夕闇が落ちたノートルダム寺院周辺は静まりかえっていた。
普段ならば夜になっても観光客もなかなか絶えることがない場所である。
だが、今は静まりかえっていた。
勘の良い者ならば、もしかしたら遠因に思い至ったかもしれない。
ノートルダム寺院周辺の空気はひどく張りつめていた。
いつもと変わらない外観の寺院が発する、途方もない存在感によって。
だが、今はそれに気付く者は極めて少ない。
五体目の巨大ニャンニャンが出現した影響で、その本来の原因がある寺院に近づこうという敵対行動を取ること自体が、ほとんど不可能になっているのだ。
その多数の巨大ニャンニャンによる幸福感と、結界とも言うべき存在感とを、生身で破って寺院に接近する影があった。
巴里華撃団の面々ですら、光武に守られていなければ突破することは難しいところを。
それは、ただの人間に出来うることでは無かった。
巴里には似つかわしくない中東風の服を纏った影は、二本の足で駆けているというのに、その動きは俊敏な蛇にも似ていた。
人間でない、すなわち、この巴里には人間ではない存在が確認されている。
「ここまでだ、ピトン」
突進する影の行く手を阻むように、スーツを纏った巨躯が寺院の前に姿を現した。
人間離れしたその巨躯の頭部は、やはり人間のそれではない、精悍な獅子であった。
前年に巴里華撃団の前に立ちはだかり、敗れて死んだ獅子の怪人、レオンに他ならない。
そのレオンが止めた相手は、ヴェールの下の顔は穏やかな美女のそれであるが、見る者が見れば気付いたであろう。
レオンと同じく、巴里華撃団に敗れて死んだ蛇の怪人ピトンであった。
かつては共にカルマール公爵に仕えた二人であるが、対峙する二人の間で交わされる視線はあまり友好的なものではなかった。
「此度の件、手出しは無用とコルボーが伝えたはずだがな」
「説明する必要があるのかしら。
私の考えがわかっているからこそ、貴方は今ここにいるのではなくて?」
その答えすら予想していたのか、レオンは巨躯に似合わぬ小さなため息をついた。
「ピトンよ、忘れるな。
今の私たちは巴里の守護者なのだぞ。
大司祭にしてパリ公爵たるカルマール様の名代として命ずる。
ノートルダム卿の為そうとすることは巴里とフランスのためである。
我らが邪魔をすることは許さぬ」
「いいえ、貴方は忘れているわ。
オーク巨樹が私たちの母であることを」
殺気すら滲ませて、説得というよりは脅迫に近いレオンのもの言いは、言葉だけでは従わせることが難しいと察しているからに他ならない。
その刃のような言葉に、ピトンは気力を振り絞って反論する。
「……ならば、力づくで止めねばならんか」
ピトンに対して真っ直ぐに相対するように立っていたレオンは、左足を前に出し、半身を傾けつつ、両手を構えた。
直立しているとはいえ、それは獲物を狙う肉食獣の姿に他ならない。
最後までカルマール公に仕えたレオンは、五人の怪人の中でも直接的な能力は最強と言われていた。
事実、ピトンはカルマール公の旗下にいた折に数度手合わせしたものの、レオンから一本も取れたことはない。
シゾーやナーデルも同様であった。
おそらくコルボーでさえ、レオン相手には幻術を駆使して一本とれるかどうかであろう。
それ故に、現在はカルマール公の名代を務めているのだ。
特に恐るべきはその攻撃力だ。
カルマール公亡き今、蒸気獣は無く、生身でレオンの攻撃を受ければただでは済まない。
相討ちでは困るのだ。
ピトンにはこの後、やらねばならぬことがある。
ならば、レオンの攻撃を受けるより早く、彼を倒すしかない。
「ええ、貴方には悪いけど、力づくで通させて貰うわ」
ピトンは長衣を脱ぎ捨て、サンダルも脱いで、その一撃に集中する。
牙のごとく研ぎ澄まされた右手の先端に、闇を引き裂くほどの霊力がみなぎる。
「では、見せて貰おうか。そなたの覚悟の程を」
隙を見つけようなどと、悠長なことをやっている余裕は無い。
待っていれば、レオンに圧倒されることはわかっている。
ピトンは全身を牙として、真っ正面から一息に突撃した。
その動きに、一瞬も遅れることなく、レオンも地を蹴った。
こちらも小細工など無し。
「やあああああああっっっ!!」
「はあああああああっっっ!!」
稲妻。
高められた霊力の交錯は、もはや火花などとは呼べない、耳をつんざくほどの雷鳴を伴った稲妻となって、幸せ気分に浸る巴里の夜を裂いた。
その光が晴れた時、二人は一瞬前に相手が立っていた場所に立っていた。
わずかの間の後、膝を突いたのはレオンの方であった。
「ふ……カルマール公の御下にあったときは、おまえに一本とられることなど無かったはずがな……」
「レオン……」
全力で攻撃したものの、元より憎悪など欠片も無い相手である。
その身を案じてピトンは振り返ろうとしたが、
「振り返るな!」
他ならぬそのレオンに一喝され、その動きを半ばで止めた。
「心配するな、貴族はこの程度では死なん。
巴里とフランスを思う私よりも、たった一人のわが子を思うそなたが強いと言うのなら、最後まで倒れることなく、それを証明してみせよ……!」
「ありがとう、レオン……!」
言われた通りに振り返ることなく、ピトンはノートルダム寺院の中へ突入していった。
その姿が消えるのを確認したようなタイミングで、その場にもう一つの影が現れた。
かつてとは服装が全く変わって地味になっているが、その美貌は変わっていない。
同じくカルマール公の旗下にいた蠍の怪人ナーデルである。
「まったく、格好付けるわね、あなたは。
貴族と体力は関係ないと思うんだけど」
「ふ……ピトンを慮って姿を見せなかったお前に言われる筋合いは無いぞ、ナーデル」
「はいはい、文句を言うなら手当しないわよ」
しないわよと言いつつ、準備よく用意していた救急箱を取りだし、ナーデルは手際よくレオンの傷の手当てを進めていく。
「お前がここに来ているということは、シゾーとコルボーも来ているのだな」
「ええ、もちろんよ。
気になるに決まっているじゃない」
「確かに、な」
そう言って、ノートルダム寺院を振り返る。
数百人からの人間がいて、巴里華撃団も突入したはずの寺院は、この激突にも静まりかえっている。
「見守ろうではないか。
我らの同胞の戦いをな」
ニャン太とニャンイチローの案内が無ければ、おそらくまともに進むことは出来なかっただろう。
膨大な霊的質量によって空間座標が歪み、拡張されたノートルダム寺院の内部は、本来の建物とは別の空間を内包しており、その中枢に至るまでの道は迷宮さながらになっていた。
しかもその迷宮の壁や床を形作っているのは、絡み合った大量の樹根だった。
その形といい、この場所といい、その姿からは否応なくオーク巨樹のことを連想させられた。
あのときもコクリコは最深部にいた。
違っていることは、あのときに居た一人の男がいないこと。
そして、立ちはだかる者も違っていた。
「来たニャーン!」
「にゃー!にゃー!巴里華撃団の諸君に警告するニャン!」
「ここから先に入ると危険ニャン!どれくらい危険かと言うととっても危険ニャン!」
「この先にあるのは猫の王国、グレイテストキャットフードニャン!」
「入ってしまった人間は全て肉球が出来てしまうニャン!」
「ついでにヒゲも生えるニャン!」
「それって便利なだけかもしれないニャン!」
「宣伝してどうするニャン!」
「さあみんな、森へ帰るニャン!」
「ひげよさらばニャン!」
降魔の真逆。
幸いの化身。
人語を話し、莫大な霊力を備えた上級ニャンニャンたるニャンニャン軍団が、
かつては共に肩を並べて怪人たちと戦った者たちが、今は巴里華撃団の前に立ちはだかった。
その大きさは普通の猫とほぼ同じであり、光武F2と比べると踏みつぶせそうなほどにしか見えない。
だが、寄り集まった彼らの愛らしさをカメラ越しに見て、踏みつぶすことはおろか蹴飛ばすことさえ、ロベリアにすら不可能であった。
直接的な幸せ気分のほとんどは、霊子甲冑が纏うシルスウス鋼のおかげで辛うじて防いでいるものの、視界を捉えるためのカメラを通したその姿だけで、敵対的行動のほとんどを封じてしまった。
「か……かわいい……っ!」
押し殺したようなグリシーヌの叫びは、ロベリアやエリカにとっては本来よろこんで指摘するはずのネタであるのだが、二人ともそんな余裕は無かった。
「きゃああああ!猫さんたち、プティです!キュートです!」
全面的に影響を受けていそうな状態だというのに、未だ霊子甲冑を操っているエリカの精神構造は一体どうなっているのだろうか、とりあえずその場の誰にもわからない。
一方のロベリア機は、左右の腕に装着されたシザーハンズに喜んだニャンニャン軍団が、光武F2に肉球を取り付けるべく取り囲み、身動きすらままならなくなっていた。
「さあ行くニャン!皆の衆!」
「猫の神大明神、爪の神大明神、大地の神大明神ことオーク巨樹よ、今ここに、ロベリアに肉球を与え給えニャーン!」
「げっ!!」
魔術というべきなのか呪術というべきなのか。
何ら正統な術式を踏まえたものでもないのに、とにかく集う面々の霊力が莫大であるため、デタラメ極まりない儀式が現実に効力を持ってしまう。
禍々しいとすら言える外観を保つロベリア機の両手に、物質化した霊力で形成された肉球が出現してしまった。
しかもそのぷよぷよ感と言ったら、内部で操縦しているロベリア自身が片手のシザーでもう片方の手の肉球をつつきたくなるほどなのだ。
「ぐ……まずい……なんて……奴らだ!!」
確かにグラン・マの推察通り、今の彼ら一匹一匹は、上級降魔にさえ匹敵する存在になっているのだろう。
しかし、いくら日本人の大神が名付けの元になったからといっても、この和洋折衷どころではない行動パターンはもはや理解の範疇を超えていた。
「みんな止めるニャン!ここで戦ってどうするニャン!」
ニャン太が声を限りにして叫ぶが、ニャンニャン軍団たちは朗らかに冷ややかだった。
「いや、別に戦ってないニャン」
「遊んでるだけニャン」
「ニャンニャン隊長の指示通りニャン」
「というわけでニャン太も一緒に遊ぶニャン」
ニャン太は、既に自分がニャンニャン隊長を止められなくなっていることを改めて思い知らされていた。
普段ならば頼りないニャンニャン隊長の代わりに、実質的なまとめ役をしているニャン太の言葉の方が優先されるのにだ。
霊子甲冑の防御があってなお、ニャンニャン軍団は巴里華撃団を圧倒しつつあった。
その怒濤なまでの幸せ気分を、鋭い声が押しとどめた。
「花火くん!鏑矢をニャン!」
「は、はい!」
言わずと知れたニャンイチローの声だ。
だがその声が連想させるものの、なんと皮肉で、残酷なことか。
言われた花火も、他の巴里華撃団の面々も、ニャンニャン軍団の皆も、その言葉に一瞬ならず動きが止まった。
その間に、最も早く我を取り戻した花火は、矢筒から光武用の鏑矢を取り出して弓に番え、深部へ向けてひょうと放った。
空を切り裂く鋭い音が走り、光武の中にいる四人はともかく、生身と言えば生身のニャンニャン軍団が耐えきれずに耳を押さえてぎにゃあと叫んで転げ回った。
……ニャン太とニャンイチローも一緒に。
「ええい、ともかく今がチャンスだ!
どけ猫畜生ども!」
かわいければどうだっていいじゃん、とはよく言ったものだ。
敵意を振り絞って毒舌を振るわなければ、対抗することすらままならなくなってくる。
ロベリアはこれだけの悪口を言うだけで、恐ろしく精神力を消耗させられた。
だが恐るべきは上級ニャンニャンたちであった。
立ち直りが驚異的に早い。
「猫畜生とはひどいニャン!」
「天は人の上に猫を作らず、人の下に猫を作らないニャン!」
「モンテスキューの法の精神に基づき、基本的猫権を主張するニャン!」
「ルソーの社会契約論に基づき、基本的猫権を主張するニャン!」
「マグナカルタに基づき、基本的猫権を主張するニャン!」
コクリコがここまでの内容を知っているはずがない。
これらの実にどうでもよい知識の数々は、上級ニャンニャンたちが巴里全土から集まった霊力を受けていることの証左でもあった。
すなわち、既に配置されている巨大ニャンニャンから、ひとときも休むことなく彼らニャンニャン軍団に霊力が供給されているのだった。
「おまえらはフランス出身だろうがああ!!」
もはや、叫ばなければ対抗することもできない。
必殺技を放つなどとてもではないができる状態ではなかった。
ロベリアは全身の霊力を振り絞って敵意を作り出し、とりあえずマグナカルタと言った英国かぶれの一匹を蹴っ飛ばす。
リボルバーカノンに生身で打ち出されても目を回すだけだったニャンニャン軍団だから、この程度ではきゅう、と気絶するだけだろう。
「あああ!ひどいニャン!」
「暴力反対ニャン!」
「恐怖政治のロベスピエールは断頭台の露と消えたニャン!」
「エジプトから続く四千年の猫の歴史がニャンニャンたちを見ているニャン!」
「黙るがよい!そなたたちが守るは誰ぞ!」
次いでグリシーヌが、衰えぬ戦意を限りに振り絞って叫び返した。
ロベリアが対抗したことで、直接にこの至近距離でニャンニャン軍団に供給される幸せ気分が相殺されていることもある。
さらにグリシーヌが対抗したことで、かすかにニャンニャン軍団の放つ霊力が衰えた。
これなら、突破できるか。
一番幸せ気分に染まりまくっているエリカをかばうように、ニャンニャン軍団との間に立ったロベリアは、巴里中の悪党どもを後ずらさせるドスの利いた声で言い放った。
「どきな、おまえら……!」
「ひいいいい、人間の声じゃないニャン!」
「心の奥底まで悪魔になってしまってるニャン!」
「きっとラスボスになり損なった人間ニャン!」
ひるんだ。
彼ら自身が恐怖を覚えたことで、さらに幸せ気分が弱まった。
手が動く。
操縦桿を動かせる。
「行くぞ、花火!突破する!」
「付いてこい!ニャン太!ニャンイチロー!」
だが、移動に転じてからわずか数秒。
さらに新たな巨大ニャンニャンが外に出現したのだろうか。
ニャンニャン軍団はあっという間に立ち直った。
「げっ!」
「急げ!」
「通さないニャン!こうなったら秘密へーきの登場ニャン!」
がしょん、と。
ようやくの体でニャンニャン軍団を突破したかと思われたロベリア機とグリシーヌ機の前に、紅蘭の光武さながらの色をしたニャンニャンが姿を現した。
「あれは……!」
「メカニャンニャンじゃねえか!!」
帝国華撃団が世界に誇る天才科学者李紅蘭女史の手による、四十二体目の、番外たる蒸気機械のニャンニャンであった。
ボディは最新の霊子甲冑双武と同じ強化シルスウス鋼製。
改良型まことくん蒸気論理回路を搭載し、真偽判断によって状況に適した行動を半ば自立的に行うことができる。
「ハムラビ法典に従い、霊子甲冑には霊子甲冑ニャン!」
少なくともメカニャンニャンは霊子甲冑の定義外である。
魔操機兵の定義にならあるいは入るかもしれないが。
だが、その作戦は確かに間違っていなかった。
「目標確認ニャン。
コレヨリ撃沈ニャン」
メカニャンニャンは口からぽこっと直径20センチほどの球体を取り出した。
正五角形と正六角形を組み合わせたその形は、イングランド発祥の球技、フットボール用の最新ボールを彷彿とさせる。
メカニャンニャンがそのボールを蹴ったとたん、そのボールは大神の光武F2さながらに推進剤を爆発させて、固まっていたロベリアたちの光武F2に迫った。
幸せ気分に対抗することを第一に考えていた前衛の二人は、そのボールを避けきれなかった。
「しまった!」
「やべえ!」
ロベリア機は右腕部分の装甲をはじき飛ばされ、さらにボールはグリシーヌ機の盾をかすめて左脇の装甲を削って、背後の壁を突き破った。
この一撃は、致命的なものだった。
物理防御に言えば、装甲の一部が飛んだだけで、それほどの大きなダメージではない。
だが、全身をくまなく覆っている霊子甲冑のシルスウス鋼による防御構成がはじき飛ばされたということは、その防御の隙間から、幸せ気分が機内に流れ込んでくるということになる……!
「さあ、みんな猫になるニャン!」
「食べるニャン!」
「寝ころぶニャン!」
「ゴロゴロするニャン!」
まるで午睡に落ちるかのような幸福感が、戦闘意欲を燃え上がらせようとしていた全身を休ませる。
グリシーヌ機とロベリア機の足が止まった。
まるで光武がその場に眠り込むかのように膝から崩れ落ちる。
後に続こうとしたエリカ機と花火機も、まさか光武一体をまるごと持ち上げて動くことは出来ない。
ニャン太とニャンイチローにしても、それは同じことだ。
動きが止まった今、至近距離でぐるりと囲まれては、霊子甲冑の防御があってもニャンニャンたちの霊力を防ぎきることは出来なくなっていた。
「みんな……いけない……っ!コクリコさんを……!」
「心配はいらないニャン……」
コクリコの名を叫んだ花火機の前で、ニャンニャン軍団の一匹……花火も名前は覚えていない……が静かに語りかけた。
「コクリコは、幸せですからニャン」
花火は、愕然となった。
まるでその言葉は、コクリコ自身が告白しているように聞こえたからだ。
「そんなことは、ありません……!
よくわかりませんけど、今のコクリコの言うことは間違っています……!」
そう叫んだのは花火ではなく、エリカだった。
彼女はニャンニャンたちの正体は知らない。
コクリコの過去も詳しく知っているわけではない。
何かを理解しているわけではない。
それでも、何一つ躊躇いなく、それが絶対の真実であると確信して、エリカは叫んだ。
「間違っていても……もう、いいんですニャン」
エリカの言葉に圧倒されたその隊員……実はニャン左衛門という……は、ふるふると首を横に振って言った。
巴里華撃団を見つめる三十八匹+1匹のニャンニャン軍団は、等しく静かな目で、無邪気であるのに、何か諦めたような目で、そこに佇んでいた。
それでも、放つ霊力が緩むことはない。
「ああ……っ!」
眠るまいとして、唇を血が滴るまで噛みしめていた花火であったが、ついに操縦桿から手が落ちた。
「おやすみニャン」
「さよならニャン」
ニャンニャン軍団が揃って一礼した。
そこへ、リボルバーカノンのような勢いで突っ込んできたものがある。
「何ニャン!?」
「敵襲かニャン!」
弾丸に思えたそれは人影だった。
ニャンニャン軍団のわずかに手前、巴里華撃団と肩を並べるようにして立ったその人影が、バサリと、ヴェールを脱ぎ捨てて露わにした顔を見た瞬間、花火は眠気が吹っ飛んだ。
「ピトン!」
「何!?」
「なっ!?」
「えええええっっっ!?」
あまりに意外なその名前を聞いて、エリカたちもさすがに目が覚めた。
「下がりなさい、あの子の子供たち」
蒸気獣にすら乗っていないというのに、ピトンはニャンニャン軍団の影響をまるで感じさせない強い口調とともに、三十八匹+1匹のニャンニャンたちを睨め付けた。
「ニャ!?」
「何ニャン!?」
ニャンニャン軍団が愕然となったのも無理はない。
平伏させられたのだ。
俗に言う、伏せ、である。
ピトンの視線一つで、幸いの化身であるはずのニャンニャンたちが、まったく逆らうことが出来なくなったのだ。
これは、オーク巨樹の司祭であるピトンの持つ特殊能力である。
かつてコクリコの前に初めて現れたとき、ピトンはこの能力でサーカスの猛獣たちをあっさりと手なずけてドニクールに取り入ったことがある。
いかに幸いの化身とはいえ、ニャンニャンたちはやはり猫なのだ。
オーク巨樹の司祭たるピトンの力が上回ったということだろう。
いや、もしかしたら別の力なのかも知れないが。
「私たちを倒したくせに、何をこんなところで苦戦しているの。巴里華撃団」
次いでピトンは、微かに振り返って四体の光武を睨め渡した。
その瞳には、敵意ではない、導くような怒りがあった。
パリシィの年長者として、あるいは、かつての敵対者として。
「何故……何故お前がここにいる!生きている!」
我を取り戻したグリシーヌは、まず真っ先に抱いた疑問を声にして、戦斧を握りなおした。
まずコンコルド広場で一度。
そしてカルマールにより復活させられた後、エッフェル塔でもう一度。
ピトンは二度、死んでいるのだ。
生きているはずがない。
今はもう、カルマールのように、復活の奇跡さえ起こすような強大な怪人はいないはずなのだ。
それなのにここにピトンがいるということは、もしかしたらノートルダム卿は怪人たちを復活させて手下としたのではないかとさえ考えたのだ。
だが、叫んだ後で考え直した。
ノートルダム卿の手下であるはずがない。
手下になっているのはニャンニャンたちであり、彼女は今、そのニャンニャンたちから巴里華撃団を守ってさえくれたのだ。
「話は後だよ。
今は、コクリコを助けることが先だ。
そうじゃないのかい」
「あ、ああ、そうとも!」
「ああ、てめえに言われるまでもねえ!」
ニャンニャンたちが平伏したことで、流れ込んでくる幸せ気分が緩み、四体の光武F2は再び立ち上がった。
ついでにエリカは、相対するニャンニャン軍団たちと一緒に平伏させられてしまったニャン太とニャンイチローを抱き上げて、両肩に一匹づつ乗せた。
エリカの機体は両方に翼があるのでずり落ちにくいのである。
「い、行かせないニャン……」
「ここを通すわけには、いかないのニャン……!」
「メカニャンニャン!頼むニャン!」
そう、メカニャンニャンは猫型蒸気獣……ならぬ猫型蒸気であるため、オーク巨樹の司祭であるピトンの能力の一切が効いていなかった。
ニャンニャンと違って幸せ気分を発することはないが、あの紅蘭が製作し、シャノワール整備班がよってたかって面白がってパワーアップさせた機体である。
どのような力を秘めているのか、誰にもわからなかった。
「待っている時間は無いんだ、いくよ!」
ピトンはその恐ろしさ……特に紅蘭の恐ろしさを知らないこともあるが、焦りとともに踏み込んだ。
「リミッター解除。
アンタガ主役ヤデ回路発動スルニャン」
メカニャンニャンの両前足がぱかっと手首……と言っていい物やら……から外れ、そこからけたたましい破裂音とともに飛び出したものがピトンの眼前で膨れあがった。
「何なの……これは!」
それは、あの小さなボディのどこに納められていたのか大変理解に苦しむほど膨大な量の万国旗だった。
レオンさえ倒した突進であっても、届く前に止められてはどうしようもない。
そのまま紐に絡まって、ピトンは盛大にスっころばされてしまった。
「蒸気南京タマスダレ、ハリセンモードニ変形スルニャン」
次に、外れた両手首が分解して南京珠簾になり、それがいかなる仕組みか変形して、日本は関西人の主武器たるハリセンに変形した。
正体がわかったのは花火一人であるが。
「いけません!あれを受けるとおそらく問答無用で従わされてしまいます!」
「何!」
脆弱な武器と見て、光武F2のボディで受けつつ強行突破しようと思っていたグリシーヌは、危ういところでその攻撃を盾で受け止めた。
「そんな武器ありかよ!」
もう一方のハリセンをスレスレでかわしつつ、その攻撃の鋭さに、ロベリアも近づけずにいた。
そうしてかわしている間に、メカニャンニャンの背中からにゅにゅっとパイプが伸びて、樹の枝状に展開していき、何十もの先端全てに日の丸扇子が開いた。
同時に、バランスが悪くなった身体を支えるために両脚がそれぞれ二つに割れ、それぞれが展開して合計四つの車輪になった。
底部が広がったことで安定感が増し、さらに上半身と頭が拡張した。
その姿はまるで、
「山車形態ヘ移行。
宴会ハ中盤ヘ移リマスニャン」
巴里華撃団の面々は誰も知らなかったが、メカニャンニャンのこの変形は、かつて紅蘭が極秘裏に開発していた宴会用蒸気機械、えんかいくん大王の機能をさらに強化させたものだった。
ちなみに帝撃の記録によると、初期型えんかいくんの段階で、既にボケ・つっこみ双方向思考型蒸気演算機を搭載しており、ボディは16通りに変形可能であった。
その次世代機であるえんかいくん大王は、蒸気演算機を二基搭載しており、ボディは64通りに変形可能となっていた。
このときに、アンタが主役やで回路が搭載され、勝手に芸がどんどん強烈になっていく仕様に変更されている。
その後継機でもあるメカニャンニャンの機能たるや、もはや完璧に常軌を逸したものであった。
「帝撃ビーム発射ニャン!」
猫でいえば鈴を付ける首もとの部分に、何百もの小さな鏡が合わさった球体が出現し、その球体から七色の光線が幾百と発射された。
直接攻撃力は無かったものの、光量が強すぎて、光武F2のカメラに搭載された光量フィルターが焼かれてブラックアウトしてしまった。
これは、目を奪われたに等しい。
「勝ったニャン……」
「これで、終わりニャン……」
「いいえ、まだです」
花火はカメラがまったく使えない状態で矢をつがえて、その先端を正確にメカニャンニャンに向けた。
花火機には、カメラとは別に、矢を必中させるための補助装置として霊子照準器が設けられていた。
元より弓矢の達人である花火の技量と、霊子照準器とを十二分に駆使すれば、
「済みません、メカニャンニャンさん。
……御覚悟」
放たれた一矢は、正確にメカニャンニャンの光線発射ボールを貫き、喉元に突き刺さった。
ピタリと、メカニャンニャンの動きが停止する。
「エーカゲンニセエボタンオンヲ確認。
皆様、オツキアイ下サリアリガトウゴザイマシタニャン」
「あ、しまったニャン」
ちゅっどーんんっっ、とまあ、えらく景気のいい爆発音とともに、メカニャンニャンは猛煙を上げて爆発し、元の大きさに戻って、こてん、とその場に倒れた。
ついでに、周辺全部を真っ黒焦げにして。
「……終わったのか……」
カメラが使えなくなったためやむを得ず、幸せ気分に浸る危険を覚悟で上部ハッチを開けて外に出たグリシーヌの前に広がっていたのは、揃って黒こげになり目を回しているニャンニャン軍団の姿であった。
「この場は、というべきよ。グリシーヌ・ブルーメール」
万国旗に絡まられていたために、爆発のダメージを免れたピトンが、万国旗の紐を咬みきってようやく抜け出てきた。
「……そうだな。
だが、理由はわからぬが、ひとまず我らはそなたに助けられた。
まずは礼を言わねばならぬ」
「律儀なのは嫌いじゃないけど、礼には及ばないわ。
あの子を助けるために来てくれたのはお互い様なのでしょう」
「やはりそうなのか。
どのように蘇ったのかはわからないが、お前たちは既に巴里に徒なす存在ではなくなっている……」
「あなた達、以前にシゾーと会っていたんじゃないの?
彼はあなたたちに懲らしめられたとか言ってたわ。
彼が生きていて私が生きていてはおかしい?」
そういえば、去年の年末ごろに、新進気鋭のデザイナーモンストルとして巴里でちゃっかり新生活を始めていたシゾーと会っていた。
悪戯癖だけは治っていないようで、巴里華撃団花組総出で懲らしめたのだが、以前のような悪ではなく、まっとうな社会生活を送っているようだった。
あまりに自然過ぎて、生き返ってきていたことを問い詰めるのを忘れていたくらいに。
「はあ……意外とあなたたちも抜けているわね」
グリシーヌの表情を見て、大方の事情を察したピトンはため息をつき、簡単に説明することにした。
このままでは共同戦線を行うにしても支障を来しそうだ。
「私たちの母たるオーク巨樹が巴里の守護者となったときにね、私たちと違ってまだ復活の経験がなかったカルマール様はオーク巨樹の新生とともにお命を取り戻されたんだよ。
だけど偉大なるカルマール様は、もはやご自分の時代が終わったと判断され、そのお命を私たち五人に分け与えて下さったのよ。
私たちに、巴里の守護者たれとのご命令を残されてね」
「いや、そんなはずはない。
私たちはあの後一度カルマールを倒した後に、復活したカルマールとさらに一度戦ったのだぞ」
「詳しくは私も知らないけどね、あのお方は元々お命を二つお持ちだったらしい。
お前たちと戦ったときには、復活したのではなく、一度死んだだけだったんじゃないのかね」
そんな馬鹿な、と言いたいグリシーヌであったが、あのカルマールならばそんな非常識な話もありえなくは無さそうな気がした。
とりあえずカルマールはおらず、かつての敵であったピトンがしっかりと味方になってくれることは間違いないようだ。
「ああクソ、整備班の奴ら、あんなとんでもない機体の整備しやがって、後で覚えてやがれ」
悪態を付きながらロベリアがハッチを開けて姿を現し、あとの二人も光武から出てきた。
花火にしても、霊子照準器で進撃は出来ない。
「さて、無駄なおしゃべりはここまでにしておきましょう。
今はコクリコを助けにいくのが先よ」
「あと一つだけ教えな」
駆け出そうとしたピトンの背中に、ロベリアが脅すように声をかけた。
「巴里の守護者ってのなら、ここに来ているのがお前一人ってのは変じゃないのか。
いや、巴里の守護者なんてご大層なお題目を掲げているなら、多分、ここには来ない。
お前は何で、ここにいるんだ」
ノートルダム卿の狙いが巴里を幸せにすることならば、巴里の守護者となった怪人たちの目的と合致する可能性の方が高いのだ。
ピトンがここにいることは、理にかなっているようで実は間違っている。
対する答えは、明確だった。
「あの子と約束したからよ。
ママになってあげるって」
初出 平成十七年一月三日 SEGAサクラ大戦BBS
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