという流儀があったと聞いてるけど、それも望めないらしい。
 現金以外は入っていなかったのがせめてもの救いだけど、やっぱり落ち込んでしまう。
「ああもう!そう落ち込むな!
 そこらの茶店で甘酒くらい奢ってやるから!」
「……本当?」

 こいつがそんなことを言い出すなんて、ものすごく意外だ。
 でも、すっごく嬉しい。





「ほれ」

 店先の赤台で座って待っていた高音に甘酒を手渡してやるとすごく嬉しそうな顔で受け取った。
 さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいだ。
 さっきは慌てていたのでじっくりと見ている暇が無かったが、こうして見るとやっぱり美人……というより美少女だと思う。
 それも、とびっきりの。
 茶店が集まっているこの一帯は結構人がいるが、少なくとも視界内に高音以上の美少女はいない。
 多分、この明冶神宮全て見渡しても同じ結果になるような気がした。
 自然、通る人の目が時々振り返る。
 何だかこっちは気分がいい。
 自覚しているんだろうか、この人は。

「甘酒は飲めるんだ」
「さすがにこれくらい飲めるわい」

 若干酔いそうになるが、子供の頃から飲んでいるのでこれはなんとか我慢出来た。
 酒ッ気はともかく、味は嫌いではない。
 予定外の出費だが、十二分に元は取った気がする。

「それにしても、八百万最強の一人の娘が、なんでこの明冶神宮なんかに初詣に来るんだ?」

 間近にいくらでも御利益がありそうな存在がいる。
 半分冗談だが、水地は八百万の神の一人ではないだろうかと最近では確信を持っている。
 箱根で見たあの、龍そのものの様な神気はそんじょそこらの神ではあるまい。

「人間世界の風習にも慣れておくのが望ましいって、先生が仰ったのよ。
 先生御自身はこの境内に入るわけにはいかないし」
「何?」

 ということは、水地はこうなることまで計算尽くで自分をここに寄こしたのだろうか。
 数十万の人が来ているだろう明冶神宮で会う可能性などほとんど無いというのに。
 しかし……あり得なくはない。
 自分が報告書をさぼるために本堂以外の脇にそれることは予想されているだろうし。
 だがそうすると、水地が何を意図してそんなことをしたのか解らなくなってくる。

「そういえば、信心の欠片もないおまえも何でここにいるんだ」
「ん?それは……」

 確かに暮れの休みの前には、初詣なんか行かないと言っておいたのだ。
 ここで正直に言ったものか、ちょっと悩んだ。
 水地に言われてきたと言うのが、なぜかはばかられた。
 とっさに思いついた嘘は、

「変人研にいるから厄払いしておこうと思った」
「先生を変人呼ばわりするなっ!」
「いてっ」

 周りの人に解らないようにして、かまいたちが飛んできて頬をかすめられた。
 油断も隙もあったものではない。
 しかし、なんとかごまかすことには成功した。

「ごちそうさま」

 怒ったそのままの顔で湯呑みを置いて立ち上がる。

「おい、一人で行くつもりかよ」
「文句あるの?」

 文句は無いが、行って欲しくない。
 そう思っていることが否定できない。
 とんでもない相手に惚れてしまった気もする。
 だけど、理性でどうにかなる問題じゃないということはよく解った。

「またあいつらに遭ったらどうするんだ」
「う……」

 すっごく嫌な顔をされた。
 あんな連中が千人かかっても全滅できる実力はあるだろうに、なぜそんなに怖がるのだろう。
 昔、何かあったのだろうか。
 ……よそう。
 考えると気になってしまうが、そんなことは無かったと信じたい。

「どこから帰るのか知らないけど、途中までは同行してやるよ」

 水地の自宅なんて知らないのだ。

「えっと……それじゃあ、神宮の外までお願い」

 ちょっと人通りの多い露店の並びを歩くことになった。
 しかし高音は目立つ。
 やはり見渡してみても彼女以上だと思える女は見あたらない。
 ……こちらが重症なだけかもしれないが、それは考えないでおく。
 ちょっと振り返ったら、高音がちゃらちゃらしたモボに声をかけられていた。

「ねえそこの彼女、一人かい?」
「帰れ」

 人をかき分けて間に割り込み、一言叩きつけてから高音の手を取った。

「はぐれるなよ」
「う、うん」

 意外にも、高音は逆らわなかった。
 さっきは走っていて実感している余裕もなかったけど、小さくて、柔らかくて、温かい手だった。


水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。