明冶三十八年
「打ち寄せる渚」
隅田川は、平安京でいう鴨川の役割を担う、江戸城の東方を守護する青龍として天海が作り上げた川である。
同時に、天海が陰陽師たちから引き継いだ河川浄化の法の集大成でもある。
江戸湾に注いで聖魔城の浄化を行う十本の新しき川の最後にして最大のもの。
それを守護する水神の名を水地新十郎という。
水精としては下位の蛟の出でありながら、一時は江戸最大の神であったこともある。
後年になって、天海の仕掛けた風水を理解しない江戸幕府によって、隅田川に流れる水の流れが利根川へと大きく分けられてからはいささか衰えたが、そうしなければならないほどに彼の力が強大であり、彼自身にももてあますほどであったことは否定できない。
江戸の興亡とともに、彼は河川浄化の法を担い続けてきたが、江戸から東京に変わってから四十年を過ぎた今、既にその役割を終えつつある。
今、隅田川の水にかつての浄化能力は無い。
蒸気文明の発達とともに彼に流れ込む汚れてしまった水を浄化するだけで、彼の力は削られ続けていた。
それでもなお、帝都東京を見捨てる気にはなれない。
彼の背たる河面を渡る船たちは、櫂が蒸気機関によるスクリューに変わって魚たちを傷つけるようになっても、それでも彼に感謝し、慈しんでくれているのだから。
彼が運び続けてきた三百年の時を、彼はなお忘れることができなかった。
そのためか、彼は、表の顔として助教授をやっている大学を時折抜け出して河畔を歩くことがある。
河岸に並ぶ工場群が彼の身体を傷つけ続けていても、荷物を運ぶ艀が一艘でも動いているのを見れば、彼はそれで安らぐことができた。
この日も、何か当てがあったわけではない。
西欧風の科学的水質調査は一週間前にやったところなので、この日歩くことに意味があったわけではない。
それは本当に偶然であり、そして、偶然と済ますにはあまりにも大きく彼の生涯を変えることになった。
河岸を歩くこと二時間ほどか。
既に河口が間近に迫りつつあった。
河口の向こうには、東京湾から急速に消えつつある渚の風景がなお残っている。
その河口近くには、係留されている艀や、蒸気船、かつての渡し船などがところ狭しと並んでいた。
その中から、こえがきこえた。
聴覚を震わせるような声ではなく、魂にすがりついてくるような、悲しいこえだった。
気になって近づいてみた。
その気になれば水面を歩くことなどたやすいが、誰が見ているかもしれないので、うち捨てられたものらしい古い木船を一隻頂戴することにした。
慣れた手つきで櫂を漕ぎ、船を見渡していると、泣き声が聞こえた。
今度は鼓膜を震わせる声だった。
それもひどく幼くか細い。
同時に、その声の方から強い力を感じた。
純粋な霊力だ。
それも、近年出雲以外では覚えがないほどに、人間では天海僧正くらいでしか見たことがないほどに強大なものだった。
これならば見失うこともない。
遊興用らしい小型の蒸気船の船室からだ。
そこに、泣き声の主がいた。
白い清潔なおくるみに包まれた、愛らしい女の嬰児だった。
先ほどまで泣いていたのだろう、赤くなった顔はまだ小さく、一歳……いや、生後半年も経っていないであろうと見えた。
髪の毛と瞳は夜よりも深い漆黒で、特にまっすぐに向けられた瞳に、彼は一瞬引き込まれそうになった。
もう視覚ははっきりしているらしく、彼が船室に入ってきたのを見て、届くはずもない小さな手を彼の方へと伸ばし……彼の着物の胸元付近が、見えざる手に捕まえられた。
「この子は……」
助けを必死で求めていたのだろう。
置いていかないで欲しいという、言葉にならない思いの発露を受け止めるように、彼はその見えざる手に引かれるままに近づき、そっとその子を抱き上げた。
ぎゅっと、今度は確かに自らの手で、女の子は彼にしがみついた。
骨もまだ固まっていない小さなその手が固く固く彼の服の襟を掴んだまま、その子はようやく安心したのか、幼さに不憫なほどの疲れた表情で眠りに落ちていた。
ある程度、予想はしていた。
「かっっっっっっっっっっっっわいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!」
「うわーーーーーーーーーー、赤ちゃんだーーーーーーーーー!」
しかし、地下都市江戸に戻ってきた水地を迎えたのは、予想を上回る大騒ぎだった。
この都市に子供が生まれなくなって久しい。
とにかく赤ちゃんというものがひたすらに珍しかった。
「玩具ではないのだ。むやみに触るな」
「はいはい触ったりしませんからこっち向いてー」
……ほとんど効果が無かった。
女の子は大喧噪の中でも、水地の服の襟を握りしめたままひたすらに眠っている。
これで目を開けたりしたら、この騒ぎがさらに三倍くらいになりそうである。
「ねえねえ、この子先生の隠し子ですか?」
「あずさ!」
妖狐の姉妹のうち、妹のあずさがとんでもない発言をぶっかましたので、即座に姉のあずみの尾が一閃した。
「熱い熱い熱い熱い……って姉さんやめてぇぇぇごめんなさいごめんなさい」
「わかればいいの。
でも先生、実際のところこの子どうしたんですか?」
「河口近くの船の中に一人でおったのだ」
水地はあえて、捨てられていた、という言葉を使わなかった。
「それを先生が拾って来たということは、この子これからここに住むことになるんですね!」
半人半地龍である天辰優弥は、普段は悪ガキ六人集の大将格だが、尋ねてくるその顔はでれでれと崩れまくっている。
優弥にしてこれだから、後の五人も似たような顔だ。
「まだ、わからん」
「えー」
「なんでさー、せんせー」
周りから一斉に不満の声があがる。
水地は過去何人かの人間の弟子を持ったことはあるが、赤子から育てた経験はない。
拾ってきたとはいっても、父親として育てる能力が自分にあるとは思わなかった。
そもそも、この子が捨てられたいきさつもまだわかっていないのだ。
親元から無理に離されたのであれば、返してやるべきだと思う。
幾たびもの江戸の大火で、親とはぐれた子供とともに親を捜してやったとき、その子らがどれほどに親を求めていたことか。
自身である隅田川に捨てられていた以上、この子は水地にとって守らねばならぬ子供であり、出来うる限り幸せにしてやらねばならぬ子供であった。
しかし、いつの間にか目を覚ましていた女の子が、ぎゅっと襟を掴み直して、小さな首を精一杯に伸ばして、まっすぐに水地を見つめて、
「しぇんしぇ……」
その水地の考えを拒絶するように、すがるように、声をあげた。
「すっごーい。この子、喋ったぁ」
「うわー、オレらの会話をしっかり聞いてるよ。先生って呼んでるのをわかってる」
「このぐらいの子って喋れたっけ?」
「いや、まず無理だな」
確かに、生後半年にも満たない赤子が喋るなど、普通ではありえないことだ。
それに知能の発達も尋常ではない。
先ほど見せた霊力といい、この知能といい、この子が捨てられたということはほぼ間違いないと思われた。
「この子すっごく頭いいんじゃないのか。
覚えさせてみよう。おーい、ゆーおにいちゃんだぞー」
「ちょっと優弥、アンタなんかおじさんで十分よ。
この子に間違ったこと教えないの!」
あずみが酷い理由で止めようとしたがもう遅い。
「ゆーおにちゃ……?」
女の子は小首をかしげながら、しっかりと答えてしまった。
「よーし、いいぞー!」
「うわ……、この子の未来に汚点残したわ……」
「私もこの子に名前呼んで貰おうっと」
「あ、待てオレが先だ」
「いやここはジャンケンでいっそ……」
「静まれ」
収拾がつかなくなってきたので、水地は一喝するとともに全員に水をぶっかける。
いくらなんでもこれほど騒いではこの子に毒だ。
「はーい、済みません……」
「悪ガキども、調べて欲しいことがある」
「何でしょ」
「東岸を河口から二百歩あたり進んだところにある屋根のある蒸気船だ。
波路眼の眼を使ってこの子をそこに置いた者を調べてきてくれ」
悪ガキ六人集のうちの一人、波路眼は、過去視という希有な能力を持っている。
さらに波路眼だけでなく六人がかりで調べろというのは、単にその者だけでなく、この子の身元を調べろという意味である。
「先生、やっぱりこの子を人界に返してしまうんですか?」
同じく悪ガキの一人、五樹が寂しそうに尋ねる。
「頼んだぞ」
水地はその質問に答えず、もう一度念を押した。
それから三日。
その子が水地から手を離さなかったこともあるが、水地はその子の面倒を自分で見ることにした。
困ったのは、この子が空腹になってもほとんど泣かないことだった。
お腹が空いていないわけがないのに、泣かないのだ。
我慢強いといえばそうなのだが、こんなに幼いのに、そこまで我慢することを覚えさせられているというのは異常であった。
最初の半日はそれに気付かなかったので、後で慌てて紗蓮に頼んで吉原からお乳を分けてもらうことになった。
ただ、水地が離れようとすると泣いた。
力尽きて眠っていても、水地がその場から離れようとするとすぐに気付いて泣いた。
もう一度捨てられるのを、極度に恐れているのだ。
悩んだ末に水地は、結局常時抱いていることにした。
悪ガキ六人集が調べ尽くして帰ってきたのを迎えたときも、手ぬぐいに染みこませたお乳を飲ませながらである。
「ご苦労だった」
「はい、まずその子の身元ですが、粕谷満陸軍大佐の娘です」
聞いた覚えがある名前だった。
優弥が付き合いのある朱宮少将を通じて陸軍の情報はかなり詳しく掴んでいる。
粕谷大佐というのは、陸軍の中でも屈指の格闘技の使い手と名高い人物であり、今はロシアとの戦闘で満州の最前線にいるはずであった。
「すると、母親は一人でこの子を生んだということか」
「はい、ですが調べたところ母親は既に日本国内におりません。
その子を置き去りにした後、その日のうちに愛人とともに亜米利加行きの船に乗っています」
「そうか……」
概ね、予想していた通りだった。
あの子ほどの力を持つ子供が生まれたら、並の親であれば恐怖に駆られることは間違いない。
まして夫が満州の戦場にいて一人であればなおさらだろう。
責める気にもならない。
隔世遺伝で時折出現する強大な霊力の持ち主は、そうやって親に捨てられる者が少なくない。
「この子の戸籍はあるのか?」
「はい、こちらに書き写してきました」
優弥が差し出した書類には、粕谷こずえ、という名前が書かれていた。
「お話があります、水地様」
吉原の店を経営し、普段の夜は江戸から離れている紗蓮が尋ねてくるなり切り出してきた。
「この子を、粕谷大佐に返されるおつもりですか」
耳が早い。
もっとも悪ガキたちには口止めをするだけ無駄なのでしていなかったのだが。
女の子は今も水地の腕の中で静かに寝息をたてている。
「両親ともに蒸発しているのであれば仕方がないが、父親が生きているのであれば返さねばなるまい」
かつての八岐大蛇でもあるまいし、水地としては生け贄をとったことはない。
「水地様、先日も吉原に霊力を持った女の子が売られてきました」
いきなり紗蓮は話を変えた。
その一言だけで水地は紗蓮の言いたいことがわかったが、黙って聞くことにした。
水地自身、悩んでいたのだ。
「両親はさほど金に困った様子はありませんでした。
ただ、両親はその子をひどく恐れていました。
育てることなど出来ず、さりとて殺すのも恐ろしく、結果として女衒に売られることになったのです。
……この子の霊力は、ミクをもはるかに凌駕します。
この子が人間界に戻っても、決して幸せな人生を送ることはできないでしょう。
いずれ必ず、人間界で忌み嫌われて売り飛ばされ、吉原に来ることになりましょう」
その想像は、ギリギリと心臓に杭を打たれるような痛みを伴っていた。
あの子が吉原で生きるということを想像するだけで、途方もなく許せないという怒りを覚える。
その怒りは、つまるところ自分への怒りでもあった。
「もし水地様が、この子のことを可愛いと思われるのでしたら、どうぞこの子を手放すことなく、水地様のお子として育てて下さい。
それが吉原の女としての願いです」
深々と頭を下げ、女の子の髪をそっと撫でてから、紗蓮は水地の家を辞した。
水地の家は江戸の中でもそれなりに広い。
その気になれば何十人でも収容できる大広間もあり、部屋数も多い。
そこに一人で住んでいることに、特に違和感はなかった。
だが、そのなんと空虚だったことか、この子を育て始めてからよくわかる。
常に傍にいるというのに、この子がいるだけで家の中がまるで違った暖かさを持ってきていた。
昨日など、ここ二十年ほど姿を見せなかった座敷童が久々に姿を見せたくらいだ。
腕の中のこずえを見ると、大人しく眠っている。
今日になってから、こずえは水地の襟をしっかりと握りしめるのをやめた。
それは諦めたのではなく、ただ安心しているようにも見えた。
もちろん、離れていても、この子は誰かを掴むことは出来るのだが……。
こずえは、霊力で母親に必死でしがみつくこともできただろう。
だが、それをしなかったのだ。
親ではなく、水地にすがりついたのだ。
「そうだな……、おまえは、私の娘になりなさい」
そう言われて、眠っていたはずのこずえはすうと眼をあけて笑った。
初めて見た、この子の笑顔だった。
「そうか、嬉しいか、こず……」
名前を呼ぼうとして、それを押しとどめる何かが心の中にあった。
この子はもう、粕谷こずえとしては生きられない。
この子を拾ったときから水地が考えていることがあった。
名前を付けるということは呪術的に極めて大きな意味を持つ。
名前を付け直すと、それまでの人生とその後の人生を大きく狂わせることになる。
しかも水神として力のある水地が命名するとなると、その名前は生半可な力ではなくこの子を縛ることになる。
人間界に帰られなくなるおそれが高い。
それらのことを、女の子は言われずともわかっているようであった。
「しぇんしぇ、しぇんしぇ」
ねだるように、小さな声を幾度もあげる。
この子にとっての幸せは、いずこにあるのか。
今、自分の腕の中にこそあるのではないかという思いが、驕りでないとどうして言えようか。
しかし、この子の瞳はそんな思いを打ち破るほど真っ直ぐだった。
「……渚」
少なくとも今、この子を幸せにするには、それが最良だと信じて、水地は名をつけた。
人と水との間にある、美しい景色のように。
失いたくないという思いを込めて。
水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。