「かつて私がこの場で霊子砲の使用を提案したとき、あなたは反対された。
ムッシュ・花小路」
「忘れてなどおらぬ。
そして、今も反対しておることは変わらぬ」
「だが、あなたもご覧になったはずだ。
巴里と帝都を救う一助となったその様を」
「それは認めよう。
確かにあれは帝都を救う一助となった」
「四百年の災害を怖れるお気持ちは理解できなくはない。
だが、やはりあれは純然たる力であるということも、今度こそ理解して頂けたのではないか。
破滅をもたらしたのはウジツナがそう望んだからだ。
我々が使えば四百年の災害の代わりに、千年の幸福を作り出すことができる」
「それだけの力を持った者が転落せぬはずがない。
かつてはあの田沼も青雲の志を持ってこの末席に座っていたものよ」
「転落も何も、あなたはこれが、人に不幸をもたらすとお思いか。
これはかの降魔の真逆。
あらゆる人間の悪徳から生まれた降魔とは正反対の存在だ。
ならば、人を悪しきに誘うどころか、人を天使にさえしよう」
とどめのようにその場に映し出されたのは、
およそこの世の物とは思えぬ猫。
丸く、ふくよかで、愛らしく、愛くるしく、
つぶらと言うにふさわしい瞳を振りまいて、
眠りに誘うかのようにくるりと巻かれた尻尾を揺らして、
見た者全てに思わせる。
かわいければどうだっていいじゃん、と。
降魔の真逆。
その存在を称して、彼ら賢人機関は、霊的ネコニャンニャン、と呼ぶ。
巴里はモンマルトルの丘。
きままな猫がどこへでも歩いていくのを象徴するかのように、いくつもの路へと通じる辻に面してその店はある。
シャノワール。
今や巴里の文化人たちが愛してやまぬその店は、オーナーこそ古くより知られた存在だったが、実は1925年の四月に完成したばかりのごくごく新しい店である。
それが1926年の新装開店を機に、あっという間に巴里随一の店へと駆け上った。
無論、それは実力ある踊り子たちが集まってきたことが大きく寄与している。
エリカ、ブルーアイ、マジカルエンジェルコクリコ、サフィール、タタミゼ・ジュンヌ。
今や巴里の社交界に彼女らの名を知らぬ者はなく、洒落を楽しむ巴里っ子たちは逃すところ無く後を追う。
だが、あまり知られていない事情もある。
そのオーナーの裏の顔が、陰に陽に、文化人という表書きを持ったある人々をこの店に通わせることになり、それが裏書きの無い文化人たちをもこの店に足を向かわせることとなった。
かつて巴里万国博覧会の世界舞踏祭で優勝に輝き、その後の灼熱ともいうべき二つの恋を欧州全土に轟かせたそのオーナーの名はイザベル。
彼女がかつて名乗った栄光のステージネームをまた、シャノワールという。
彼女こそ、世界平和を追求する賢人機関の一員であり、都市防衛構想の体現である巴里華撃団の司令官であった。
正式な会議ではない私的な打ち合わせや交渉の場としてシャノワールが用いられるたびに、どこぞの大臣が見に来たと、どこぞの皇子が見に来たと、噂になるたびにさらに店に箔が付く。
もっとも、箔など付かなくてもそれは既に純金であろう。
少なくとも、足繁く通う者たちはそう思っているに違いなかった。
「マジックショウが始まるよ!」
未だ幼さを残した愛らしい声がステージから客席いっぱいに広がる。
今日のステージはマジカルエンジェルコクリコだ。
12歳にしてステージを任される彼女のショウは、確かに魔法めいてさえ見える。
サーモンピンクを基調としたジャケットとシルクハットは、その中がまるで異界へと繋がっているかのように、鳩やリボンや万国旗、コインにハンカチ、それに三毛猫と、ありとあらゆる物を吐き出し飲み込む。
それは、霊力を炎として具現化できるサフィールことロベリアとは違い、鍛えられ磨き上げられた純然たる手品であるはずだった。
その、はずであった。
「え?」
微かに、ステージの外には決してこぼれない小さな驚きが、コクリコの口から漏れた。
お客さんの視線がおかしい。
もちろん、つまらないと言っているのではない。
コクリコのショウを見慣れた常連さんたちもが、わくわくした目で見ている。
その視線の動きがおかしいのだ。
マジシャンは見る人の視線を制御しなければならない。
それが、コクリコの意図した箇所とは違う箇所に、お客さんの視線が向いている。
そこには。
「ニャンニャン……?」
霊力のない人間には見えるはずのない、彼女の分身たちがいた。
ニャンニャン軍団。
光武Fコクリコ機のマジカルホーンを媒体として誕生した、コクリコの記憶と霊力より生まれた霊的ネコたち。
属性こそ逆だが、存在の仕方は魔物と同質の霊体であって、ある程度以上の霊力がある人間にしか見えない。
その特性を使って、帝都から巴里まで無賃乗船で帰ってきたりする。
隊長であるニャンニャンを筆頭に、今や41匹+1匹を数える軍団のうち、十数名までもが、ステージの後方で遊んでいた。
お客さんたちの目は、そこに向いていたのだ。
「どうして……」
一瞬、ほんの一瞬だけ、コクリコは呆然となった。
過去に、ニャンニャンたちがこっそりステージにのぼったことは、実は何度かある。
そのたびにグラン・マに怒られているのだが、今まではお客さんたちの目に止まらなかったので、大目に見てもらえていたのだ。
それなのに今は、はっきりとお客さんたちの目にニャンニャンたちが見えている。
理由はわからない。
だが、コクリコは手からこぼれたシルクハットが床に落ちる前に我を取り戻していた。
検証は後だ。
このステージをつぶしたら、今度こそグラン・マに許してもらえない。
一か八か。
「さあ、みんな、出ておいで!」
ステッキに霊力を思いっきり込めて、ステージ全体へ撒くように振り切った。
それはまるで彼女のステージネームさながら魔法のように、残りのニャンニャン軍団員が瞬時にしてその場に姿を現した。
より正確に言えば、実体化した。
シルクハットから、ステージジャケットから、ステッキの先から、それだけではなく、空中からにじみ出るように、床から湧き出るように、活動写真のフィルムを繋ぎ変えたかのように。
ステージが、ニャンニャン軍団で埋め尽くされた。
41名の隊員が、一斉に客席に向かってウインクするその愛くるしさは、文字通りこの世の物とも思えない威力で観客を魅了した。
触れずとも見ているだけで幸せな気分になってしまい、誰もが思わず頬を緩めてステージの虜となった。
「み……皆様、マジカルエンジェルコクリコと、ニャンニャンたちに盛大な拍手を!」
至近距離でその威力を受けたメルは、一瞬我を忘れたものの、辛うじて自分の役目を思い出してイレギュラーなステージに速やかに幕を引く言葉を叫んでいた。
それでも、思わずニャンニャンの名を叫んでしまったあたり、さしものメルも平常心ではいられなかったわけだが、それを責められる者はいないだろう。
隣にいたシーなど、ニャンニャンたちの愛くるしさに当てられて、幸せいっぱいの表情でその場にへたり込んでしまったのだから。
数瞬遅れて、これまた幸せいっぱいの拍手がステージいっぱいに反響した。
「ステージに介入するとはいい度胸だね、ノートルダム卿」
舞台から漏れずにはいられない万雷の拍手がたゆたう貴賓室の中で、グラン・マは獲物を狙う黒猫さながらの瞳で、ステージを見下ろす男の延髄に爪を突きつけていた。
それはかつてステージネームと同じコードネームで知られた、霊力戦士イザベルの爪だった。
だが、シルスウス鋼の剣さえ削り落とすその爪を背後から突きつけられた男は、纏ったガウンを揺るがしもせずにステージに見入っていた。
ガウンとはいっても、アカデミックガウンと呼ばれる古い大学装だ。
最近では大学生の多くが卒業式くらいしか着なくなっているが、かつては大学人のほとんどがこの服を纏って学問にいそしんでいたものだ。
だが男は学生ではなく、もはや老人と呼んでもよい風貌のため、この服装だと厳格な神学者にも見える。
「……素晴らしい」
それでもいくらかはニャンニャンの影響を受けたらしく、白い髭に覆われた唇がかすかに上向いている。
「ムッシュ・花小路は彼女のステージを見たことがあるのかね?」
「本気で黒猫の爪に引き裂かれたいのかい」
彼女の声にかすかに殺気めいたものが込められているのを察し、ようやく男は振り返った。
「未だ衰えぬな、シャノワール」
怒りの余り隠しきれなくなった霊力のほとばしりがまばゆく、男はかすかに目を細めた。
歳を経たとはいうものの、彼女が見せたその表情には全盛期の華やかさがなお残る。
その気であれば当時の体型を維持することもできるだろう。
そうなればこの歳でも、声をかけてくる男に不自由はすまい。
美しさを損ねると分かっていてなお身体を絞ろうとしないのは、彼女が夫と選んだ男への貞節故であろうか。
「宣言しておくよ。
もしもう一度ステージに手を加えるようなことがあれば、全身を引っ掻いてやる」
忠告でも警告でもなく、それは仮定の未来における事実ということだろう。
シャノワールに引っ掻かれれば、妖魔すら絶叫して許しを請うと言われたものだ。
ステージに賭け、ステージに駈けて生きてきた彼女にとって、素人にステージを汚されることは今なお我慢ならないことなのだ。
「誓おう、二度とステージには介入せぬ。
あれをどうしても、見せて貰いたかったのでな」
「シャノワールのステージを見た感想がそれだけかい」
「先の言葉はニャンニャンだけではなく、ステージへの賞賛でもあったのだがな。
私の介入にも関わらずかくも見事に楽しませてくれるとは思わなかった」
「……いいだろう」
そこでようやくグラン・マは爪先を降ろし、背を向けて歩き出した。
「で、マジカルホーンを見るつもりなんだろう?」
「話が早くてよい」
机の上に置いてあった角帽を被り、シャノワールの客としては徹底的に間違った格好で、男はグラン・マの後に続いた。
楽屋に41匹の猫と1匹のメカ猫がずらり揃っている様はある種壮観である。
ついでに言えばその42匹が全員正座させられているのでなお壮観である。
猫が、正座している。
「……猫じゃねえな」
さきほどから彼らをくどくどと叱りつけているコクリコの背を見ながら、ロベリアは口の中で呟いた。
とりあえず骨格がどうなっているのか、気にはなるがわざわざ調べたいとも思わない。
もとより、喋る霊的ネコなのだから普通の猫と同じなはずもない。
さらに加えて残る1匹は帝都の紅蘭が造り上げた蒸気機械だ。
正座くらいするだろうと、ロベリアは適当に納得することにした。
「だ、か、ら、どうしてステージに上がってきたのかな……」
震えるこめかみから笑顔が決壊する寸前の表情でコクリコが問い詰めるのに、
「だから、ステージに上がってお客さんを喜ばせたかったニャン」
と、ふんぞり返るように胸を張って応えるぶち猫……ではない。
右の耳と左目、右脇と尻尾の半ばに褐色のぶちがあるが、よくよく見ると、尻尾の先端に近い部分に一カ所だけ黒毛があり、ぶちの褐色と地の白色を合わせて三毛猫であることがわかる。
ちなみにオスだ。
まるで詐欺のようなそのオス三毛猫こそが、このニャンニャン軍団の隊長であるニャンニャン隊長である。
「済みませんですニャン。
ニャン太がしっかりとニャンニャン隊長を押しとどめていればこんなことには……」
その隣で小さくなっているニャン太は、ニャンニャン軍団の副隊長にあたる。
頭頂部から額を超えて目の下まで広がる褐色のぶちが、泣いているような表情に見せていた。
いや、いつもニャンニャン隊長に泣かされて、本当に泣いていることも多い。
「いえ、ニャン太のせいではありませんですニャン。
全てはニャンニャン隊長を止められなかったこのニャンイチローの責任ですニャン。
この上は頭の毛を剃ってお詫び致す所存ですニャン……」
どこでそんなことを覚えた、と思うような日本的態度のニャンイチローは隊長でも副隊長でも参謀でもない。
それどころか、番外たるメカニャンニャンを除く41匹の中で一番の新参者だ。
だが、一部には次期隊長にという声もある。
ぶちというには鋭角的な模様を描く左右二対の褐色毛が頬を走り、逆立つような頭頂の褐色毛は41匹の中で最も高貴さを感じさせる。
そしてそれ以上に、このシャノワールにいる面々には、ある一人の貴公子を思わせる風貌だった。
その責任感、行動力を見れば、なおさらに連想させずにはいられない。
「待ってくれニャン、ニャンイチローが出家するのは間違っているニャン!」
「そうニャン!ニャンイチローは何も悪く無いニャン!」
コクリコに呼ばれてからステージに上がった面々から次々とニャンイチローを擁護する声があがる。
「それじゃあニャンニャンが間違っていたっていうのかニャン!」
「いや、それ以外に無いですニャン」
ニャンニャン隊長が立ち上がって一分の非もないかのように主張するところに、間髪入れずニャン太の指摘が入る。
「でもニャンニャンたちがステージに上がったことでお客さんは喜んでくれたニャン。
だからニャンニャンの指揮に間違いは無かったニャン」
「あのねえここはシャノワールなんだから三毛猫やぶち猫がステージに上がっちゃグラン・マが造り上げたこの店の印象がぶちこわしになっちゃうってことがどうしてわかんないの!!」
これが台詞なら拍手喝采を受けるであろう見事な滑舌で、コクリコは一息に言い放った。
ちなみに、シャノワールとは黒猫のことである。
「ニャンニャンたちは普通の人の目には見えないんだから、上がってもまったく問題は無いニャン。
ちょっとニャンニャンの霊力を振りまいてステージを盛り上げるつもりだったニャン。
そうすればステージがもっと楽しくなるし、もしニャンニャンが見える人にはこのプティな笑顔で悩殺できるニャン」
まるっきりへこたれることなく、ニャンニャン隊長は自信満々に言ってのけた。
確かにこの笑顔を向けられては、普通の人間ならば、へにゃあ、となってしまうところである。
だが、霊力の本体であるコクリコの怒りは、そんなことでは収まらない。
「つ、ま、り、またやるって言うの……」
「もちろんニャン。
そしてステージに立ったニャンニャンたちはスタァ街道を突き進み、ゆくゆくは行き損ねた紐育ブロードウェイの舞台に立つニャン!」
「そう……」
ニャンニャン軍団員の何匹かは、ゆらりと動いたコクリコの変貌に気付いて恐れおののく。
欧州に冠たるシルク・ド・ユーロにおいて、あらゆる猛獣たちを従わせてきたこともあるコクリコの威圧感は、動物にとっては恐るべき圧力となる。
「で、もう一つ聞きたいんだけどね。
どうして、ほっぺたがあかーくなっているのか、教えてくれないかなぁ……」
猫撫で声とはまさにこのことか。
それなのに、そこかしこに殺気さえ感じさせる声だった。
コクリコの言う通り、どうもニャンニャン隊長の表情は妙に赤い。
「それはもちろん、さっきバーでジュルジュの目を盗んでこっそり一杯……」
「た、隊長、それは秘密のはずですニャン!」
「あ、しまったニャン」
もう遅い。
ぷちっと、素敵な切断音を立てて、コクリコの笑顔が決壊した。
「どーしてボクの言うことが聞けないの!!!!!」
「みんな、逃げるニャーン!」
酔っぱらっていてもなお行動は迅速である。
激怒したコクリコの嵐を逃れるように、ニャンニャン隊長は一目散に姿を消した。
「わー!置いていかないで下さいニャンニャン隊長!」
「真っ先に敵前逃亡とは嘆かわしいですニャン!」
「我らは常に一蓮托生のはずですニャン!」
ドタドタばたばたと、一騒ぎが終わった後には、正座したままのニャン太とニャンイチローが残るのみであった。
「うう、面目無いですニャン……」
「いっそこのニャンイチロー、腹をかっぱざいて……」
「もういいよ、もう……」
ほう、とため息をついてコクリコは二人、いや二匹を放免した。
「うん、グラン・マに謝ってこなくっちゃ……」
「コクリコ……?」
どこかおかしい、と思ったニャン太は、去ろうとするコクリコの小さな背中に呼びかけた。
しかしコクリコは、振り返ることなく、そのまま楽屋を出て行った。
「おいエセ猫。あのガキ、おかしくねえか」
「……」
それまで黙って喧噪を聞き流していたロベリアが尋ねてきたことは、ニャン太にとって答えるまでもないことだった。
そしてまた、詳しく答えるわけにもいかないことだった。
ロベリアの問いにはかすかに頷くだけで、いつも以上に泣きそうな顔をしたまま、ニャンイチローに視線を向ける。
ニャンイチローの目は、何かを突き通すように細められていた。
動力用の蒸気パイプが張り巡らされ、それに連なる工具類が並べられ、鉄と潤滑油の臭いが染みついた武骨な格納庫は、しかし、チリ一つ探すことさえ難しいほどの整然さを保っていた。
たとえ今すぐに巴里を襲う脅威が無いからといっても、格納庫に収納された霊子甲冑の整備に手を抜くことは許されない。
班長ジャン・レオのカリスマの下、シャノワール整備班はいつでも花組が出撃できるよう、万全の状態を常に作り上げていた。
さりとて、アカデミックガウンを纏った男がいるには不似合いな空間である。
彼を案内しているジャンの顔には、隠しきれない不満の色が見えた。
グラン・マの命令でもなければ、こんなところにこんな男を連れてきたりはしない。
整備のことに関しては、ジャンはかつてグラン・マの命令すら撥ねつけたことすらある。
そのジャンが不満の色を見せながらもこうして男を案内しているのは、男が何者か薄々気付いていたからだった。
そもそもグラン・マが光武F2を見せるように命令する人物など、そうそういるものではない。
「ここだ」
鈍い音とともにレバーを引き下ろし、蒸気の噴出音とともにシルスウス鋼製の扉を開いた先に、五色の光武F2が静かに並んでいた。
磨き上げられた鋼の身体には、これまた埃一つ積もっておらず、つい今し方出撃を終えて帰ってきたかのようにも見える。
しかし、実際にはここ数ヶ月出撃の機会はなく、点検のために三日に一度起動させる度に整備員たちが丁寧に磨き上げているのであった。
そこまでは、さすがに見ただけでわかるものではない。
男はサーモンピンクの機体の前まで歩いてくると、その顔をやや見上げるようにして尋ねた。
「班長、この光武F2を最後に起動させたのはいつかね?」
「昨日の朝九時だ。出撃をした、というのなら随分前になるがな」
「では、やはり今日は動かしてはいないのだね」
「ああ、悪戯で動かした奴もいねえようだしな」
「そうか……」
男の視線が、光武F2の顔からやや動いた。
コクリコ機の両肩に備えられた二対の砲門。
その名を、マジカルホーンという。
盛大に怒られることを覚悟して支配人室に行ったコクリコは、
「ああ、今回は気にしなくていい。
止めようったって止まらなかったんだから」
という予想外のグラン・マの返答に驚かされた。
しかもグラン・マが壮絶に不機嫌さを露わにしているというのにだ。
「でも、ボクはステージを失敗してしまったのに」
「失敗したのかい」
失敗したわけではない。
グラン・マには状況が分かっていた。
あれは外部からの介入があったためだ。
そんなことでコクリコを責めるつもりなどない。
違うだろう、と言外に含めた声で諭し、……しかし、言い終わってからわずかに首を振って言い直した。
「……そう言ってくるってことは、自分で失敗したって感じてるんだね。
どうもこのところアンタは元気が無いようだけど、ステージに持ち込むくらいならとっとと帰って休みな」
原因はあったのだ。
あえてそのことに触れないでいようとしただけでしかない。
二月も経って立ち直ったものと思っていたが、普段から張りつめすぎているコクリコのことだ。
一度受けた心の傷は、そう簡単に治せるものではなかった。
常に笑い続けて、泣くことさえ封じていたコクリコは、本当は傷つき続けていたのだから。
「はい……、失礼しました」
丁寧に一礼して部屋から辞すその動きも、どこか力無く見えた。
「初恋は、成就しないっていうけどね……」
一人になった支配人室で、ふっとグラン・マは声に出していた。
それはつぶやいたというよりも、自分に言い聞かせるものだったのかもしれない。
壁に掛かった鏡に写る今の自分の顔に、遙かな時の記憶が重なる。
もう恋などしないと、いっそ死んでしまいたいとまで思った、失恋の記憶がある。
あのときの自分は、今のコクリコの歳と同じくらいではなかったか。
「おい、何落ち込んでんだ、クソガキ」
「うわあっ!」
支配人室から出てきたコクリコに声を掛けたロベリアの口調は、呼び止めたというよりも脅かすと言った方が適切な代物だった。
「落ち込んだところで、もう隊長は来ないんだからな」
続けてかけられた言葉にも一切容赦がない。
それは、コクリコが一番触れて欲しくないことであり、そしてまぎれもなく、コクリコが落ち込んでいる原因であった。
「うるさいなあ!わかってるよ!」
そう、わかっている。
自分の口からイチローにさよならも言ったはずなのに、身体の芯に突き刺さったような痛みが、この数ヶ月、まるで癒えることがなく、繰り返し繰り返し蘇ってくる。
「ま、いくらなんでもまだ女にもなってないガキじゃあ、隊長もどうしようもなかったってことさ。
いまごろは隊長も、お前よりもっと年上の帝都の女とよろしくやってるだろうよ」
ニヤニヤと、あえてコクリコが軽蔑したくなるような笑みを浮かべつつ、ロベリアはポンポンとコクリコの頭をはたいた。
むっとした顔を向けて、叩いてくる手を振り払う。
「どうせ、ボクは子供だよ。悪かったね」
「フン、まあそういう選択をした男は十年後に後悔するのさ」
ロベリアは人を罵倒することに躊躇がない。
以前、コクリコはロベリアのそういうところが大嫌いだった。
だが、今はうっすらと解る。
叱るときも、馬鹿にするときも、ロベリアは、他人の負の感情を正面から受けとめていた。
今も、ただ、幼かっただけなのだと、お前は決して負けてなどいなかったのだと、言っているのだった。
それは翻せば、過去のものに、思い出に変えてしまえと言っているのだった。
「ロベリアは十年後も変わっていないだろうけどね」
「フン、変わらず美人でいられるなら歓迎だね」
最近、コクリコはわかったことがある。
下手にロベリアに近づけば、彼女の纏う霊力と同様、火傷する。
だが、心から凍えていた者にとっては、その炎でさえ温かいのだと。
ひらひらとふざけたように手をふりつつ去るロベリアの背に対して、コクリコはロベリアにわからないように、小さくお辞儀をした。
とりあえずコクリコを引っ張り上げたロベリアは、急ぎ足でロビーに向かった。
まだ帰ってはいないはずだった。
今日の騒動を仕掛けた奴は、まだシャノワールにいるはずだった。
ロベリアがロビーに着いてすぐ、疑いようのないほど疑わしい男が店の奥から現れた。
「何者だい、アンタ」
呼び止めたアカデミックガウンの男は、少なくとも常人ではあり得なかった。
まるで気配を感じさせないのに、気付いてしまえば恐ろしい存在感がある。
年齢は五十から六十ほどか。
老いた顔に苦悩のように刻まれた深い皺は、修道僧か神学者を連想させる。
だが、力を感じる。
はっきりと、間違いなく。
対抗するように、視線に力を込めた。
並大抵の男なら、この目に見据えられただけで抵抗すら出来なくなる。
「尋ねるならまず自分から名乗り給え」
予想通り、男はロベリアの視線に臆することなく応えてきた。
「は。わざわざ名乗る必要があるのかい。
このアタシが誰か、アンタは知っていそうな人間に見せるね」
「そう、確かに知っている。
ならば忠告しておこう、巴里の悪魔と呼ばれた者よ。
汝の顔を知る者は多い。
未だ観客が残っているかも知れぬこの場に、おいそれとその姿を出すものではあるまい」
「……ちっ。
やっぱり機関の人間かい」
ロベリアが死刑判決を受けてもなお、司法取引で巴里華撃団に属しているという事情を知っているからには、賢人機関のエージェントだろうと当たりを付けた。
「フン、さしずめ今日のステージのバカ騒ぎもアンタの仕業だろう。
猫好きか何か知らないが、不良猫を焚きつけて遊ぶんじゃない。迷惑だ」
その言葉を聞いて、男は意外な顔をした後で、微かに笑った。
「結構。
君がこのシャノワールを愛するようになるとは、私も予想していなかった」
「……死にたいか」
それは、巴里の悪魔としては人に指摘されたくない事実である。
こんな仲良しクラブに愛着を持ってしまったなど、レナードあたりにからかわれるネタなど増やしたくない。
しかもそこに、ロベリアの不機嫌さを増やす声が掛けられた。
「サフィール、ロビーでお客様に対して殺気をみなぎらせるな」
ほとんど常に凛としたその声は、もちろんグリシーヌのものだ。
今日は舞台担当でなかったこともあり、ブルーアイではなくグリシーヌとしての私服姿である。
いくら客が帰った後とはいえ、社交界に知名度が高すぎる彼女もまた、おいそれとここに姿を見せてよいものではない。
もっとも、その気になれば舞台を見に来て貴賓室に居たと言い逃れることが出来るのが、ロベリアとの立場の違いだ。
今は半歩後ろに花火もいるので、その効果はある。
「心配するな、客じゃなくて関係者だよ」
「何?」
グリシーヌはそこで男の顔を見た。
「……ノートルダム卿ではないか」
「グリシーヌ嬢か。それに北大路の……確か、花火嬢。久しくあるな」
「なんだ、貴族様同士、知り合いかよ」
「こちらはミッシェル・ド・ノートルダム殿。ご本人が仰るには貴族ではなく医者なのだそうだ」
軽く皮肉ったロベリアの言葉をさらりと受け流して、グリシーヌは男を紹介した。
もっとも、本来ならばこんなことをせずに、ロベリアの言葉を丸ごと無視しているだろう。
わざわざ紹介したのは、グリシーヌもまた、ノートルダム卿が賢人機関に所属している可能性を考えたからだった。
巴里華撃団や賢人機関に関わる人物が、こうして客の立場でシャノワールに来ることは決して珍しくない。
「どっちかというとアタシには葬儀屋に見えるがね」
ロベリアが皮肉ったのは先ほどの応酬を引きずったからだけではない。
どこかで聞いた名前だと思ったのだ。
未だに「ド」を付けている貴族は珍しい。
聞いたことがあればすぐにわかるはずだが、思い出せなかった。
つまり、ふっかけた上で、正体を知りたかったのである。
「そうかもしれんな。悪魔がそう言うのならば」
ロベリアの意図を読んでか、ノートルダム卿はその言葉もさらりとかわし、
「では、お二人ともお話はいずれまた。本日はこれにて失礼する」
グリシーヌと花火に向かって一礼してから、場違いな格好のままでシャノワールを辞していった。
翌日。
よく晴れた日だというのに、コクリコは気乗りしない表情でサーカス「シルク・ド・ユーロ」のテント裏にいた。
本来なら、団長のベルナールにとっても意外な光景である。
コクリコは、ベルナールの兄であるドニクールが団長として暴虐を振るっていたときでさえ、あのような表情を見せることはまず無かった。
あのころからコクリコは、生きているだけで、その日食べていけるだけで幸せなのだと、だから自分は幸せなのだと、幼い身体に無理やりに言い聞かせて、笑い続けてきたのだから。
それは、この地で死んでしまった父のことを思ってのことだったのか。
いや、それだけならまだしもだ。
ベルナールは、かつてのコクリコがどんな境遇にあったのか、少しは聞いている。
それでも、理解と推測を越えるものがあった。
まがりなりにも家族のところにいたこの少女が、幾度となく飢え死にしかけたということは。
それほどの逆境に生きてきたコクリコは、並大抵のことで弱音など吐いたりしなかった。
そのコクリコがあのような表情を見せることが、最近、珍しくなくなってきた。
今日の本番まではまだ時間があるが、あの様子は気になる。
声を掛けようとしたところで、コクリコに寄り添っている猫の存在に気付いた。
「……あんなぶち猫いたっけな?」
少なくともサーカスの一員にはいない。
だが、こと動物に好かれることにかけてはシルク・ド・ユーロ随一であるコクリコに、そこら辺の野良猫が懐いているのだろうとベルナールは解釈した。
そういえばコクリコは、ライオンのクリンを始めとして、特にネコ科の動物に好かれやすい。
その猫が、コクリコを慰めるようにそっと彼女の頬を撫でているのは、本来猫の習性を考えれば驚くべきことのはずなのに、その光景は不思議と違和感が無かった。
何故かベルナールは、その猫が自分以上にコクリコを理解しているような気がした。
「だんちょー!済みませーん!ちょっと応対でおねがいしまーす!」
悩んでいたら、丁度テントの奥から別の団員が呼ぶ声がした。
コクリコにとっては、人と話すよりも動物と話す方が、気が紛れるかもしれない。
ベルナールはそう思い直し、コクリコをしばらくそっとしておくことにした。
「わかった!今行く!」
先のベルナールのつぶやきが聞こえていたら、きっと怒ったことであろう。
これでもぶち猫ではなく三毛猫なのだから。
昨日さんざん怒られたはずのニャンニャン隊長は、まったく懲りることなくコクリコに寄り添い、虚空を眺める彼女を、その滑らかな前足で優しく撫でていた。
「ニャンニャン……」
「コクリコ、おなかが空いたニャン。何か食べるニャン」
ようやくにしてコクリコが虚空から視線を戻して名前を呼んだというのに、ニャンニャン隊長は静かな目つきとは裏腹の、なんとも即物的な言葉を返してしまう。
テントの裏側、動物たちの檻が並ぶ中から遠目に見ていたニャン太は思い切りこけた。
はあ、とコクリコは深いため息をついて、
「うん、そうだね……。ごはん、食べようか……」
しかし、ニャンニャン隊長の言葉に賛同した。
立ち上がる彼女にニャンニャン隊長が続き、どこにいたのやら、その他の隊員たちもぞろぞろぞろぞろぞろぞろぞろぞろと続いた。
呼ばれたベルナールは、少し考え込むことになった。
テントで待っていたのは、コクリコが懇意にしている宝石商のロランス・ロラン卿。
こちらはベルナールもよく知っている。
そして、もう一人、学者帽にアカデミックガウンを纏った神学者のような男。
「ミッシェル・ド・ノートルダムと申します」
ロランスが知り合いの医者だと紹介したその男は、「ド」のつく名前にしてはずいぶんと腰の低い態度で恭しく帽子をとって挨拶した。
その要件は、
「こちらにいらっしゃるコクリコ殿に、面会させていただきたい」
もちろん、普通ならやんわりと、しかしはっきりと断るところである。
このような形で熱烈なファンが押しかけてくることは、それほど珍しくない。
サーカスは来て貰った人々にファンになってもらわなければならないが、あまりに深く好かれると、今度はサーカス団の組織が保てなくなることがある。
兄ドニクールとは違い、温厚な人柄で知られるベルナールでも、サーカス団をまるごと崩壊させかねない一線は守らせていた。
しかし、ロランスの紹介ともなると、そう簡単に断るわけにもいかない。
まして、このノートルダム卿という人物は、ただのファンというわけではなさそうだった。
欧州全土を回って様々な人物に接してきただけあって、ベルナールは人物の格や性癖を見抜くことには長けているつもりである。
その経験が、奇妙な結論を導き出していた。
目の前にいるこのノートルダム卿という男は、空虚だと。
サーカスを楽しみに来たのではない。
ファンとしてコクリコに面会しに来たのでもない。
本来サーカスを見に来る客としてはありえない人物だった。
ただ逆に、コクリコに危害を加えようとするようにも見えなかった。
憎しみも怒りもまるで感じない。
そもそもコクリコは人の恨みを買うような性格ではないので、刺客などが来る可能性などありえない。
悩んだあげく、ベルナールは最も無難と思われる答えをすることにした。
「ただいまコクリコは次の演目のために準備しているところでございます。
まずはごゆっくりとサーカスをご覧下さいませ。
演目が終わりましたら、コクリコに話を通しておきます。
ただ、本人の調子が悪ければ、やむを得ず面会をお断りさせていただくこともありえますので、どうかご容赦下さい」
つまるところ、先延ばしである。
ただ、ベルナールはどうしてもさきほどのコクリコの様子が気になっていた。
彼女の調子が悪ければ、それを理由に面会を断れるための断りを入れておくことにした。
ベルナールの見たところ、このノートルダム卿という人物は、これで激怒するような性格ではないとの予測もあった。
案の定、ノートルダム卿は納得したようすで頷いた。
「心得た。
ではロラン卿、私はここで公演を見ますのでお先にお帰り下さい。
ご足労下さりありがとうございました」
「いえいえ、私も最近巴里を離れていて、サーカスを見に来られなかったのですから、見て行きますよ。
公演まで貴方とのんびり話すのもよいでしょう」
普段宝石商として札束と気の張りつめるような交渉を続けているロランスにとって、コクリコのサーカスを見ることは、ここ数年で最も馴染んだ息抜きでもあった。
少女のステージネームに言う、マジカル、と。
魔法のような、とはよく言ったものだろう。
それは単に手品だけを指すのではない。
自分より身長の高い猛獣たちを自在に指揮するコクリコの姿は、どこか現実離れした凄味があった。
動物たちを鞭などで制することなく、小さなステッキ一つをまるでオーケストラの指揮棒の様に振るうだけで、動物たちが一団となって自在に踊る。
さらに、その芸に驚嘆した人々の賞賛と感嘆の念が少女に集まり、その身を輝かしくさえ見せていた。
「……大したものだ」
拍手を重ねつつ、観客一同揃った感嘆の一翼を担う表情で呟いたノートルダム卿の言葉は心からの賞賛に他ならなかった。
「しかし……どうも元気が無いですね」
同じく横で拍手をしているものの、ロランスの顔は対照的に暗い。
「ほう……あれでも、なのですか?」
ライトを浴びて白く光っている少女の顔は、確かに笑っている。
動物たちに呼びかける声は朗々と響き渡り、ステッキを振るう動きは鋭利とさえ言える。
ノートルダム卿は、ロランスの言った言葉を確認しようと目を細めてコクリコを凝視するが、とてもそうは見えない。
「ええ、あれはいつものコクリコではありません。
あの子の笑顔は、本当はもっと……そう、見ているだけで幸せにさせてくれるようなものなのです。
少なくとも、一番コクリコが幸せだったときと比べると雲泥の差があります。
……色々と、堪えるものがあったのでしょう」
ため息をつくロランスは、その理由に思い至っているからこそ、どうとも困っていた。
その理由である青年を責めることなどどうして出来ようか。
彼のせいと言ってしまえば、そのときに燃え上がった少女の思いすらも否定してしまうような気がしてしまうのだ。
「彼女のことを、本当によくご存じなのですね」
「以前にも、ああしてコクリコが落ち込んでいることがあったのですが、確かにコクリコは滅多なことでそれを表す子ではありません。……悲しいことに」
「以前にも?」
「いや、それはコクリコ個人のことですから、私が喋るわけにはいきません」
コクリコの母と、父の違う弟たちの存在については、ロランスはグラン・マにすら喋っていない。
軽々しく喋っていいことではない。
コクリコ本人に教えるときでさえ、それを教えるべきかどうか悩んだものだった。
「失礼した。
……あの少女にも、語り難い思い出があるのですな」
「ええ」
深々と礼をし、全身に喝采と賛辞を浴びるコクリコの姿は、それでも、輝いて見えた。
演目が一通り終わった後で、コクリコは団長からの申し出を受けることにした。
理由は、単に久しぶりの再会となるロランスに会いたいということが主で、その場に誰かいるということは、あまり彼女は気にしなかった。
自分の芸を気に掛けてくれる人であれば、悪い人ではないという意識もあった。
「お久しぶりです、おひげの……じゃなかった、ロランスさん」
「しばらく見に来れなくて悪いことをしたね、コクリコ」
コクリコにとっては、ロランスは祖父のようなものなのかもしれない。
母方の祖父は生きてはいるらしいが、その人はあくまで母の父であって、直接にはコクリコに何もすることの無かった人である。
父方の祖父は、不義の子であるコクリコを嫌い、面倒を見ることすら嫌がった。
だが、もし普通の家庭に育つことができていたのなら、きっと祖父とはこのような人なのだろうと、コクリコは漠然と思っていた。
ドニクールが団長であった日々を、生死の境目のような一線で護り続けてくれた人であり、母の消息を教えてくれた人でもある。
ロランスに抱きつくその様は、横にいるノートルダム卿の目には、孫娘と祖父のそれにしか見えなかった。
ノートルダム卿は、一瞬だけ迷った顔をした後、握りしめていた拳を解いた。
「そうそう、今日は君にどうしても会いたいという人がいるので連れてきたんだ。
私の知り合いの医者なんだがね。
君のその……力を見込んで頼みがあるそうなんだ」
力、と言う時に声を潜めつつ、ロランスは抱擁を解いて、ノートルダム卿を振り返った。
「初めまして、コクリコ嬢。ミッシェル・ド・ノートルダムと申します」
帽子を取り、十二の少女に対するものとしては大げさに過ぎるほど丁寧な態度で礼をされて、コクリコは目を白黒させた。
我に返り、慌てて礼を返す。
私服ではなくステージ衣装のままで良かったと思った。
「えっと……初めまして。コクリコです。
ボクに、頼み、って、ボクに出来ることなんですか」
「はい。巴里の人々を幸せにするために、貴女の力をお借りしたい。
貴女と、貴女を守護するそのニャンニャンとに」
「あ、いつからここに入ってたお前」
ベルナールが驚いたのも無理はない。
いつの間にか、その場から湧き出るように、ぶち猫ならぬ三毛猫が……ニャンニャン隊長がその場に現れて、ノートルダム卿の前に立ちはだかった。
「忠実だな、幸福の化身よ」
「えっと……、いいよニャンニャン。この人は悪い人じゃないと思う。
それより、巴里の人たちを幸せにすることが出来るって、どういうことですか」
「話を聞いて下さいますか」
「うん、ボクに出来ることだったらなんでもやるよ」
「ありがとうございます。
これはきっと、今代で貴女と大神一郎くらいしか出来ないことなのです」
「ノートルダム卿!」
ロランスは思わず大声を上げて叫んだが、言ってしまった言葉をかき消すことは出来なかった。
ビクリと、コクリコの身体が弾かれたように揺らぎ、笑顔に隠しようのない影が差して、その表情を隠すように小さな肩が俯く。
「失礼を致しました。ですが、ならばこそ、貴女にお願いをしたいのです」
ガウンが汚れるのも構わずにその場に膝をつき、ノートルダム卿はコクリコの手を取った。
「うん……、……の、代わりに、なれるなら」
「コクリコ……」
ゆっくりと上がったその顔には、声も上げずに零れた涙の欠片と、切ないほどの微笑みがあった。
ロランスは、この場にノートルダム卿を連れてきたことが、間違っているのか、正しかったのか、わからなくなった。
後悔すべきはずなのに、大神の代わりになれると知ったコクリコの笑顔は、今日見た中で、一番輝いて見えたから。
「あれ?珍しいですね、コクリコ。どうしたんですか?」
エリカが首をひねったのも無理はない。
コクリコが、ニャンニャン隊長とともに訪れたここは教会である。
クビになったということを理解しているのかしていないのか、ともかく今なおエリカは当然のように教会に出入りしているが、対照的に、コクリコはまず教会に来ることはない。
誰に恥じることもない品行方正な生活をしているコクリコだが、少なくとも神への信仰とは無縁であるように思われていた。
「エリカ、ボクが教会に来たらおかしい?」
「はい、変ですね。コクリコのイメージに合いません」
聞きようによっては酷い台詞だが、エリカが言うと不思議と嫌味が無い。
単純な感想をまっすぐに口にしているだけなのだから。
「そんなに合わないかな。これでもボクは昔、教会にいたこともあるんだよ」
「へ?コクリコもシスターになる修行をしていたんですか?」
「ううん、ボクは神父さんが教会で開いている孤児院で育てて貰ったんだ。
そのときに、多分、色々教えて貰ったはずなんだけど……忘れちゃった」
「あらら」
本当は、うっすらと、祈りの言葉や神への感謝を教えて貰ったような記憶はある。
少なくとも、今のコクリコの根底にある善悪の価値観は、その人のおかげだろう。
でも、その神父さんが死んだ時からずっと長いこと、コクリコは神様に祈ろうとはしなかった。
「でも、今からでも遅くありませんよ。私が二十年分くらいまとめて祈っちゃってあげますから、これから祈りましょう」
「エリカ、ボクまだそんなに生きてないよ」
コクリコは笑いながら冷静にエリカの勘違いを指摘する。
だけど、エリカの言葉は心地よかった。
「ねえ。神様って、何なんだろうね……」
「へ?神様は神様ですよ。いつも私たちを見守って下さっています」
少なくともコクリコは、ベトナムにいたころに神がいるなどと思ったことはない。
あそこでわかったことは、世の中いい人と悪い人がいるが、神も仏もいないということだった。
ただ、その価値観は、この巴里に来て少し変わった。
神様ってのが、もしかしたらいるのかもしれないと……
「ああ、そうか」
思えるようになったのは、まるで神様みたいな人に会ったときだった。
ライオンのクリンが逃げ出して、当時のドニクール団長に銃で撃たれて死にそうになったとき、自分の願いを叶えてくれた人。
とぼけた顔で、奇跡そのもののようにクリンの怪我を治してくれたその人は、もはや人ではなく神様にさえ見えた。
「そう、あのときの神様は、エリカだったんだね」
「ええええ!!!私って神様だったんですか!?」
しみじみとしたコクリコの呟きを聞いて、心底ぶっとんだ表情で驚いたエリカは、はたと気付いてから教会の奥に向き直り祈った。
「ああ、神よ、ありがとうございます。私は神様でした」
「それ、何かが根本的に間違えてるよ」
だがこの間違いっぷりにももう慣れた。
エリカの本質がいかに尊いものか、この一年でコクリコはよくわかっていた。
結果はともかくとして、誰かの笑顔のために、誰かの幸せのために、身を粉にして働くことに何の躊躇もない……プリン以外に関しては。
「すごいよね、エリカは」
「ええそうですよ、私は神様らしいですから」
「いや、それはもういいから。
……エリカは、どうしてあのときボクとクリンを助けてくれたの」
「えーっと、私がコクリコを助けたことありましたっけ?
うん、神様は正しい人を助けてくれますから、あったんでしょう。
だったらきっと、そのとき私は、コクリコに幸せになって欲しかったんですよ」
考え込んでいたのは記憶をたどるだけで、その答えには迷いがなかった。
その言葉を聞き、コクリコは静かに頷いた。
「ボクも、そうなろうと思うんだ」
「へ?」
「ありがとう、エリカ」
「はい、よくわかりませんがよかったです」
それまで一言も喋らなかったニャンニャン隊長がニャンと鳴いて促し、コクリコはエリカに一度手を振って教会を辞した。
結局、祈ることはなく。
翌日から、コクリコはニャンニャン軍団とともに行方不明になった。
初出 平成十七年一月三日 SEGAサクラ大戦BBS
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