ニャン太とニャンイチローには、エリカが霊力を分け与えることでひとまず復帰したが、視界が効かなくなった光武F2はその場に置いて進むしかなかった。
幸せ気分に染めようとする圧力はなお感じる。
神経を張りつめさせて屈しまいと歯を食いしばりながら、オーク巨樹内部を彷彿とさせる迷宮を五人と二匹は駆けていった。
二匹の案内により、いくつもの分かれ道を抜け、坂と階段を駆け上がり、立ちふさがる根をグリシーヌの戦斧とロベリアの炎が蹴散らし、駆けて駆けて駆けて駆けて、
その果てに、
「抜けた!」
ノートルダム寺院の全面積、全体積を超えるほどの広大な空間。
そこに、
上級ニャンニャンが一人にして、ニャンニャン軍団が長たるニャンニャン隊長が、三色の猫毛をあらぬ風になびかせて、立ちはだかっていた。
「ニャンニャン隊長……」
ニャン太がごくりと唾を飲み込みつつ、呼びかけにもならない言葉を漏らす。
いつもの自堕落な雰囲気は欠片もない。
漆黒の眼は、飛び込んできたニャン太とニャンイチローを見ても揺らぐことなく、不退転の決意をみなぎらせている。
体長はいつもの三倍ほど。
グリシーヌたちほどではないが、人間の子供……コクリコとほぼ同じくらいの身長から立ちのぼる霊力は、その身体を何十倍にも大きく感じさせた。
あのカルマールや大久保長安でさえ、これほどの霊力を発していただろうか。
その霊力に守られるように、あるいは隠されるように。
その後ろには、玉座のように絡み合った樹の根に、女王のように座した少女がいた。
身体は、ニャンニャンの地毛と同じ淡い白色で染め上げられたアオザイで包まれている。
だが、アオザイは本来女性の身体の線を引き立たせることを目的にして作られている。
長らく栄養失調寸前の食生活を送ってきた齢十二の少女には、それは残酷な衣装であるようにも見えた。
そして、いつもならばゴムで括ってあるだけの髪は、ニャンニャン自身によるものか、綺麗に梳かれて流されており、いつもテールがあるところには、ニャンニャンたちのそれに酷似した、耳が生えていた。
「ノートルダム卿、あなた、コクリコを……」
ピトンにはすぐにわかった。
司祭としての能力を極限まで引き出されることで、コクリコの身体が人間のそれから、大地の子として彼女に最も近い獣のそれへと変貌しつつあるのだ。
すなわち、怪人化である。
そのコクリコの前に跪き、神官のように祈りを捧げていたアカデミックガウンの男は、祈りを中断して立ち上がり、巴里華撃団に相対するために振り返った。
「いかにも。司祭にして生け贄となって戴いている」
その声が聞こえているのか聞こえていないのか。
瞠目したままのコクリコの表情は、塵ほども動じなかった。
「ふざけてんじゃない!
てめえの目的は日本でやった降魔実験とやらを再現させることなんだろうが!
それで何故そのガキを生け贄にする必要がある!」
「お前ならば既に気付いているものと思っていたが。
今さら説明が必要か」
「何?」
ノートルダム卿の言葉が予想外だったグリシーヌは、振り向いた先にあったロベリアの顔が唇を噛み苦渋に満ちていたものだったのでさらに驚かされることになった。
ちっ、と舌打ちをしてからロベリアはノートルダム卿に向かって呪詛のように言い返した。
「ああ、おかしいとは思っていたよ。
霊子砲を使って儀式をやろうとしているはずなのに、どうしてコクリコの光武F2が格納庫のそのままになっていたのか。
考えてみたら道理だ。
このエセ猫ども、光武F2への動力が完全に切られている時であっても平然と動いていた。
確かに、こいつらを形成する最初の動力となったのはマジカルホーン、霊子砲なんだろうが、その後こいつらをずっと実体化させ続けるほどの霊力を、周囲から集めてそいつらに供給する霊子砲の役目を常時担っていたのは、光武F2ではなくそのガキ自身だってことだろう……!!」
「そう、この子は一人で霊子核機関……いや、霊子櫓の役目を担うことができる。
しかも日本の聖魔城にあったものとは違い、人々の悪徳ではなく、善行、幸福を集めることができる。
この子が霊子櫓となることで、巴里中の人々を幸せにすることができるのだ」
途方もない話。
だが、ここまでニャンニャンたちの幸せ気分を直に味わってきた巴里華撃団の面々にとっては、その言葉の信憑性は疑いようがないものだった。
だが、信憑性があることと、納得できることとは別問題だった。
「以前、大神さんからお聞きしたことがあります。
コクリコが昔言っていたそうです。
ごはんが食べられるだけで幸せだって。
生きていられるから、幸せだって。
コクリコは、そんな幸福しか知らなかったんです。
そんなことを幸福と思うことでしか、生きて来れなかったんです。
そのコクリコが、やっと、やっと自分の居場所を手に入れて、やっと、本当の幸福を見つけることが出来るようになった、
そのコクリコを、霊子櫓にしてしまうというんですか」
毅然とした表情で花火が言った最初の部分にあった名前に、それまでまったく反応を見せなかったコクリコの睫毛がかすかに動いたことに気付いたのは、ピトンだけだった。
「花火嬢、貴女のおっしゃることはほぼ正しいが、付け加えるべきことが多い。
この子は、その貴女がおっしゃる本当の幸福を手に入れようとして、破れたのだ。
それがゆえに絶望し、私なぞの言葉に共感してくれた。
理由は説明するまでもあるまい。
絶対であるか否かの違いこそあれ、貴女も同じであられたのだから」
「ノートルダム卿!それ以上喋ることはこの私が許さぬぞ!」
花火の親友が、逆上寸前の形相でノートルダム卿に戦斧を向けてくれたことで、花火はかえって冷静になることができた。
「ありがとう、グリシーヌ。大丈夫だから。
わかる、と申し上げましょう。
確かに私も、かつて絶望の淵にあり、死にたいと願ったことがあります」
「貴女のそのときの願いは嘘偽りでは無かったはずだ。
今のこの子の思いもまた同じ。
そして、この子が霊子櫓になれば、今、かつての彼女と同じ境遇にある子を幸せにすることができる。
いや、巴里中の子供たちを幸せにすることができる。
私は賢人機関の一人として、世界を幸福にする手段があるならばそれを実現させるまでだ」
まさしくグラン・マが言った通りに。
ノートルダム卿は、より多くの人々を幸せにするためになら、犠牲を顧みないのだろう。
「でも、それはまやかしです。
ニャンニャンたちの影響を受けた人を見てきましたし、私たちもまたニャンニャンたちの影響を受けたからわかります。
コクリコが知っていた幸せとは、すなわち、ニャンニャンたちがもたらす幸せとは、
生きていることやそのとき食べ物が食べられることといった、ささやか過ぎる願いの成就に過ぎません。
幸せにはほど遠い、そんなことを幸せだと錯覚させているだけなのではありませんか。
そんなまやかしを……」
そこで花火は、ノートルダム卿の狙いにようやく気付いた。
「いえ……まさか、ノートルダム卿、あなたの狙いは!」
「お見事です、花火嬢。
貴方が男であれば、かつての折に弟子にと願ったことであろう。
いかにも、それこそが私の目的です。
巴里の人々全てに、己が幸せであると知らしめること。
己が生きている今その事実、今朝食べることができたパンの味、それらが途方もない幸せであることを巴里中に知らしめること。
そのために私は、この子に頼んだのです。大神一郎に匹敵する霊子核機関の役目を」
「馬鹿な!
そんなものが幸せであるものか!
もっと他に幸せと呼べるものがある!
人それぞれに幸せの形が違って存在するはずだ!
それを画一的に、しかもそんなことを幸せと呼ぶなど、巴里市民を愚弄するに等しいぞ、ノートルダム卿!」
「黙るがよいブルーメールの娘!
飢えたことの無い貴女の無知に罪が無いとはいえ、貴女は今世界の人々を愚弄したのだ!」
「何だと!」
「巴里の悪魔と呼ばれた者よ。
お前ならわかるだろう。
餓えるとはどういうことか」
理不尽に話を振られたロベリアだったが、その問いを軽く受け流すことは出来なかった。
「そうか、グラン・マが言ってたね。
あんたもかつて絶望のどん底をさまよった経験があるってわけだ。
だとすると、一応賛同しておかないといけないね。
そこの貴族連中は知らないだろうさ。
餓えるってのはね、腹が減るとかそういう簡単な状態じゃないんだよ。
自分の腹の中ばかりか、身体の中が丸ごと空っぽになって、筋肉すら動かないってえのに、埋める部品を必死になって探し回らないといけないって言ったら少しはわかるかい」
かつてナーデルと相対したときもそうだったが、ロベリアは巴里華撃団の敵か味方か、言葉だけを聞いているとわからなくなることがある。
今も、皮肉気な笑みを浮かべて綴る言葉はどん底から引き上げた絶望の色をして、グリシーヌはおろか花火やエリカでさえ、ロベリアがノートルダム卿についたのかと一瞬思ったほどだ。
「そして、刻一刻と死に向かっていく自分の身体の悲鳴が頭の中で残響を起こすのだ。
そのうち自分が既に死んでいるのか、生きているのかわからなくなる。
空気しかない腹が鳴らす音で、自分が天国にたどり着いていないと知るのがやっとだというわけだ。
その状況に、今、世界で何億もの人が面している」
ノートルダム卿は、そこで話を巨大にした。
「世界……だと?」
「そうだ、寝ぼけるな貴族たち。
衣食住寝、それに家族、それらが足りてそれ以上幸せになりたいと思う。
その分をわきまえぬ思いを欲望という。
その欲望が、欧州を世界に送り出し、この子の故郷のような無数の不幸を生み出した!
ニャンニャンのもたらす幸せは言ってしまえば青い鳥だ。
人を踏みにじることのない最小限の、そして最高の幸せだ!
巴里だけではない。
巴里を幸せにした後には、リボルバーカノンをもって世界全てに巨大ニャンニャンを送り込み、その全てを無条件幸福させる。
そうすればもはや二度と欧州大戦などという愚行が繰り返されることもない。
世界平和だ!」
「あはははははははははははははははははは!!!」
グリシーヌたちを圧倒したノートルダム卿の言葉を、心底嘲笑うロベリアの高笑いが阻んだ。
「絶対お断りだね。
こと幸せってことに関しちゃ、そこのニャンニャン隊長が正しいんだよ。
自分がこうしたいと思ったこと、
自分がこうしてほしいと思ったこと、
それを自分でやらなきゃ、幸せだなんて思っても、錯覚に過ぎないんだよ。
不幸は簡単に拡大再生産できるけどね、
幸福なんてそう簡単に手に入るものじゃないのさ。
だからって幸福のハードルを下げて何になる。
そんなことのために、そのガキを霊子櫓にするだと?
ふざけんな」
「君は、他人を不幸のままにしてでも、幸せであろうとするのかね」
「したいんなら自分を霊子櫓にしてやりな。
誰に向かって言ってんだ。
アタシは絶対ごめんだね。
だいたい、そんな、女にもなってないクソガキを使ってやってんじゃないよ」
「残念だ。
あるいは君ならば理解してくれると望んだが、やはり悪魔に魂を売るものではないな」
「無理だね。
第一、今のアンタがやっていることは、アタシの楽しみを邪魔してる」
「交渉決裂だな……だが」
ノートルダム卿の視線を受けて、ニャンニャン隊長が前に進み出てきた。
「これ以上、私の祈りの邪魔はさせぬ。
最強降魔殺女にも匹敵しよう今のニャンニャン隊長を、打ち崩せるものなら打ち倒してみるがいい。
その前に私は巴里を無条件幸福させよう!」
既に時刻は午前四時を過ぎていた。
メルの予想した完成時刻までもはや時間は無い。
だが、立ちはだかるニャンニャン隊長を無視して進むことは、どう楽観的に見ても不可能だった。
先ほどから話の間中、コクリコに接近する隙を探り続けていたピトンの動きは、全てニャンニャン隊長に牽制されて封じられていた。
牽制といっても、前足を振ることすらしていない。
わずかに後ろ足にかける体重を移動する動き一つで、ピトンが飲まれかねないほどの威圧感があった。
「ここは、このニャンイチローにお任せ下さいニャン」
ずいっと、前に進み出てきたニャンイチローも、体長をいつもの三倍近くに伸ばしている。
隣にいるニャン太の大きさが今まで通りなので、この変化が際だち、なおさら皆を驚かせた。
「戯言をほざくニャン。
ニャンニャンを相手に、ニャンイチロー一匹で相手になるとでも……」
ばさりと、ニャンニャン隊長の背に一対の翼が出現した。
エリカ機の翼を彷彿とさせる純白の翼は、生えたというよりも、まさにそこにあるのが当然のように、ニャンニャン隊長の背に現れた。
その一羽ばたきで、周囲を猛烈な突風が吹き荒れる。
同時に、それは急加速を生む推進力となった。
「思っているのかニャーーーン!!」
大神機の突進もかくやというほどの猛スピードで、嵐を纏ったニャンニャン隊長がニャンイチローめがけて突っ込んだ。
この隙にノートルダム卿へ突撃するどころではない。
巴里華撃団の面々もピトンも、その余波から身を守るだけで精一杯だった。
だが、対するニャンイチローも負けてはいなかった。
「思っているニャン!!」
台風を相手にしているような猛烈なプレッシャーを、ニャンイチローは両前足を交差させて、真っ向から受け止めた。
「ニャンだとニャン!」
「行くニャン!ニャンニャン隊長!」
ニャンイチローの両手の先から一気に爪が伸び、全長が90センチほどの棒、いや、刀となった。
その両刀を手に、ニャンイチローはニャンニャン隊長に対して、雨あられと斬撃を繰り出した。
その眼差し、その二刀、その太刀筋、
連想させるものはただ一つ……!
「狼猫滅却、快刀乱麻ニャーンッッ!!」
左右、わずかにタイミングをずらして振るわれる青迅。
斬撃の数々を纏った霊力だけで弾き返していたニャンニャン隊長も、この攻撃は当たるに任せるわけにはいかなかった。
二刀の交差点を瞬時に見切り、全身を一ひねり半して繰り出す渾身の右正拳突きが、ニャンイチローの両爪を受け止める。
「この程度かニャン!!ニャンイチロー!」
伸縮自在の身体を見事に操ってニャンイチローの両爪を弾き、身体を巨大化させると同時に巨大化した拳を左右から振るう。
その余波だけで、周囲に常時嵐が巻き起こり、花組の面々の加勢も突破も許さなかった。
辛うじて両爪を引き戻してその拳を切り裂こうとするニャンイチローだったが、ニャンニャン隊長の拳は、ニャンイチローの爪と激突してさえわずかの傷も付かなかった。
周囲を取り巻いている霊力が、無形にして絶対の鎧となってニャンニャン隊長を守っているのだ。
もちろんニャンイチローも同様のことはしているが、霊力の絶対量は明らかにニャンニャン隊長の方が上回っていた。
押され気味ながらも危ういところで攻撃を凌ぎ続けていたニャンイチローだったが、拳に集中しすぎていたために、必中のタイミングで振るわれたニャンニャン隊長の尻尾を顔面に直撃され、外壁まですっ飛ばされた。
「負ける……わけにはいかないニャン!!」
このバランス感覚は猫のそれ。
壁に激突させられる寸前に、全身のバネを最大限に行かして、重力と垂直方向に着地する。
さらに追い打ちをしてくるかと思われたニャンニャン隊長であるが、花組の面々がコクリコのところへ向かうのを牽制するためにさらなる追撃は行わず、その場でさらに霊力を溜め始めた。
既に通常空間から拡張されたこの大広間の空間が、さらに歪んで見えるほどの絶大な霊力だ。
「そんな余裕を見せてくれてる場合かニャン……!」
ニャンイチローは壁を蹴って、再びニャンニャン隊長の前まで跳び戻る。
しかし、今度はやや距離を置いた。
必殺技同士の激突になることは明白だったからだ。
同じく、その場で霊力を溜める。
「やべえぜ……ニャンイチローも洒落にならないくらい強いが、それでもニャンニャン隊長の方が上回っている……。
あれは巴里中の霊力をかき集めてんじゃないか」
ロベリアは口では言わないが、あのニャンニャン隊長を相手にしては、光武F2に乗っていてもまず勝てないだろうと踏んだ。
勝てるとすれば、大神を隊長として、四名以上の隊員が信頼を合わせるくらいしか……。
「いえ、勝ちますニャン。
ニャンイチローが勝ちますニャン」
ニャンイチローが劣勢だというのに、ニャン太は迷い無く答えた。
「何故だ?」
「ニャンイチローは違うんですニャン。
ニャンニャン隊長を始めとして、ニャン太たちがコクリコの子供の感情から生まれたのとは、決定的に違うんですニャン。
ニャンニャン隊長では、絶対にニャンイチローに勝てませんニャン。
だってニャンイチローは、イチローの霊力とコクリコの霊力とを受けて生まれた存在……
ニャンイチローは、イチローとの子供が欲しいっていう、コクリコの、大人になりたいって思いなんですから」
「あのマセガキが……」
そうだろう。
ならば、ニャンニャン隊長がニャンイチローに勝てる道理がない。
誰もが、子供のままではいられず、いつか大人にならなければならないのだから。
そのニャン太の声が聞こえたのだろう。
ニャンニャン隊長が爆発的に霊力を高め、烈火のごとき怒りを露わにして、吐くように叫んだ。
「イチローは、コクリコを裏切ったニャン!
コクリコの家族になってくれるって言ったのに!
もう離れないって言ってくれたのに!
帝都の女の子を選んで、またコクリコを一人にしたニャン!」
それは、誰の叫びだったのか。
「でも、ニャンニャンがいるニャン……
もう誰にもコクリコは任さないニャン」
「そうだろうニャン。
君は、そのために生まれたのだからニャン」
ニャンイチローは、初めてニャンニャン隊長を、二人称で呼んだ。
その事実に、一瞬驚愕の表情を見せ、直後にそれを、取り戻した怒りで覆い隠して、
「ニャニャニャニャニャニャニャニャニャーーーーーーーーーーーーンッッッッ!!」
ふわり、と。
コクリコの前で祈りを捧げ続けるノートルダム卿のすぐ近くまで跳び戻った。
それは退却ではなく、全身全霊を賭けた一撃のための準備に他ならない。
脊椎のない霊子の身体を十三周ねじり巻き、全身から発していた霊力を右前足の一点に集中させ、床を崩壊させるほどの勢いを以て、両脚で蹴り駆けた。
「ニャァンニャァンパアアアアアアアアアァァァァァァンンンッッッッチィィィィッッッ!!!」
まるで彗星。
極限まで霊力が集中した右前足の先端は、歪んだ空間がニャンニャンの速度によって折りたたまれて圧縮され、物質ではなく座標そのものから破壊されていく。
ましてニャンニャン軍団は一同揃って肉球が無い。
一切の緩衝材無く炸裂するその猫パンチは、あらゆる物を貫く古今無双の矛に他ならない。
だが、それに対抗するのは、中国の故事にいう無双の盾ではなく、
「狼猫滅却……」
五度魔を払い、二つの都市を救った、当代最強最高の剣。
「無双天威ニャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッッッッ!!!」
かつて聖魔城において幾多の降魔を打ちのめした必殺剣が、最強降魔殺女の繰る神威を打ち砕いた奥義が、聖魔城の再来たる場所で再臨する。
上級ニャンニャンの最高峰たる二つの、それも、極限まで高められた霊力が、真っ向正面から激突した。
「うわああああっっ!」
「きゃああああっっ!」
隣にいる者の顔さえわからなくなるほどの目映い白光がその場に溢れ、直後に鼓膜はおろか脳髄まで揺るがすほどの轟音が響き、その音と同時に、衝撃波がその場にいたコクリコ以外の者をすべて吹っ飛ばした。
巴里華撃団の面々だけでなく、ピトンやノートルダム卿も例外ではない。
バランスを取って着地するどころではなく、壁に激突する際に受け身を取るのがやっとだった。
仮にも戦闘訓練を受けている巴里華撃団花組の面々でなければ、頭から激突していたかもしれない。
そして、奥義を繰り出した二匹も、当然にして無傷ではいられなかった。
「ニャア……ニャア……」
「ニャア……ニャア……」
霊的生命体ゆえに出血こそないものの、全身至る所で霊力が枯渇して半透明になっている箇所がある。
普通の猫ならば満身創痍の重傷に相当するだろう。
そしてそれらの傷は、ニャンニャン隊長の方が深かった。
辛うじて立っていたその身体がぐらりと揺らぎ、その場に膝を突く。
いや、そもそも明確な関節が無いニャンニャンゆえに、後ろ足が崩れるということは即四足立ちに戻ることになる。
屈辱だった。
そうして、二足ではなく四足で立っていたら、果たすべきことが果たせないだけではない。
この身にかけられた意味さえも、忘れ果ててしまいそうになる。
「ま、負けないニャン……」
己の身に宿る霊力を削って実体化させたステッキを両手に、這い上がるかのように、その身を起こして二本の足で立ち上がろうとする。
「止すニャン、ニャンニャン隊長。
これ以上無茶をすれば消失するおそれもあるニャン」
「黙れニャン、ニャンイチロー。
ニャンニャンは消えないニャン、ニャンニャンは負けないニャン、ニャンニャンは倒れないニャン」
なぜなら。
「ニャンニャンは、何があってもコクリコの傍にいるニャン。
何があっても、世界全てが敵に回ったとしても……、ニャンニャンだけは……ニャンニャンだけは、最後まで、最期まで、コクリコの、味方ニャン……!」
薄れかけた両脚のどこにそんな力が残っていたというのか。
誓いを繰り返し繰り返し、魂を振り絞るかのように、奇跡をかなえる呪文のように、少女に捧げる祈りのように、己の身に刻み込むように、唱えて、唱えて、ニャンニャン隊長は立ち上がった。
「隊長……」
敵対しているとはいえ、ニャン太にとってそれは、涙せずにはいられない姿であった。
どれほどおちゃらけていても、どれほどだらけていても、ニャンニャン隊長のコクリコへの思いだけはいつも本物だった。
こんな男だからこそ、ニャン太はあくまでもニャンニャンを隊長として信じてきたのだ。
良心が、始源の願いに寄せる思いではない。
なぜならそれは、
「それは、君の意志じゃないニャン、ニャンニャン隊長」
呟くようなニャンイチローの言葉は、ある意味では先の必殺剣よりも鋭く、ニャンニャンの胸に突き刺さった。
「ニャンイチロー……それは、どういうことニャン」
「ニャンイチローたちニャンニャン軍団は皆、自分のことを名前で呼ぶニャン。
ボク、でも、俺、でも、私、でも無い。
結局ニャンニャン軍団は皆、大元がコクリコの意識の実体化だから、ニャンイチローたちの自分とはコクリコに他ならないニャン。
でも、ニャンニャン隊長、君は、君だけは違う」
「ニャンイチロー!それ以上言っちゃ駄目ニャン!!!」
ニャン太が血相を変えて叫んだが、ニャンイチローはかすかに首を振って言葉を続けた。
「ニャンニャン隊長は、コクリコが自分に代わってやって欲しいと思った存在……
そして、自分を守って欲しいと思った存在……
君は、コクリコの感情を受けてはいても、コクリコの感情ではない、別の存在なのニャン。
それにも関わらず、ニャンニャン隊長は自分のことを名前で呼ぶニャン。
そう、つまり、君には、自分というものが無いニャン。
君が抱いた、コクリコを守りたいという気持ちは、君の思いではないのニャン」
その言葉が嘘ではないと自ら証明してしまうように、ニャンニャン隊長はガタガタと震えだした。
唾を何度も飲み込んで、必死に自分を押さえ込むようにして、辛うじて絞り出した声は、やはりその恐怖を肯定してしまうものだった。
「そんなことは無いニャン!
ニャンニャンはニャンニャンのしたいことをして、コクリコを守っているニャン」
「それが違うと言っているんだニャン。
君がわがままいっぱいに振る舞っていたのは、全て、コクリコが心の奥底で望んでいたことを、君が代わりに悪者になって、かなえ続けていただけのことニャン。
でもそれらは、コクリコが思い描いていた、古い幸せの形なんだからニャン。
それを叶えてくれる存在は、コクリコにとってただ一匹だったニャン。
そう、君が自分をニャンニャンと呼ぶのは、君が君ではないと知っていたからニャン。
君が演じてきたのが、君自身ではないことを、君が知っていたからニャン。
君が自分の想いだと思っていたのは、七年前にコクリコと別れて、それでもなおコクリコを守ろうとしたコクリコの兄……ニャンニャンたち全てのモデルとなった、真のニャンニャンが抱いた想いニャン!」
「黙れニャン黙れニャン黙れニャン黙れニャン!!
ニャンイチローなんかに!イチローなんかに何がわかるニャン!
裏切ったくせに!コクリコを置いて一人にしたくせに!!」
「そう、だからこそ、わかるニャン。
なぜなら、このニャンイチロー、発生した起源はコクリコの思いでも、この魂は違うニャン」
「ニャンニャンと同じだと言うのかニャン……」
「そうニャン。
この魂は、コクリコのことを案じていた、イチローの願いそのものニャン」
確かに大神はコクリコの思いを裏切ったのだろう。
それでも、コクリコを嫌っていたわけでも、好きでなかったわけでもない。
ただ一人の男に、背負える女が一人だけだっただけ。
選ぶときに苦悩が無かったはずがない。
この身が二つあればと、どれほど願ったことだろうか。
そのコクリコへの想いが、コクリコと霊力を合わせた存在を生み、その存在に魂を託した。
「だとしたら……なおさら」
走っているつもりなのだろうが、もはやそれは歩く速度でしかなく、その様子は這うようですらある。
それでもニャンニャン隊長は執念の形相でニャンイチローに向かって歩き出す。
「ニャンニャンが、イチローに負けるわけには、いかないのニャン……!」
よろよろとニャンイチローの元までたどりついたニャンニャンの拳が、避けることなくその場に立ち尽くすニャンイチローの顔に当たる。
だがそれは、ニャンイチローを打ち倒すことはできず、ニャンイチローの頬を歪めたに留まった。
「どうして、負けるニャン……
ニャンニャンは、コクリコを幸せにしないといけないのにニャン……。
どうして、イチローに、ニャンニャンが負けるニャン……」」
「ニャンイチローが生まれたことを、君は喜ばなきゃいけないニャン。
ニャンイチローが生まれたということは、コクリコが他人を欲しいと思ったこと。
それは、コクリコが、わがままをかなえるよりも幸せなことを見つけたってことニャン……
そう、もう、コクリコが、独りじゃないってことなんだからニャン」
少女の兄は、少女が愛した男の言葉を聞き終えると、その場に倒れ、動かなくなった。
「ありえぬ……」
呆然と、祈ることも忘れたかのように、ノートルダム卿はつぶやいた。
「チェック・メイトだよ、ノートルダム卿」
その彼に真っ先に駆け寄ったのはピトンだった。
一気にコクリコにまで近寄らなかったのは、言い換えれば、まだ終わっていないことを知っていたからである。
ノートルダム卿自身、これだけの儀式を行えるからには、本人の実力も決して侮ることが出来ない。
だからこそ、巴里華撃団花組を背に、追いつめて屈服させなければならなかった。
花組一同、力尽きて膝を突いたニャンイチローも気になったが、彼とニャンニャン隊長のことはニャン太に任せて、ピトンの後に続いた。
「そこまでして、この子を取り戻したいか」
「ええ。事情はまだよくわかりませんけど、コクリコはわたしの友達ですから」
エリカの答えは明快だった。
「ノートルダム卿よ、そなたに尋ねたい。
そなた自身は、幸せになろうとしたことはないのか」
「言ったはずだ、かつて私は全てを失ったと。
ノストラダムスの名を受け継ぐ者は、全てを失って、省みる物を全て無くして、その絶望の中で師に生きる価値を教えられた。
もはや私に残された幸せは、人々の幸せを望むしかなかったのだ!」
「ならばノートルダム卿、そなたは間違っている。
そなたも同じだということだ。
生きているだけでは幸せになれないとわかっているのに、目を塞いでいる。
生きている以上の幸せが、そなたも欲しかったのだ!」
このときグリシーヌの胸にあったのは、その意義を教えてくれた人の面影だった。
貴族として生き、誰かを守るために生きた懐かしい人の思い出が、グリシーヌに、ノートルダム卿が自分と似ていることに思い至らせた。
一度は恫喝できたノートルダム卿は、言い返すことが出来ずに一歩後ずさる。
その彼を追いつめるようにロベリアが二歩詰める。
「さあとっととその場をどきな。
これ以上アタシの楽しみの邪魔はさせないよ。
そのクソガキをからかって鍛えて酒を酌み交わして、飛びっきりのいい女に育てあげて、隊長を死ぬほど悔しがらせてやるのがアタシの楽しみなんだからな」
そのロベリアの笑顔は、エリカとグリシーヌと花火にとって、いくばくかの苦い思いを消し飛ばす程に性悪で、そして、爽快であった。
だが、ノートルダム卿はまだ諦めていなかった。
「いや、引かぬ。
私が間違っているとしても……もはや後には引けぬ!」
ノートルダム卿が印を切ると、コクリコの座る玉座を中心にして三重の魔法陣が発動した。
魔法陣は光の柱を作り出してコクリコを囲み、彼女の座る玉座からこの空間全体を包む樹脈へと霊力を運び、それをさらにいずこかへと輸送させていった。
「いけない!コクリコ!!」
コクリコを注視していたピトンは、コクリコの纏うアオザイの間から、ニャンニャンと同質の尻尾が覗いたことに気が付いた。
さらに亜麻色の髪が、ニャンニャン軍団と同じ褐色と白色の混合へと変化していき、先に生えた耳と融合しつつある。
それはコクリコが、もはや人としての命を失いかけていることを意味している。
振り絞る霊力が強すぎ、もはや人間としての身体では保たなくなってきているのだ。
さらに、血相を変えたニャン太が叫んだ言葉は、全員の顔を真っ青にした。
「まずいですニャンみなさん!
外にいる10体の巨大ニャンニャンが凱旋門に集結したみたいですニャン!」
「なんだと!!」
「ノートルダム卿!何をするつもりだ!!」
「このときのために、ニャンニャンたちを日本までリボルバーカノンで撃ち出す実験をさせておいた。
この巴里を完全な幸福都市にすることは出来なかったが、この巴里の幸せを集約した巨大ニャンニャンを列強各国の主要都市に送り込めば、各国を幸せ気分に染めることができる。
この世界に幸福を!
世界よ!ニャンニャンの前に無条件幸福せよ!!!」
「させないよ!それが実行されたら、コクリコの心が帰って来れなくなる!」
もはや駆け引きすることなど無視して、ピトンはコクリコに向かって突進した。
無論、それをむざむざと許すノートルダム卿ではない。
コクリコを囲んだ三重の魔法陣が、電撃を伴った結界となってピトンの行く手を阻んだ。
それでも、こんなことでひるむピトンではない。
「コクリコ!目を覚ましなさい!
戻ってきなさい!
あなたにはまだ、あなたのことを思っている人たちがいるのよ!」
「止めよ怪人!
守護者となったはずが、世界を不幸にしようというのか!」
「誓ったんだよ、コクリコのママになってあげるってね……!
忘れていたのなら教えてあげるわ、ノートルダム卿。
母親ってのはね、たとえ世界全てを不幸にしてでも、我が子だけは幸せであって欲しいと願うものなんだよ!」
雷鳴さえ轟こうというほどの電撃を受けてなお、ピトンは苦痛の声一つ上げずに結界を突破しようとする。
ノートルダム卿はおそらく魔術でリボルバーカノンを発動させるつもりのようだったが、ピトンの動きを驚異と感じたか、ピトンへ向けて電撃を放った。
「ピトン!」
「私のことより!あなた達もコクリコに呼びかけて!
ノートルダム卿を止めても、コクリコが帰ってこなければ意味がないの!」
過去のいきさつを全て忘れてピトンを助けに飛び込もうとしたグリシーヌだったが、母の視線に気圧されるものを感じた。
「グリシーヌ、あなたの戦斧を貸して」
「花火、それは……!」
花火が取り出したのはトリコロールにも似た旗だった。
真紅と海青、深緑と漆黒に挟まれた間に巴里華撃団のエンブレムが描かれている。
その間は、空白に見えてその実、白ではなかった。
巴里華撃団における少女の識別色にして、
白に、ほんのわずかに、だが確かな朱を落とし染めた、
少女の愛した男の母国をその学名に冠する鳥を象徴して呼ばれる、
朱鷺色。
「さあ、立ち上がるのだコクリコ!
もう泣くのはいいだろう、私もお前も!」
「私たちのたどってきた道は決して平坦ではありませんでした。
でも、そこで止まっていては駄目だと、私たちは大切な人に教えられたはずでしょう!」
「今思い出したんですけど、わたしたちはあのときからずーっと友達でした。
神は友を護れと仰いました。さあ、一緒に帰りますよ!」
「おうおう綺麗事並べてくれて。アタシはとにかくやりたいようにやらせてもらうよ。
とりあえず帰ってこいクソガキ!思いっきり叱ってやるよ!」
その五色の旗をグリシーヌの戦斧に括り付け、巴里華撃団花組を謳う四人が掲げ上げた。
五色のうちの四色が、四人の霊力で色鮮やかに輝き、その中央にして副隊長たる者を呼ぶ。
ここに来いと、戻って来いと。
変化はまず、寺院の外で起きた。
雲の間から差し込めた朝日に照らされたマロニエの木々、すなわち巴里の守護者となったオーク巨樹の子たるカラミテたちが、翔び上がる小鳥たちとともに枝葉を鳴らして歌を唱い、この季節にはあり得ざる花々を一斉に咲かせたのだ。
それは母たるオーク巨樹が、司祭にして遙かな子を励ますように、小さな、しかし無数の花々がその生ける力を少女の友が掲げる旗に送り込んだ。
その様、まさに威風堂々。
「コクリコさん、貴方にとっては、大神さんはかけがえのない人でした。
それはきっと私たちの誰にとっても。
でも、大神さんがいないだけで、この世界に意味がなくなってしまうんですか。
私はもう、何があっても命を捨てることは出来ません。
こんなにも素晴らしい、巴里華撃団の中で、生きているんですから!」
四人が掲げる旗の一振りとともに、三重の結界の外側が砕けて消えた。
全身を焼かれながらもひるむことなく次の結界をこじ開けようとするピトンを、ノートルダム卿は愕然とした表情を必死で立て直して止めようとする。
「もはや貴殿の負けだノートルダム卿。
夢も、希望も、何かを欲しいと思うから生まれるのだ。
それがない明日になど生きて何になる!
この巴里華撃団において、私たちは夢と希望と明日を貰った。
コクリコ!そなたの幸福はなお消えずにここにある!」
俯き続けていた少女の顔が、かすかに上向こうとする。
ピンと立った耳は、少女が友の声を聞いていることを明らかにしていた。
「それが正義か。
そんなものが正義か。
人が不幸でいても、自分が幸せであればいいのか。
そんなものが、正義か!」
「ええ正義です!
人が本当の幸せを求めて戦うのなら、それは正義なんです!」
かつてコクリコが神様と評したほどの神々しさを湛えたエリカの声に、ついにノートルダム卿はその場に膝をつき、倒れた。
緩んだ第二の結界を、ピトンは我が身を以てこじ開ける。
その後に、花火と手を繋いだグリシーヌと、エリカと手を繋いだロベリアとが、共に手にした御旗が続き、最後の結界が打ち崩された。
ついにコクリコの元にたどり着いたピトンは、迷うことなく玉座に座ったコクリコを抱き上げて、抱きしめた。
「長らく待たせたわね、コクリコ。
やっと、約束を果たしてあげることができるわ」
ピトンの腕の中で、コクリコの尻尾が縮んで消え、髪の間から覗いていた耳が消えていつもの耳に戻った。
そして、倒れていたはずのニャンニャン隊長がいつもの大きさに戻ってとことこと歩いてきて、ひょいとコクリコの身体に溶け込んだ。
続いてニャン太が、ニャンイチローが、先の間で黒こげになっていた38体のニャンニャン軍団が、次々と帰るようにコクリコの身体に溶け込んでいく。
さらに、リボルバーカノンに充填されて発射寸前だった10体の巨大ニャンニャンは、虹色の光となってシャンゼリゼ通りから巴里の四方八方へと溶けていった。
その一部が、ノートルダム寺院にも届き、
「……ママ?」
コクリコが、ピトンの胸でうっすらと目を開けた。
「おかえりなさい、コクリコ」
「ママ……、カルチェラママ……」
最初は呆然と、次に夢ではないことを確かめるように。
呼びかけた自分の声にしっかりと頷いてくれたことを確認して、
「ママ!ママ!ママ!」
コクリコは、ピトンにすがりついてその場で泣きじゃくった。
嫌われることが怖くて、捨てられることが怖くて、決して本気で泣くことが出来なかった少女が、12年の生涯で堰き止め続けてきた涙の全てを流しきるように、声を高く高くあげて、泣いて泣いてひたすらに泣いた。
そして、ようやくにして泣きやんだとき、
「もうよいか、コクリコ」
ノートルダム卿が、憔悴しきった顔で尋ねてきた。
「ノートルダム卿、あなたまさかまだ……」
「いや、コクリコの命を使おうとした私のせめてもの罪滅ぼしをしていたのだ。
まもなく私の魔力が尽きてこの空間を支えきれなくなる。
早くここから逃げるがよい」
そういえば、この空間は本来ありえない空間を膨大な霊力によって拡張したものだった。
彼の言葉を証明するように、床全体がぐらりと揺らいで樹根で形成された壁が波打った。
「って、こりゃ冗談じゃなさそうだね!」
「ノートルダム卿、そなたはどうするのだ!」
「もとより寿命の見えたこの身体……おまえたちと戦うまでもなく朽ちていたであろう。
それが、ほんのわずか縮んだだけのこと……気に病むことはない」
「その言葉、閉幕の合図と心得た」
どこかで聞いたような声がしたかと思い振り返った一同の前には、シゾーとコルボーの二人がいた。
そして、あの巨大蒸気獣セレナードも。
何やら翼に補修の跡が見える。
シゾーとは復活した後でも、以前に一度会っているがさすがにこれにはピトン以外の全員があっけにとられた。
「さあみんなとっとと乗るピョンよ!」
「公演の後始末は速やかに。役者を務め終えた者は速やかに舞台より退場せよ」
「二人とも、恩に着る。
さあコクリコ、乗るんだよ」
「は、はい!」
エリカたちがあっけに取られている間に、シゾーは次々とエリカたちを捕まえてはセレナードに乗せていった。
「ええい、どこを触っている!」
「うるさいピョンよ。さあこれで全員乗ったピョン?」
「あー、ウサギさん、まだですまだです!
ノートルダムさんも助けて下さい!」
「へ?」
エリカの意外な申し出に今度はシゾーの方があっけにとられたが、エリカが当然という顔をしているのでシゾーはへいへいと従ってノートルダム卿も回収した。
「では、公演の大道具たちよ、ご苦労であった!」
重力崩壊を起こして消失し行く寺院内の異空間を切り裂いて、セレナードは朝日が照らすシテ島へと戻ってきた。
さすがに朝日の中で目立つこともあって、セレナードは乗せた面々をすぐに寺院前の広場に降ろす。
「なぜ私を助ける……」
今なお信じられぬという顔で、ノートルダム卿が朝日に目を細めつつエリカに尋ねた。
もしかしたら、エリカが神々しかったのかもしれない。
「わたしは世界全てなんて救えません。でも今目の前にいる友達は絶対助けます」
「ほう、言うじゃないか誰の言葉だ?」
「何を分かり切ったことを言うロベリア。今、エリカが言った言葉だろう?」
「ハッ、違いないね」
この底無しのバカは、時折途方もなく真実を告げることがあるのだと、ロベリアは不本意ながら、しかし笑いながら認めた。
「私を、友達と呼ぶか。光翼の天使よ……」
「ミッシェルさんは私たちのショウをご覧になったんですよね。
つまりミッシェルさんは私たちのお客様です。
お客様はみんな友達です。
何かおかしいですか?」
「……勝てぬわけだ……見事なものよな、大神一郎……」
かつて彼が、第二のキリストとなることを望んで迎えに行った京極慶吾をすら倒した、黒髪の貴公子。
彼が育て上げたこの巴里華撃団花組は、こんなにも幸福にあふれたものだったとは……
ノートルダム卿が我知らずこぼした涙は、己が敗北と過ちを認める、訣別の涙だった。
初出 平成十七年一月三日 SEGAサクラ大戦BBS
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