太正元年
「大人になるとき」



 大人になりたかった。

 私よりずっと年上のお姉ちゃんやお兄ちゃんたちに囲まれて、それが幸せでなかったというつもりはない。
 私を産んだ女や、私を顧みなかったという父の下で過ごしていたよりは、はるかに幸せだったと言える。
 先生に拾われてからの私は、本当に幸せだった。

 ただ、どうしようもなく子供だった。
 どれほど修行しても、どれほど勉強しても、この身体はなかなか大きくなってはくれない。

 一刻の猶予もないと、考えるまでもなくわかる。
 先生は、河川浄化の法を担う天海僧正によって配された十本の河を守護する十柱の龍神の最後の一人だ。
 その力は江戸の三百年の繁栄を守護するものであるとともに、江戸の街のために隅田川を行き交う人の力によって増大するものだった。
 全盛期……元禄ごろと聞いている……の先生の力は、伝説の九尾の狐や、高天原の神々にさえ匹敵するものだったらしい。
 その頃を知っているのは黒鳳さんだけだが、誇張でも何でもないと断った上で教えて下さった。
 だけど今は、先生の力はひどく衰えている。
 今でも江戸の中では一番だけど、二人がかり、三人がかりでは一本取られてしまうこともある。
 地上の江戸が帝都東京に変わって発展した代わりに、隅田川から水の力が急激に失われていっているのだ。

 もちろん、かつての江戸も綺麗だったとは言い難いらしい。
 人々の下水が遠慮なく流れ込んでいて、しかしそれでも、水の力で浄化できる範疇だったのだそうだ。
 結果、江戸の湾内は魚の楽園だったと聞く。
 だけど今は違う。
 西洋から持ち込まれた蒸気文明は、石炭という強烈な穢れの力を伴っていた。
 それに加えて、染料、洗浄剤、鉱山からの重金属……河に注ぎ込まれる物はあまりにも増えすぎた。
 水神である先生にとって、致命的なほどに。

 先生の助けになりたかった。
 先生は普段、帝大の助教授という仮の姿で、陰に陽に様々な手段を通じて政府に圧力を掛けて、水と大気を汚し続ける蒸気文明の暴走を食い止めようとしていらっしゃる。
 私もその仕事に就きたかった。
 弁舌と言霊なら、あずささんあずみさんにだって負けない自信がある。
 きっと力になれるはずだった。

 そして、もう一つ。
 先生に釣り合う大人の女になりたかった。
 先生の寿命が来るのが避けられないというのなら、先生の命が尽きる前に、次代の水神を産む依り代となりたかった。
 水神に生け贄として捧げられた娘が、水神に見初められた例はいくつもある。
 隅田川の河畔に捨てられ、水神に拾われた私には、まさに相応しい運命ではないか。
 この身体がそのために生まれたのだとしたら、この上ない幸せだろう。

 だけど、私はまだ子供だった。
 大学に潜り込めるようになるのにあと何年かかるだろう。
 子を産めるようになるまで何年かかるだろう。

 早く、一刻も早く、大人になりたかった。
 大人にならなければ、ならなかった。


 折もおり、七月の終わりに明冶大帝が崩御して元号が変わった。
 人心が大いに揺らぎ、動乱の訪れを予感させた。
 急がなければ。


 九月六日。


 優弥さんたちが調べてきてくれた、私にとっては意味のない誕生日。
 私を産んだ女から分離した日よりも、隅田川の河畔で先生に拾って貰った日の方が、私にとってはずっとずっと意味のある日だ。
 ただ、無視することも難しい日でもあった。
 先生は今でも私の誕生日を11月ではなく、9月のこの日だと言っている。

 だから、このことをやろうと決めたとき、必然的に私はこの日を開始日に選んだ。
 この日から始めて、終わりは私にとっての本当の誕生日にする。
 それで、私は生まれ変わる。

「修行に出ます。捜さないで下さい」

 そう書き置きして私は家を出た。
 どうせどこに隠れても、先生と黒鳳さんが二人がかりで調べればわかってしまうのだ。
 それならいっそ修行に出ると最初から告げておいた方がいい。
 ただ、相談すれば止められるだろうとは思ったので、明け方を前にこっそりとした出発になった。

 どこで実行に移すかは予め決めてあった。
 生まれ変わるというのならば、あそこがいい。
 帝都から西へ。
 不死の山、富士山。
 その周囲には、富士山が形成される際に残された溶岩洞窟が無数にある。
 その中でも、清流が流れ出る洞窟に入り込み、巨大な地底湖のほとりを儀式の場所と定めた。
 やはり私は、水神の娘なのだろう。
 教わったこと、独学で学んだこと、様々な要素を組み合わせて、私の世界を組み上げる。
 陣を書き終えてから湖の水で身を清めた後、裸のままで陣の中央で仰向けになった。
 これが成功すれば、今の服を着ていられなくなるだろうとの予測くらいは立っていた。
 そうして、私は自らの秘していた力を全開にした。






 気が付いた。
 目をさまして真っ先に感じたのは、手足の節々の痛みだった。
 のろのろとした動きで、手を動かしてみる。
 よし、ちゃんと動く。
 術が使えるかどうかも確かめるついでに、灯火を付けてみた。
 思った以上にしっくりと術が使えた。

「わ」

 わかっていたこととはいえ、思わず声が出た。
 手足が、以前よりもずっと長い。
 もう少し伸びていて欲しかったけれど、大人の女性だと言ってもまったく疑われることは無い……いや、そんな建前のことではなくて。
 ちゃんと大人の女性になったのかどうかの方が重要だ。

「…………」

 大きさ、すごく不満。
 紗蓮さんほど……は高望みだと思っていたけど、せめてあずみさんくらいの大きさになっていて欲しかったのに。
 これについては失敗したかもしれない。
 湖の水を鏡代わりに覗き込んでみる。

「……これが、私」

 髪の毛が長い。
 腰くらいまで伸びていた。
 これはこれで大人っぽいかも。
 顔の中で目のある場所が比較的上に移動して、それなりに大人っぽくなった……と思う。
 これなら、大丈夫。

 用意しておいた大人用の着物に袖を通し、私は洞窟の外に出た。
 丁度日の出の時刻だった。
 方角からして、今日の日付は予定通り。
 私の、誕生日だ。







「なぎさ……ちゃん?」

 江戸に帰ってきて最初に会ったのは優弥さんだった。
 当然だけど、絶句してる。

「はい。大人になってきました」
「……竜宮城にでも行って来たの?」
「それなら逆に年を取っていませんよ」
「それはそうだ。いや、そんなことじゃなくて、一体何があったの?」
「時を、切り離して速めました」
「時を、速めた……」

 それで理解してもらえたらしい。
 みんなへの挨拶を済ます前に、話は理解してもらえることだろう。

「先生にご挨拶してきます」



 先生は私を一目見るなり抱きしめてくれた。

「せん……せえ」
「渚……この姿は……、いったい」
「先生、私、大人になりました。これで先生の研究室に入れます。先生のお嫁さんにもなれます」

 先生は、喜んでくれなかった。
 私が初めて見る、泣き出しそうな顔で、まじまじと私の瞳を見つめてきた。
 先生に喜んで欲しかったのに。
 誰よりも、先生に誉めて欲しかったのに。

「渚……」

 先生は、自らが名付けた私の名前を噛み締めるようにしつつ、強く強く私の身体を抱きしめてくれた。

「お前は、私の愛娘だ。
 何があろうと、それは変わらぬ」

 先生だけは、私が直接触っても、その心を読むことができないはずなのに、そのときだけは、先生の心の中がはっきりと伝わってきた。
 先生は、悲しんでいた。
 その悲しみが、私の心を浸していき、いつしか私は、泣いていた。




 お嫁入りも、研究室入りも、すぐには認めてもらえなかった。
 それどころか、紗蓮さんと黒鳳さんにはものすごく叱られた。
 だからといって、子供に戻れるわけではない。
 それは覚悟の上だった。
 お嫁入りは容易にはいかないとして、研究室入りはなんとかなるとの勝算があった。

 地上にいる数少ない私の知り合いである、河庵のおじいさんにお願いして、戸籍を分けて貰った。
 水地渚ではなく、高音渚。
 研究室に入る時、先生の親類然とした名前よりも、この方が都合がいい。
 それに、先生の娘のままでは、先生のお嫁さんにはなれない。

 この名前で、あれこれと手を回して、翌年度から帝大に助手として潜り込むことに成功した。
 色々あったけど。
 不服だった胸の大きさは、このときは役に立ってくれた。
 禍福はあざなえる縄のごとし。




 だが、結局私は間に合わなかったことになる。
 私は最期まで、先生の娘だった。


水地助教授室に戻る。
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