近代都史研究室
肖像「桜の雨」



「高音さん、行けるんですか?」
「失礼だな、天津。
 子供に向かって言うのでもあるまいに」

 子供……ねえ。

 天津は高音の杯に二杯目を注ぎつつ、どこか違和感を覚えていたのだ。
 何がと言われると返答に困るのだが、目の前にいる高音がまるで別の人間のように思えた。
 研究室で見せている鋭利な視線が無いのは、単に酔っているだけだろうか。
 そう、どこか子供のように見えたので、思わず行けるのか聞いてしまったのだ。

 そう思っていたときだった。

 くら……

「あれ……?」
「ちょ……、高音さん……!?」

 周囲の学生たちが、いともあっさりと昏倒した渚に慌ててざわつく前に、 横塚と飲み比べをしていた水地は、渚の身体が変調をきたしたことに即座に気づいた。
 渚に何らかの危険が迫ったときには感知できるようにしてあるのだ。
 しかし、まさかこんな形で使うことになるとは思わなかったが……。

「済まん、横塚。一時休戦だ」
「ん?高音君がどうかしたか?」

 水地が最も慌てるのは渚に何かあったときだと理解している者は少ないが、 横塚はある程度水地と渚の関係に気づいている節がある。
 もしかしたら渚の性別も気づいているのかも知れない。
 色々な意味で侮れない男ではあったが、こういうときにそれを止めるような真似はしない男だ。
 だからこそ、帝大の中で最も信頼し、また警戒しているのでもある。

「酔って倒れたらしい」
「夢織君を笑えんなぁ」

 休戦受諾の意思表示に、横塚は升をその場に置いてつまみに手を伸ばす。
 本来は酒をつまみに酒を飲める男なのだが、別につまみが嫌いなわけではない。

 苦笑しつつも心中礼を言って、渚が倒れたところに駆けつける。
 運良くうつぶせに倒れていてので、緊張を解いた顔は見られていないようだ。
 素の状態なら後ろ姿だけでも少女と気づかれてしまう可能性もあるくらい華奢な身体だが、 ここは長い髪がうまく緞帳代わりに働いてくれていた。

「渚は何杯飲んだ?」
「二杯目を飲み干したところです。そこでばったり。
 結構弱いんですね、高音さん」
「……やれやれ」

 学生たちに顔を見られないようにして、そっと抱き上げる。

「夢織にでも預けてくるか」

 親馬鹿と言われるかも知れないが、渚は帝都全土を見渡してもおそらく一二を争えるくらいの美少女だ。
 このまま放っておくとおそらく渚の性別は知られてしまうだろう。
 思わず口に出たが、考えてみると悪い案ではない。
 先ほどぶっ倒れに行ったあいつは、既に渚が女であることを知っている。
 それに……、丁度良い機会だろう。

「まったく……無茶をしおって……」

 宴会の会場から少し離れたところで、甘々の父親顔を見せて渚の顔にかかった長い髪をそっと除けてやる。
 幸せそうな顔で眠っていた。
 あまり残ると問題なので酒気は抜いておくことにする。
 ……だが、夢織に預けて置くならば少しは酔っぱらわせておくのもいいだろう。
 いささか陰謀めいた笑いとともに渚の左胸にそっと手を当てて、全身の酒気の八割ほどを抜いておく。
 水だけではなく、流体は全て彼の得意分野に入るのだ。

 さて……夢織は……と。

 探ってみると、上手く宴会の盛り上がりから外れたところにいる。
 これも一種の霊力かも知れないと思ったが、さすがにそれはひいき目すぎるか。
 行ってみるとしっかりお茶を飲んでいる。
 用意のいいことだ。
 色々雑用を命じた効果はこんなところにも出ている。

「渚にも、分けてくれんか」

 背後から声をかけると、夢織は思いっ切り仰天した。
 まあそうだろう。

「……なんであんたがこっちに来るんだよ」

 と文句を言えるのもそこまでだった。

「あれ?高音さん、意識すっ飛んだのか」

 こっそりと微笑みつつ、水地はそぉっと春草と桜の寝台の上に渚を横たえさせる。
 もうはばかる必要はない。
 再び見た渚の素顔に焦ったかのように、夢織が文句を言ってきた。




桜の雨

太正五年四月
塵都氏画





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