春の日々にさよならを さくら誕生日記念 |
「懐かしいなあ」
言わずとはなく、言葉が漏れる。
雪が積もってはいるが、今は冬で、見晴らしは良い森の中だ。
木々の一つ一つが、何かしらの思い出と共にある。
昔はよく、ここで遊んだものだ。
ずいぶん長い間、ここに来ていなかったように思う。
一年の大部分を仙台の街中で暮らすようになったから・・・、
いや、年に何度かは実家にこうして戻ってきているのだ。
そのときに、ここを訪れることは出来たはずだ。
理由は、そう、わかっている。
怖かったのだ。
三年にも渡る病院生活の原因となったあの事件、あの場所が。
もともと、彼はそんなに度胸があったわけではない。
子供の頃、びくびくしながら、よくこんな森の奥まで来たと思う。
一人では、ここに来ようなんて思わなかっただろう。
他の学友が一緒でも、来ようとはしなかっただろう。
彼の隣に、どの少年よりも元気な、しかし、絶対に少年には見えない可憐な少女がいなければ・・・。
今、雪を踏みしめながら、ゆっくりとあの場所へ向かっている。
不思議と、恐怖はない。
不意に、風もないのに木々がざわめいた。
誰かを迎えるような声、森が喜んでいる。
彼も、微かながら常人には知覚できない物を見聞きする事が出来た。
この匂いは・・・、春そのもののような、暖かな大気は・・・。
知っている・・・、よく知っている・・・。
昔、この匂いを全身で受け止めていたから、あんなことも出来たのだ。
自然、足が速くなる。
足の向く方向と、心の赴く方向は、全く同じだった。
その場所か、見えるか見えないかの所まで来たとき、不意に足が止まった。
覚えのない感覚が、肌をざわつかせる。
よく知っている匂いに隠れて、今まで気づかなかったが、それは尋常ではない強さだった。
ただ、周囲に敵するところがない。
だから、近づくまで気づかなかったのだ。
気配を殺して、ゆっくりと近づいてみる。
昔、つき合わされた修行の、ちょっとした成果だった。
目指す場所、彼がずうっと前に、雷に撃たれ、死にかけた場所。
そのとき同時に折れた大木の跡の前に、二人の人影があった。
「・・・・・・・!」
知らなかったわけではない。
上京して大学に通っている友人から、一枚ブロマイドを送ってもらい、今、どんな立場となっているのか、一部とはいえ聞いてもいた。
だが、何年ぶりかで直に目にした少女の、なんと美しいことか。
一瞬、我が目を疑ったが、次の瞬間にはそれを納得していた。
彼の知っていた少女も、今のその姿を肯定できるほど美しかったのだから。
そして、もう一人、少女の隣に長身の青年がいる。
その整った容姿は、少女と並んでも少しも劣る物ではなく、むしろ、似合っていると言うべきだろうか。
だが、それ以上に、その身に秘めた少女を凌ぐほどの強烈な力に、圧倒された。
ただ者ではない。
逝去した少女の父と比べても、劣っているとは思えなかった。
なるほど・・・。
いくつか、引っかかっていた問題の答えが見えたようだ。
その答えは、疼きを伴っていたが。
心を落ち着かせてから、今度は気配を消すことなく、足を踏み出す。
「そこにいるのは・・・、さくらじゃないか!」
完全に演技というわけではなかった。
どこか、本当かどうか、疑っている自分がいる。
こうして、再び話せることが、信じられない自分がいる。
「えっ?」
青年との話に集中していたのか、少女は最後まで近づいてきているのに気づかなかったらしい。
驚いたように振り向き、その顔をまっすぐに向けてくる。
眩しい。
心臓が跳ね上がったかと思う。
そのとまどった表情に、最後まで残っていた疑念が、全て吹き飛んだ。
「やっぱり、さくらだ!さくら・・・ひさしぶりだなあ!」
思ったより、素直に言葉が口をついて出た。
たぶん、本心だったから。
「・・・・?」
しかし、少女は、さくらは、とまどった表情のまま、首を傾げる。
ああ、そうか。
無理もない。
自分が、さくらの成長を信じられなかったように、さくらも、同じだけの時間、自分と会っていなかったのだから。
「何だ、忘れちゃったのかい?俺だよ、タケシだよ。松本タケシ」
さくらの表情が、驚きのそれに変わり、すぐに笑顔に変わる。
「タケシくん!?タケシくんなの!?」
まあ、学生服を着ている自分が信じられないのかも知れない。
とはいえ、さくらが覚えてくれていたことに、心の中で一安心する。
「わあ、久しぶりね・・・!」
久しぶり。
確かに、もう、何年になるのだろう。
あえて、会うことを避けていたのだと、思い知らされる。
「このお正月はお家に帰ってきてたの?」
「大学が正月休みだから、実家に帰ってきたんだよ」
自分に少し嘘をつきながら、でも、一応の事実を言っておく。
そんな会話ですら、嬉しかった。
一方、隣で青年が目を白黒させている。
こちらも、聞きたいことがあった。
「・・・あれ?さくら、こちらの方は?」
「あっ・・・・・」
青年の目の前ではしゃいでいた自分に気づいたらしく、さくらは慌てて姿勢を正して答えてくれた。
「この方は、大神一郎さんとおっしゃって・・・、今、あたしが勤めている帝都の劇場で、とてもお世話になっているの」
言葉を選んでいるな。
嫌なことに、それがわかってしまう。
生来まっすぐなさくらは、昔から嘘が下手だった。
大体、何を隠しているかもわかる。
「そうですか・・・、初めまして、大神さん。僕は松本タケシと申します」
名乗った瞬間、大神さんの表情が微かに動いた。
さくらがここにこの人を連れてきているということは、多分、この人には、ここで何があって、何が怖くなったのかまで、全て話しているのだろう。
しかし、さくらのことだから、自分が助かったことまで話していなかったのではないか。
とはいえ、それ以上は読めなかった。
「大神一郎です。よろしく。さくらくんには、自分の方こそいつもお世話になりっぱなしで・・・」
大神さんは即座に姿勢を正し、きっちりした挨拶を返してきたからだ。
ただ礼儀正しいというのではない。
確実に、訓練を積んだ動きだった。
「ハハッ、『自分』だなんて、大神さん、軍人みたいですね」
大神さんは、表情を止める。
さくらがあわてて後に続けた。
「あ、そ、そうだ。タケシくんは今、どうしてるの?」
その態度が、推測を肯定していた。
こんな所は、さくらは少しも変わっていない。
「僕は今、東北帝国大学の医学部で、医者になる勉強をしています。雷に撃たれた僕も、お医者さんのおかげで助かることが出来ました。そのときから、人の命を助ける仕事に就きたいと思ってたんです」
さくらに聞かれたというのに、何だかよそよそしくなってしまった。
「そうか・・・、タケシくんも、大学生になってたのね・・・」
学生服を見つめながら、さくらはしみじみと言う。
さくらの中の自分は、雷に撃たれたあのときのままだったのかも知れない。
「そういうさくらだって、今や帝都じゃ押しも押されぬ人気女優だろう?」
「ええっ?タケシくん、知っているの・・・」
ほんの少し、さくらの頬が赤く染まる。
「ミツルが上京して、帝都で書生をやっているんで、ほら、ブロマイドを一枚送ってもらったのさ」
そう言って、学生服の隠しから取り出して見せる。
「ああ、なんか恥ずかしいなあ。知らないところで見られてるんだ」
「何を言ってるんだよ。名前だけならこちらの新聞でも時々見るんだし」
何だか、いまいち女優としての自覚に欠けている気がする。
「そうだ、このブロマイドにサインしてくれないか。学校の友人に自慢できるからさ」
言い出したとき、少し舌に引っかかった。
心臓が、疼いた。
「もう、しょうがないなあ」
そう言ってペンを取りだして書き付ける手つきは、なるほど、人気女優のそれだ。
だが、その手は、今も剣から遠ざかっていない者のそれだった。
「ほかのみんなも、結構帰ってきているみたいだし、少し回ってきたらどうだい」
「ん・・・、そうしたいけど、今は大神さんをご案内しなきゃ・・・」
やっぱり、そういうことか。
どこまで話が進んでいるのかはわからないけど。
そんなことを考えていたら、意外なところから助けが出た。
「いや、寄り道をしようと言ったのは俺なんだし、少し回ってきたらいいよ、さくらくん」
大神さんだ。
そう言って、こちらにふっと目配せする。
「え・・・、でも・・・」
「いや、僕も大神さんから、今のさくらがどんなことをしてるのか聞きたいしね」
「久しぶりの帰省なんだ。お友達、ほかにもお話ししたいだろう」
大神さんは役者もやっているのだろうか。話を合わせるのがうまい。
「うん、それじゃあ、ちょっとお言葉に甘えて回ってきます。タケシくん、あんまり大神さんに変なこと言わないでよ・・・!」
自分に今のことを知られるのを恥ずかしがっていない。
それよりも、大神さんに、昔の話を聞かれるのが恥ずかしいのか。
また、胸が痛んだ。
さくらが行って、大神さんとしばらく沈黙を分け合っていた。
聞きたいと言っていたのに、あまり、知りたくないとも思う。
「僕は、あいつのことを誰よりもわかっているつもりでした・・・」
大神さんは、まっすぐこちらを見ている。
大神さんには、自分はどんな風に見えているんだろう。
評価しているのか、軽蔑しているのか。
その顔から伺い知ることは出来なかった。
少し、顔をそむけて、足下にあった雪を軽く蹴る。
「あいつが、どれだけ身軽に木に登るか、どんな癖で剣を打ち込んでくるか。そして、どんな顔して笑うか・・・」
盗み見た大神さんの表情が、少し翳ったように思う。
嫌な、優越感、そして、劣等感があった。
「でも、僕は、さくらのあんな笑顔を、見たことがない・・・」
さっき、大神さんと話しているときのさくらの笑顔。
それは、さくらが成長したから、では納得できない美しさがあった。
理由はわかる。
わかっている。
それはもう、自分の知らないさくらなのだ。
「さくらが、あいつが女優だなんて、今でも信じられないんですよ。修行を全然怠っていない」
「さくらくんは、努力家だからね・・・」
そうだろう。
それぐらいは言われなくてもわかっている。
「僕を無理矢理引っ張って、剣の相手をさせた頃の気配と、あんまり変わっていない」
小さいころから剣を修めていたさくらは、実際にはかなりの腕前だったのに、女だという理由で公式の勝負をすることも出来ず、相手をしてくれる者がいなかったのだ。
その分、自分がさくらを独り占めできる時間があったのだが。
今、聞きたいのは、そんなことではない。
「大神さん」
これだけは、聞いておかねばならない。
はぐらかされるわけにはいかない。
真っ正面から、睨み付けるように視線を固定して、問いかけた。
「あなたは、帝国華撃団の、部隊長ですね」
木々がざわめいた。
大神さんは答えない。
ただ、まっすぐと見返してきた。
「・・・・・・やっぱり、ね」
肯定するわけにはいかないのだろう。だが、否定はせずにいてくれた。
「帝都を二度に渡って守ったっていう帝国華撃団。さくらが入っているだろうって、思ったんです。それに、さくらがただの劇場の人を、ここに連れてくるはずがない・・・」
「ああ、さくらくんから、聞いたよ。君のこと」
「そうでしょうね。あいつは、そういうとこは正直ですし」
虚勢を張っている自分がわかった。
「だいたい、あいつが女優として呼ばれるなんて、おかしいと思ったんだ。大神さん、最初の頃大変だったでしょう」
「そりゃあ、もう」
ようやく、お互い笑い合うことが出来た。
よかった、これで、話せる。
話すことが出来る。
「でも、さくらくんは今、本当に素晴らしい女優になったよ」
「それは・・・、確認しましたよ」
ついさっき、なれた手つきで書いてもらったブロマイドのサインを見つめる。
普通、好きな女の子に、サインしてくれなんて頼まないよな。
また落ち込みそうになって、あわてて言葉を続ける。
「僕、あれから病院暮らしになっちゃって、親父さんが亡くなって悲しんでいるさくらを支えてやれなかった・・・・。あいつが、友達じゃなくて、女だって思えるようになったころにね」
真宮寺家が特別な存在だと、噂で知ったのもそのころだ。
戸籍上は存在しない物とされる、古代より存在する破邪の血統。
そのころは、何のことだかさっぱりわからなかったが、納得してしまった。
さくらは学校に来なかった。
今、さくらが会いに行っている友人達は、自分と同様、本当に子供の頃の友人だった。
真宮寺家の真相を知ったのは、大学で書物をあさっているときだ。
そのとき、既にさくらは仙台を離れていた。
「そのまんま、手の届かないところにいっちまった・・・」
天を仰いでしまう。
駄目だ。
この人の前で、無様な真似は出来ない。
頭を振り払い、再び大神さんに向き直る。
「大神さん、あなたの霊力、隠さずに見せていただけませんか」
霊力を見れば、魂も解る。
この人がどれほどの人か、さくらがどうしてこの人を好きになったのかも、見抜く自信がある。
それだけは、それだけは・・・。
「わかりました」
大神さんは、訳を聞かなかった。
しかし、真面目に応えてくれた。
この人の目に自分はどう映っているのだろう。
さくらの、幼なじみ。
それにふさわしい、それ以上の男として映っているのだろうか。
すう・・・
風が、大神さんから吹いてきた。
見える。
自分にも微かにだが、圧倒的な霊力の光が見える。
圧倒的だが、周囲全てを従えるのではなく、友とするかのような柔らかい心。
そばにいれば、必ずや守ってくれるだろうという安心感。
かろうじてわかるのは、それだけ。
眩しくて、直視できない。
でも、わかったよ、さくら。
気がつくと、風が止んでいた。
大神さんは穏和な表情で、たたずんでいる。
圧倒的だった霊力は、今はほとんど感じない。
ただ、身に纏っている雰囲気は、あの霊力と同じ本質のものだった。
「ありがとう、ございます・・・」
この人なら、いいだろう。
この人なら、さくらをこれ以上悲しませたりしない。
さくらを、真宮寺家の因縁とかから守りきることが出来るだろう。
痛みが、和らいでくれた。
「僕が、医学部に所属しているって、言いましたよね」
「ああ」
無理矢理に笑顔を作って、大神さんの胸を拳で叩く。
「将来、僕の所にさくらを連れてくるようなことがあったら、許さないですからね」
「ああ」
大神さんは、今までで一番まじめな顔で答えてくれた。
「約束する。必ず・・・・・・」
「タケシくん、大神さんに変なこと言わなかったでしょうね」
半時ほどして戻ってきたさくらは、開口一番こんなことを聞いてきた。
「まあ、嘘は言わなかったよ。大神さんから、さくらがどれだけ頑張っているかも聞けたし、俺も頑張っていい医者になるから、お互い頑張ろうな」
「・・・ありがとう、タケシくん」
そのとき見せてくれた笑顔が、昔向けてくれた笑顔と、重なって見えた。
「まあ、でもさくらは、いい人も見つけたみたいだし、心配いらないかな?」
「もう、タケシくんったら!」
「あはははは!ごめんごめん!」
冗談半分に振り上げるさくらの手を避けずに受けながら、大神さんと目を合わす。
「それでは大神さん、僕はこれで失礼します・・・」
最後の平手を受け止めて、そっと、さくらの方に押し返す。
「ああ」
「タケシくん・・・」
たっ、と距離をとり、二人を見る。
あまりにも、よくお似合いの二人を。
「今度、仙台に地方公演に来て下さいよ!」
最後に手を振り、さくらが手を振り返してくれたのを確認して、森の外へと踏み出した。
雪を踏みしめる音が、どこか虚ろで、しかし、暖かかった。
森が僕を慰めてくれていたのだと思い至ったのは、太陽を振り仰いだ時だった。
暖かい日差し。
それは、早春。
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