帝国大学物語
第一話「湯煙温泉旅行」中編


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 お風呂ではなく温泉である。
 箱根では硫黄が特産品になるくらいよくとれる。
 ここの温泉もそれほどきつくはないがゆるやかに硫黄の匂いがする。
 だが、露天構造で匂いがそうこもらずに抜けて行っているからそう不快でもなくむしろ、温泉に来たんだ、という実感が湧いてきて渚は気に入った。

 ともかく、身体を洗って早く入ろう。

 あまり汗はかかない体質だが、それでも小田原で調査をしたりここまで旅してきたりで、軽く汗ばんではいる。
 それに、そもそもきれい好きなのである。
 お湯は結構な量がわき出ているらしくて、前に入った学生達の垢などは残っていない。
 一安心して湯温を確かめるために右手の人差し指の先をそっと湯面につけてみる。
 少し熱いかな、と思えるくらいで、丁度渚の好きな温度だった。
 中はよく対流しているのが見えるので、底まで大体同じくらいの温度だろう。

「……いい宿ね」

 湯に向かって誉めるように、そっとつぶやいた。
 二日前にかけずり回ったにしては上々どころか、ずいぶんいいかな、
 と思ったところで、慌てて頭を振ってその考えを追い出す。

 べ、別に、あいつを誉めたんじゃなくて、宿を誉めたんだから……

 なんとか気を取り直して手桶に湯を汲んで左肩から浴びる。
 熱めのお湯が細い肩を分水嶺として胸と背に分かれ、流れ過ぎた跡は白い肌をほんのりと紅に染めつつ足へと伝っていく。
 やわらかい紅を包むように、ふわりと白い湯気が立った。
 手桶を持ち替えて、今度は右肩から少しゆっくり目に浴び直す。
 熱さを丁度良いくらいに実感できた。

 うん、すっごくいい。

 湯気と一緒に微かに硫黄の匂いも立つが、やはり濃くはないので身体に染みついてもそう不快なものではないだろうと思った。
 もうちょっといっぱい浴びたくなって、近くに置いてあったタライを手に取る。
 金ダライは魔物を退治できるという妙な言い伝えが昔からあるが、手桶も含めてここにある湯具は檜製のものがほとんどである。
 よいしょと両手でお湯を汲んでも、湯船に常に注がれている量が多いので、一人でいる分には何にも支障はなかった。
 ちょっと上を向きながら、たっぷりと汲んだお湯を胸から首筋にかけてざあっと浴びた。
 身体が熱さに慣れてきたので、お湯の温かな感触が身体を伝うのを楽しめる。

 もう少し胸のところで流れが変わってくれたらなあ……ということは考えないことにする。

 手桶に湯を汲み直してから、手ぬぐいを濡らして石鹸でしっかりと泡立て始めた。
 最近は女性の社会進出と共に化粧品産業も発達し、石鹸にもピンからキリまであるが、さすがにこういった旅館で使われているのは普通の石鹸だった。
 泡立ちはそんなに良いわけではないが、水地が言うには水質保全には普通の物の方がよいらしい。
 泡立ちはともかく、肌の痛まない石鹸がいいのに、と家では主義と憧れの間で揺れ動く乙女心だったりする。

 それでもコツは解っているから、一応の泡立ちはする。
 今はこれでも良しとしよう。

 耳の後ろから首筋、首周りと、上から順に丁寧に洗っていく。
 身体が冷え切らないように、ある程度進んだところでちょっとずつお湯を浴びていくことにした。
 肩から胸に降りてくると、いつもちょっと考え込んでしまう。
 歳を考えれば当たり前なのだが、江戸で一緒に入ることのある面々はみんな自分より胸が大きい。
 無理矢理に身体を成長させたとき、確かに身長は望み通りに伸びたけれども、胸はあんまり大きくならなかった。
 無茶なことをした天罰なのか、それとも元々遺伝的にそうだったのか。
 紗蓮さんほど、というのは贅沢だろうけど、せめてもうちょっと……あずささんくらいあったらなあ、と思う。
 やっぱり先生だって大人の男性だから、私にもっと色気があったら違った目で見てくれるだろうに。
 あずささんは「大丈夫、大きさよりも形が重要だってば」と慰めてくれるけど、それもあんまり自信が無い。
 揉んだら大きくなるのかな、などと考えてこれでも色々頑張っているのだけれど、紗蓮さんは形が崩れるから止めなさいと言う。

 だけどやっぱり背伸びをしたい十一歳であった。
 気分が暗くなりそうだったので、たらい一杯のお湯をもう一回浴びる。
 本当は頭からかぶった方が効果があったのだろうけど、手ぬぐいは一つは頭に巻いて髪を留めているし、もう一つは石鹸で泡立てているので拭くのに使う物がなくなるから止めた。
 気を取り直して、両腕にかかる。
 基本的には夏でも長袖なのでこのあたりも色白だったが、一方で江戸で鍛えられてもいる。
 でも二の腕とかがあまり太くなると可愛くないんじゃないかと思えてしまうから、修行は好きなんだけど筋肉を鍛えることはあんまり好きではない。
 優弥さんに言わせると、肥大化した筋肉は持久力や耐久力が落ちて、非効率的になってしまうことがあるらしい。
 知り合いの陸軍中将の受け売りじゃない、とあずみさんが突っ込んでいたけれど、なるほどそれはもっともだった。

 気を取り直して、背中に手ぬぐいを当てる。
 普段自分の目に見えない分、ここを洗うときはすごく気を使う。
 特に最近、あずささんに脅かされているのだ。
 甘い物ばっかりよく食べていると、背中やおでこにニキビが出来てしまう、と。
 大好物のイチゴミルクセーキを筆頭に、甘い物は洋の東西を問わず好きな渚であるから、これはすっごく気にしているのだ。
 額はいつも鏡を見て気にしていることが出来るけど、背中はお風呂に入ったときにしかわからない。
 湯気でかなり曇っている鏡の表面の表面に軽く術法を掛けて薄い水の膜を張らせる。
 こうすると湯気からの水滴が付こうとしたところで、そもそも表面が濡れているので水滴にならずに曇らないのである。
 鏡を気にすることが多い乙女の、ちょっとした生活の知恵だった。
 めでたくはっきり映るようになった鏡を背にして、後ろを振り返りつつ背中をちょっと念入りにこする。
 肌を痛めないようにするのと綺麗にするのとで、調整が難しい。

 背中を終えて少し泡立ちが落ちてきたところで脇の下を洗う。
 泡立っているときにここを洗おうとするとくすぐったくて仕方がないのだ。
 それでも脇の下の直肌をこすっているときはちょっと力が抜けてしまう。

 それからいったん手ぬぐいを洗い落としてから、もう一度泡立てて腰回りからお腹を洗う。
 甘い物が好きな割に、この辺は自慢できるくらいに細い。
 太らないように、という意味も込めて、鍛えるとは別の運動も欠かしていないのだった。

 足の付け根とその周りをよく洗ってから、太股からふくらはぎをよく揉みほぐしつつ洗う。
 色々歩き回ったので、少し足が張っていた。
 運動は慣れているつもりだったけど、こういう持久力を要求するところはまだ甘いみたいだ。
 そもそも、地下都市江戸の家から次元の裂け目を通って大学まで直通で来ているので、通学の運動というものが無いのが問題らしい。
 ちょっと離れた裂け目から出てきて、毎日歩く量を増やそうかとも思ってしまう。
 だけど一方で、最近どうも足が太くなってきたような気がするのでちょっと気にしていたりもする。
 ちょっとというのは十分の一寸くらいの尺度なのだけど、気になる物は気になるのだ。
 江戸に帰ったらおじいちゃんに良い運動の仕方がないか聞いてみよう。

 木喰と言えば、足は人体の中でもよく汗をかく所の一つだと彼から教えられていたので、こちらも念入りに洗う。
 木喰は健康に関する科学もしっかりと学んでいるらしく、その助言は往々にして的確だった。

 今度は右足を曲げて足の甲から指の先、指の間を綺麗にして、くすぐったいけれども足の裏もごしごし洗う。
 身体は柔らかいので足の裏でもくいっと近づけて洗うことが出来る。
 なまじ力を抜くとかえってくすぐったくなってしまうので、結構力を入れて洗うことにしている。
 それでも土踏まずのあたりはやっぱりくすぐったかった。
 同じようにして左足の先も丁寧に洗う。
 どちらの足も先端に至るまで繊細な造りをしていて、それでいてふっくらとしているのだけれど、本人はどうも必要以上に気にしてしまっているのだ。
 江戸では主に草鞋か下駄を履いているのだけれど、大学に来るようになってからは渚の足を痛めないようにと水地は良く靴屋に連れていってくれるようになった。
 そのときにしっかりと左右の大きさに合うものを特注で作ってもらっているので、渚の足は痛まずに綺麗に保たれているのだった。
 ただ、そのときに靴屋さんに裸足を見られてしまうのがちょっと恥ずかしいのだけれど。
 西洋文化って不便だなあと思うことの一つである。

 よし、身体はおしまい。

 泡だらけになっている身体を一気にかぶったお湯でざあっと洗い流す。
 これが結構気持ちいいのである。
 少し強めにこすったところは肌が敏感になっているので、お湯の熱さが少し強めに染みいってくるのだけど、痛いのではないこの感覚も結構気に入っていた。

 さて、そこでちょっと考え込んでしまった。

 いつもなら髪までしっかりと洗ってから湯船に浸かるのだけど、今は早く温泉に入りたくて身体がうずうずしている。
 よし、先に少し入ってから髪と顔を洗おう。
 少し、で済むかどうかはちょっと自信がないけれど。
 しっかりと泡を落として……脇の下とかは残りやすいので特に腕を上げてよく洗い流して……、思い切って温泉に浸かる。

 すーっと肌全体からぬくもりが身体の奥まで染み渡ってくるようだ。
 浸かるとさすがに硫黄の匂いがはっきりと解って来るくらいの濃度になるが、気持ちいいから許そう、うん。
 湯船は一抱えもある大きな石で概観を作りその間を少し小さめの石で補完して、その合間を漆喰のようなもので塞いで作られている。
 二十人か、いや、もっとたくさん入れるくらい広い。
 泳げるかなあ……などと悪戯めいたことも考えなくもなかったけど、深さが場所によってまちまちだし、ちょっと難しそうだ。
 でもぐるりと回ってみると、一番深いところは頭まで潜ることが出来そうだった。
 ついやってみたくなってしまったけど、そこでまだ髪を洗っていないことを思い出した。
 しょうがない、これは後の楽しみに取っておこう。
 さらに回ってみると、岩陰になって隠れる場所まであったので思わず身構えてしまったけど、考えてみればさっきから少しも気配を感じていないので、誰もいるはずがなかった。
 ただ、よく見ると縁のところに動物の毛が落ちていたので、近くに住む小動物がこっそりと入りに来ているのかも知れない。
 今度は期待を込めて、近くに来ていないかなあと探してみたけど、残念ながら今はいないらしかった。

 気を取り直して一番広いところでうーんっと大きく体を伸ばしていると、気持ちよくてそのまま出られなくなりそうだ。
 いけないいけない、先に髪を洗っておかなくちゃ。
 後ろ髪を……この場合は引っ張られつつと表現した方があるいは適切なのかも知れないが……、ともかく湯船から身体を引っぱり出す。
 温まって、もう身体全体が柔らかい紅に染まっている。
 その身体を包んでくれていたお湯がざあっと流れ落ちていくのがなんだかもったいない。
 残りのお湯を滴り落としつつ鏡のあるところまで歩いて行って、髪をまとめていた手ぬぐいをほどくと、絹のように艶やかで漆塗りのように深い黒髪が、薄紅の背中に翼のごとく広がった。
 一番長いその先端は腰のあたりまで滝のように流れる一方で、幾筋かは肩の丸みから腕の線に沿って流れてゆるやかな唐草の模様を描き出した。
 いずれにしろ、白と紅の狭間にあるきめ細かい肌と、確かな存在感のある黒の対比が良く映えた。
 惜しむらくは、本人も含めてそれを眺めることの出来る者はいないということか。

 まず、色々歩き回ったために結構付いてしまっている土埃などを洗い落とすために、そのままざあっとお湯をかぶる。
 うっすらと湿っていた程度だった髪が一瞬にして濡れて、湯水と共に流れ落ちる。
 短い滝が降った後には、黒髪のあちこちに小さく光を反射する水玉がちりばめられていた。
 それら水玉を払いつつ首の後ろで豊かな髪をまとめ上げ胸の前に流してもう一度かぶる。
 元々よく手入れされている髪なので、それだけでほとんど埃は落ちてしまったが、何分豊かに過ぎるためにその髪と髪の間にからみつくようにいくつかの糸埃がついてしまっている。
 再び曇りを取り除いた鏡とにらめっこしつつ、それらを洗い落としていった。

 江戸では紗蓮さんが持ってきてくれる髪を洗うための専用の薬液を使っているのだけれど、いつもお風呂に常備しているので持ってくるのをすっかり忘れてしまった。
 石鹸で髪や頭を洗うと結構痛んでしまったことがあるので、今はお湯だけで念入りに洗っておくことにする。
 顔の方は油分がいっぱいになると嫌なので、石鹸で代用することにした。
 つけすぎにならない程度に泡立ててこすり、これもしっかりと流す。

 髪の毛に少し不満は残るけど……うん、まあ、合格点かな?

 髪に付いた水気をふき取りつつ、枝毛がないかどうかを調べておく。
 あとで乾いてからも調べるのだけど、やっぱり念入りに。

「あ」

 枝毛を二本見つけた。
 後で毛先を切っておかないといけない。
 色々歩き回った割には少ない方と言えるのかも知れないけど、あんまりいい気分じゃない。
 早く温泉に入り直してすっきりしよう。
 埃の取れた髪をくるくると頭の上で巻いて、良く絞った手ぬぐいでもう一回まとめる。
 こんなふうにしてもほとんど癖が付かないので、妖狐姉妹に「いいなあ」と言われる髪だったりする。

 さて。

 いそいそと湯につかって、んーっと思いっ切り身体を伸ばし直す。
 温泉に浸かって「極楽極楽」と世界で最初に言った人はどんな人だったんだろう。
 全くその通りだと思う。
 地上でこんなにものびのびとしたのはずいぶんと久しぶりだ。
 いつも男装して周囲の雰囲気を制御し続けているのも、慣れてきたとは言ってもまったく疲れないわけではない。
 何の気兼ねもなしに振る舞ってのびのびするためにはやっぱり江戸に帰らないと、と思っていたけれど、地上で星空を眺めながらこんなにものんびり出来るなんて。
 そう、湯気で多少霞んでしまっているけれど、この温泉は見上げると星空を一望できた。
 露天なんだから当たり前なんだけど、雨よけの屋根が組立式になっているらしくて、晴れていれば文字通りの露天となるようになっているところが偉いと思う。
 湯煙があってさえ空は良く晴れているので、手を伸ばせば届きそうな星達だった。
 髪を湯に浸さない程度にうまく仰向けになれる場所を見つけて、ちょっと行儀悪く寝そべって、思いっ切り星空を眺めるようにする。

 寝そべるときに、胸の先がちょこっと水面から突き出た格好になった。
 先だけじゃなくてもっと大きく水面から出るくらい有ったらなあと思い、胸を張ったりしてみようかとも思ったけど、
 そんな小さいこと……墓穴を掘った気もする……は、今は忘れよう、うん!

 さっと頭上の空気を払うと、所々に雲があるものの良く晴れた星空が視界に飛び込んできた。
 火山帯であるために所々から噴煙などが上がっているといっても、膨大な蒸気と煙で霞まされてしまった帝都の夜空とは比較にならないほどの星が見える。
 ずいぶん昔に初めて星空を見て感動していた自分に向かって先生が寂しそうに
「本当の星空とはこんなものではないよ」
 と言ってくれたことが思い出された。
 かつて江戸から見えた星空とは、きっとこんなものなのだろう。

「綺麗ですね、先生……」

 隣にいて欲しい気持ちが、少し寂しさを伴った声となって漏れてしまった。
 首を起こして水面を見ると、元気のない自分の顔が星の光を背景にして揺らめいていた。
 その向こうに、あんまり自信の持てない自分の身体が半月と星の光をうっすらと跳ね返しつつ横たわっている。

 先生にとっては、やっぱり子供でしかないのかな……。

 水地が既婚なのかどうか、実は渚も知らなかったりする。
 知っているのは昔からつき合いのある黒鳳さんくらいだろうけど、聞いても教えてくれなかった。
 ただ、多分結婚はしたことが有るんじゃないだろうかと思っている。
 でも今、奥さんや子供や、あるいは子孫がいる様子は全くないから、それだけで諦めた訳じゃない。

 気がつけば再び星空は湯気に覆われていた。
 ずいぶん入っていたのだろうか、すこし頭がぽーっとしている。
 のぼせてしまったのかもしれない。
 気持ちいいのでもうちょっと入っていたいんだけど、そろそろ出ないといけないだろう。
 そう思って更衣室の方に目を向けようとしたところで

え?

 人が一人、更衣室に入ってくる気配を感じて、思わず一番奥の岩陰に隠れてしまった。
 宿の人だろうか?
 うちの野郎連中は全員入って、今は宴会部屋にいるはずである。
 先生だったら嬉しいんだけど、先ほどの答えを考えると悲しいけどそれはありえそうにない。
 だとしたら、誰……だろう?
 やっぱりのぼせてしまったらしく、気配を上手く判断することが出来ない。

 ガラガラと更衣室の戸が開く音がしたので、岩陰から恐る恐る顔を半分だけ出して覗いてみる。
 湯煙で見づらいが、これを吹き飛ばす気にはなれなかった。
 自分が見にくいということは、相手も見にくいということだ。
 そして、自分は視力を集中させれば少々の遮蔽物ならば見通すことが出来る。
 人物の顔あたりに精神を集中させた。

「…………っっ!!??」

 思わず大声を上げそうになった口を危ういところで押さえ込んで、なんとか悲鳴を飲み込んだが、心臓が早鐘のように鳴っているのは止めようがなかった。

 何で……!?何であいつがここに来るのさぁ……っ!

 宴会部屋でとうの昔に酔いつぶれているはずと思っていた夢織である。
 驚いた拍子に顔以外の所まで見てしまいそうになって、慌てて目をそらして岩陰に隠れ直した。

 見てないったら見てないっっ!!

 でも頭の中は大混乱である。
 水地と一緒に作業していたため、夢織が酒井に命じられて小田原まで酒を買いに行ったことは当然知らない渚である。

 ともかく岩陰の一番奥に肩を小さくして隠れ込んだので、今のところ気づかれていないみたいではある。
 だけど、隔てるものは一枚の服もなくて、ただ湯と湯煙があるだけという中に、よりにもよって一番嫌いな奴と一緒にお風呂にいるという状況では、平静を保っていられるわけがない。

 あーん!もう、早く出てってよぉ……

 既にのぼせている頭だというのに、隠れているために首まで湯に浸かっていないといけない。
 これが追い打ちのようでかなりしんどい。
 さらに渚の願いとは裏腹に、どうも夢織は運動した後のようによく揉みほぐしながら身体を洗っているらしい。

 どうしよう……?空間転移で飛んじゃおうかな……。

 とはいっても、現在自分は丸裸でしかも全身がずぶ濡れ……というかお湯の中である。
 乾燥するのは火の精霊を駆使すれば数秒でどうにか片づけることも不可能ではないが、問題は着るものだ。
 いくつも特殊能力を持っている渚だが、物質創造能力は持っていないから自分の着替えを使うしかない。
 そうすると……江戸までの空間転移となると目標場所を家の一室にまで絞り込めないから、横の更衣室に飛ぶしかないことになる。
 飛んで実体化して、服を急速に乾かして……慌てて着替え始める前に音で知られてしまう。
 そんな格好でいるところに踏み込まれたら、きっとそのまま襲われてしまう……!
 少なく見積もっても、裸を見られるのは避けられそうにない。

 時空剥離を使ったらどうだろう。
 完全に時空間から脱却できるのはわずか数秒だし、時空震の余波で宿を壊してしまうかも知れない。
 完全脱却にまで行かずに高速行動だけでとどめると……今度は一瞬とはいえ姿を見られてしまう可能性が高くなる。
 特に夢織は最近妙に勘が鋭くなっているので侮れなくなっているのだ。

 空間転移でも時空剥離でも駄目なら、私一体どうしたらいいのぉ……

 なんだか涙目になってきた。
 のぼせた頭では、水の術法を使って眠らせるとか、念動力でタライを頭に落として気絶させるといった単純な考えが思いつかず、自分の最大能力でもどうしようもないという事実だけがぐるぐると頭の中で増幅されてしまう。

「さーあ、温泉温泉」

 せっぱ詰まった渚とは対照的に至って楽しそうな独り言とともに夢織が近づいてきた。

 ちょ……、ちょっと……入らないでそのまま出てってよぉ……。

 温泉宿でそれはいくらなんでも無理な注文であろう。

「はーあ、極楽極楽」

 こちらは血の池地獄に浸かっているみたいだよぉ……という泣きそうな思いが、のぼせた頭に絶望的に響き渡る。
 先生以外の男の人と一緒にお風呂に入っているという非現実的かつ破廉恥な事態がのぼせ上がる頭に拍車を掛ける。
 彼我の距離は直線にすると五メートルとない。
 隔てているのはちょっとした岩一つ。

 ここで知られたらどうなっちゃうんだろう。
 もう身体に思うように力も入らない。
 きっと抵抗らしい抵抗も出来ずにその場で辱められて……、
 それをネタに脅されて手込めにされて……、
 弄ばれるだけ弄ばれて、飽きられたら廓屋に売り飛ばされて……、
 日の光の射さない奥まった座敷牢で薬漬けにされて……、
 来る日も来る日も……

 妙に想像力だけ冴え残っている自分の頭がいっそ恨めしい。
 考え得る完全な想定事態のあまりの酷さに、自分を取り囲んでいる湯が全て流氷にでも変わってしまったかのように、震え上がった。

 もう……先生のお嫁さんになれないかも知れない。

 そう思うとどうしようもない絶望感がこみ上げてきて、きりきりと胸に突き刺さる。
 耐えきれず、張りつめていたものが切れた。

 わたし……もう・・だめ・・・・・

 くらりと平衡感覚が崩れて、後ろに倒れ込む。
 頭が湯面に当たって、髪をまとめていた手ぬぐいが解けてしまったが、それももうわからなくなっていた。
 水音で気づいたのか、夢織の

「あれ?だれかいるの?」

 という声を死罪申しつけの宣告のように聞きながら、渚は気を失った。




第一話・後編へ


水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。