もみじ小戦・第七話
「白い魂」最終編




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師走二十七日。


「帝国華撃団の、大神さん、ですね」
「あ、はい。自分は大神ですが」

 どこか既視感を覚えるような返事をしてから、次に違和感を覚えた。
 大神は表向きは帝国歌劇団の一員ではなく、悲しいかなただのモギリ係である。
 よって所属を言う場合には大帝国劇場の大神さん、あるいはモギリの大神さん、と言う具合になる。
 で、ここは帝劇の玄関なので大帝国劇場の、と確かめる必要はない。
 にもかかわらず「ていこくかげきだんの」?

 客商売にも慣れてきたのでここで首を傾げたりはしないが、切符を切りつつ大神は考え込んでしまった。
 考え込んでいても切符の切り方は手と腕が覚えているので、もちろん失敗などしない。
 失礼にならない程度にそのお客さんを観察してみる。

 若い女性ばかりが六人。
 花組の少女達ほどではないにしても、適度に化粧した綺麗な顔には振り返る者が多いだろうなと思わせる。
 年は花組のすみれやさくらと同じくらいから大神よりちょっと年上程度まで。
 そんな女性達の集まりというのは、ある意味浮世離れしている。
 キネマ女優の集まりか、別の劇場の役者さんたちだろうか。
 でも、何人かはどこかで見たような気もする顔だった。
 お客さんとしてではない。
 それなら大神の名をわざわざ確かめるようなことはしないだろう。
 六月に築地で助けたのは……あれは親子連れだった。

 大神は悩み込んでしまった。
 その困惑に気づいたようにいたずらっぽく笑った先頭の少女が、さらに大神を混乱させることを言いだした。

「私、来春から帝都蒸気バスのバスガイドとして採用されたんです。ありがとうございます」

 お辞儀されて目を白黒させる大神に畳み掛けるようにあとの五人も続く。

「私は向こうに行ったところにあるミルクホールで女給として」
「私たち二人は蒸気電話の交換嬢になることが決まりました」
「わたくしは通りにあるクレープ屋さんで」
「私はお隣の三越に中途採用されることになりました」
「他に、神崎グループに採用された娘もいますよ」
「これもみんな大神さんのおかげです」
『ありがとうございました!』
「は、はあ……それは、おめでとうございます」

 身に付いた接客態度でお辞儀したものの、大神はますます訳が分からなくなってきた。

「記念に大神さんのサインを戴きたいんですけれど……」
「あ、あの……もうすぐ開演ですから公演終了後に回して戴けませんか?」

 この時間帯には駆け込みのお客さんが来るのでそれなりに忙しいのである。
 彼女らに応対しつつ大神は、別の三人のお客さんから差し出された切符を半ば無意識ながら完璧に処理している。
 だがいかな大神といえども、腕は二本しかない。
 切符を切りつつ慣れないサインというのはさすがに無理だった。
 そんなことを考えている間に、立ち見のお客さんがもう一人。
 確か鈴野とかいう作家の先生だ。
 この通り、記憶力にはそろそろ自信が持てるようになってきたのだが……やはり思い出せない。

「わかりました。じゃあ後ほどお願いしますね」

 女性達は楽しそうにパンフレットや飲み物を椿から購入して行った。

「第三……天国、か」

 リーダー格らしき女性が感慨深そうに言った言葉が、大神の耳にやけにはっきりと残った。

*      *      *

 十二月公演「第三天国」は、貧しさにも負けずに夢を抱き続ける青年シコオが、過酷な環境で酷使されていた少女ディアヌを助ける……という展開で繰り広げられる感動の物語である。
 主演はマリア・タチバナ、真宮寺さくらという六月公演「シンデレラ」以来の組み合わせで待ち望んでいたファンも多く、大盛況であった。
 今日で今年の公演も終わり、明日には大掃除である。
 この九ヶ月でたくさんのお客さんの相手をしてきたので、さすがに全てを覚えていられるわけではないが、ああいう目立つ人たちならば覚えていてもいいのに。
 ……どこで会ったんだろう……。

 公演の間中考え込んでいたのだが、結局答えは解らなかった。

「素敵な、お話でしたね」

 白紙の色紙を売店で買った彼女たちに、約束通りサインをしていると、他のお客さんにもせがまれることになってしまった。
 これでは彼女たちとゆっくり話もできない。

「また来年、見に来ますね」
「あ、あのー……。今回初めていらっしゃったお客さんですよね」

 六人の女性たちは顔を見合わせて、少し悲しそうな色合いを残しながらも楽しそうに笑いあった。
 リーダー格らしい女性は、他の女性客に囲まれている大神に軽やかな足取りで近づき、耳元でそっと告げた。

「実は私、裏では夢組法術部隊にも採用されたんです」

 大神が「え?」と思った瞬間には、女性はもう仲間の所に戻っていた。

「どこかでご一緒できるかもしれませんけど、今度は酔わさせないで差し上げますわ」
「!」

 そこで大神は、あっと大声を上げそうになった。
 ようやくわかった。
 今の女性は、ミロクの本拠地「もみじ」の玄関を守っていた花札使い。
 あとの見覚えのある数人も、あの遊郭内にいた人たちだった……!

 気づいたときには六人は、風よけの外でお辞儀をして帰路につくところだった。

*      *      *

「ま、年の瀬に来年の身の振り方がなーんにも決まってねえと楽しくならねえだろ」

 そのために苦労した舞台裏は一切感じさせようとせずに、米田は例によって一升瓶をあおった。
 決着が付いたのが十二月の上旬。
 それまでにも布石を打っていたとはいえ、花小路にしても神崎忠義にしても、あるいは太田にしても、かなり厳しい日程ではあったのだが、彼女たちが大晦日に集団自殺するような事態を招くよりはずっとよい。

「ま、いーじゃねえか。色々あったけどひとまず今年の年の瀬はハッピーエンドで迎えられそうでよ」

 今日を入れてあと五枚となった日めくり暦を横目で確認しつつ、米田はニッと笑った。
 覚悟はしていたのだ。
 降魔戦争の悪夢が再び蘇ったとも言えるこの黒之巣会との戦いで、年端もいかぬ少女達を戦場に駆り出したりすれば、どれほどに気を配り万全であろうとしたところで、きっと犠牲者が相次いでしまうはずだろうと。
 今年の年末は喪服での墓参りになることも考えていた。
 しかし、そうはならなかった。
 実戦部隊である花組は犠牲者ゼロ。
 重傷者も、まあ、さくらが一度トランス状態になったことと、大神がぶっ倒れたくらいか。

……まったく、とんでもねえやつだよ、おまえさんは。

 目の前で、はあ、と狐に包まれたような顔をして立っている青年をみやって、心底そう思う。
 実戦部隊の指揮官と言うだけではない。
 この度の一件のように、自分や周りの人間までもが、僅か二十のこの青年に感化されて動くことになってしまった。

 常勝将軍。

 既に彼の古巣である海軍の上層部ではそう呼ぶ声もあると山口大将から聞いている。
 その呼び名が、呼ばれる方にはどれほど過酷なものかおそらく彼らは知らない。
 日清日露の名将と呼ばれた米田には、そのつらさがよく解っていた。
 いまはまだ大神に知らせるべきではないだろう。
 今あるこのときは、こいつにとっても数少ない安息の時なのだから。

「ところで大神、明日の大掃除の準備は今からやっておけよ」
「あ、はい、わかりました!」

 あんまり色々考えているとこの話題に触れそうになってしまうと思ったので、唐突に話を変えて常勝将軍を雑用に送り込んだ。
 丁度入れ替わりであやめが入ってくる。

「保護された者たちが何人か来たそうですね」
「ああ、今大神が報告しに来たよ。
 どうやらみんな決まって落ち着いてくれたようだな」
「その件に関して、少々深刻な問題が……」

 深刻な、といいつつ、あやめの顔は笑いを堪えている。
 米田も興味をそそられた。

「何かな。大神の処遇についてか?」
「ええ、斧彦さんが、今回の働きのご褒美として、『一郎ちゃんとデートしてあげる♪』と言っているんです」

 珍しくお茶目に物まねをしていたあやめだが、最後にはとうとう堪えきれなくなって口に手を当てて笑ってしまった。

「あーーー、そいつは……、なんだ、その……ひじょーに深刻な問題だなあ」

 冷や汗混じりに頬をぽりぽりと掻きつつ、米田も苦笑を禁じ得ない。
 身体はごつい三十代の男である太田斧彦軍曹だが、心は十代の乙女である……らしい。
 その精神が通じて、婦人運動家たちと交流があり、今回の件では色々と働いてもらった。
 が、その褒美ではなく、大神の行動へのご褒美、というあたりが彼らしい。
 悪い人間ではないし、至って有能なのだが……さて、この場合はどうやって断っていいものやら。

「うむ、この件に関しては、あやめくん、君に一任しよう。
 上手く取りはからってくれたまえ」
「あら、そもそも個人的に斧彦さんに連絡をとられたのは米田中将閣下であらせられますから、それは僭越というものですわ。謹んで辞退させていただきます」
「藤枝あやめ中尉、これは上官命令である」
「中将閣下の私的なご友人に関して一士官が出しゃばりますのは越権行為であります」

 と、まあひとしきり泥仕合をして笑ってから。

「まあ、大神は帝劇に必須であり、休暇の予定が向こう三ヶ月存在しないため、残念ながらそれには及ばない、とでも言っておいてくれ」

 よく考えなくてもかなりひどい内容だが、大神の仕事実態なんて突き詰めればこんなものである。

「そんなことを言ったら、酷使のしすぎだと思いっ切り非難されますよ」
「あー、もう、断ることが出来ればよしとする!」
「わかりました」

 ちょっと斧彦に同情しつつも、笑いながらあやめは頷いた。

「取り急ぎの件はそれくらいか?」
「はい、あとは事務の方で十分です」
「じゃあ済まねえが、ちょいと留守番を頼むわ」

 フッと真面目な顔つきに戻った米田に、あやめは行き先を聞かなかった。
 この数日米田は同じ種類の所に出向いているので今さら聞くまでもない。
 米田は支配人服から目立たない私服に着替えて劇場を出る。
 一度陸軍省に寄ってこっそりと正式な軍服に着替えてから、向かったのは青山墓地であった。

 花組の犠牲者はゼロであったが、帝撃組織、軍全体を見渡すと決して少なくなかった。
 わかる限りの墓に、米田は一つ一つ供花していく。
 これでも、少ないと言うべきなのかも知れない。
 六年前の、あのときに比べたら。


*    *    *    *    *


師走二十八日。


 大掃除である。
 黒子衆達はこれで仕事納めであった。
 花組の隊員達はまず自分の部屋を掃除して、終わり次第各所を手伝うということになっている。
 すみれなどは、

「どうしてこのわたくしが雑巾などを手に掃除しなければなりませんの」

 などとぶつぶつ言っていたが、やり始めると結構素直にやっている。
 誰かに部屋の中をいじくられるよりマシだと思ったのか、それとも実は掃除好きなのかは他人には伺い知れなかった。

 一方、アイリスはちょっと例外である。

 ずざーっ、ずざざざざざざざーーーーっ

 感嘆しながらぽかんと口を開けて上を眺めていた三人娘や黒子衆達を前に、食堂の天井を二十四の雑巾が走り回っていた。
 普通なら脚立を持ち込んで細かにやらなければならないところなのだが、アイリスの念動力ならばそんなものはお構いなしである。
 なかなか掃除できなかった柱上部の飾りまで、一年分の埃が次々と片づけられていく。
 汚くなってきた雑巾はふわりと降りてきて、洗い場でじゃばじゃばと水に浸って汚れを落とし、自分できゅっと締まってからまた天井へ浮かび上がって行き掃除をする。
 そんな、現実的で実用的で、便利に過ぎるメルヘン世界が帝劇の一角に出現していた。

「はい、おしまいだよ」

 最後に二十四の雑巾がピタリと息をあわせて……そもそも息という表現は正しいのだろうか……腰をくねらすように自分を絞り上げると、拍手喝采が起こった。

「えへへ……アイリス役に立つでしょ」

 アイリスにしてみれば嬉しくてたまらない。
 フランスにいた頃は力を見せるだけで恐怖され、日本に来てからもあまり滅多なことで力を見せないように言われている。
 こうやって自分の力を使って人に誉められると言うのは、アイリスにとっては自分自身を肯定してもらえているようで凄く嬉しいのだった。
 内部関係者しかいない、こんな日ならではである。

「さあ次々、アイリスなんでもやるよー」

 次は舞台の照明器具でメルヘンが繰り広げられるのであった。

 一方その代わりに、アイリスの部屋の掃除はあやめがすることになった。
 ジャンポールはアイリスのお供についているが、何人かのお友達が思い思いの場所に座っている。
 少なくとも、置かれていた、という印象は受けなかった。
 彼らのガラスの視線に見つめられると、アイリスを迎えにソローニュ城へ赴いたときのことが思い出された。
 あそこには、もっとたくさんのお友達がいて、そして、アイリスは独りぼっちだった。
 あの豪華なお城の中で、両親の精一杯の愛情と、周りの人々の恐怖に囲まれて。

 今は、違う。
 大見得を切ってアイリスを連れてきたものの、実際は不安も拭いきれなかった。
 アイリスがその力を無制限に解放すれば、おそらくこの帝劇の上部くらいは軽く吹っ飛ばせるのだから。
 だが今は、何をするにしても安心して見ていられる。
 時々爆発することもあるが、最近では紅蘭の爆発よりも抑えている程度のものになってきている。
 どうやら、約束を果たすことはできたらしい。
 シャトーブリアン夫妻から送られてきた手紙の束が大事そうにしまってあるのを眺めつつ、あやめはようやく肩の荷が下りたような気がした。

*      *      *

 紅蘭は悩み込んでいた。
 自分の部屋を片づけ終わった彼女は、当然この地下格納庫に来ている。
 やることはもちろん、光武の整備である。
 このところ実戦で使っていないが、整備は忘れないことにしているし、時々試乗もしている。
 彼女にとっては、憧れの人から引き継いだ夢の子供なのだから。
 しかし、いつもなら順調に終わるはずのチェックは予想と違っていた。

「どういうことや?」

 数値が、微妙にだが全体的に低下している。
 先月の定期検査では何の異常も見られなかったのにだ。
 いかに黒之巣会が倒れたとは言っても、やはり光武はいつでも使えるようにして置かねばならない。
 特に自分のミスで大神を窮地に追い込んでしまった経験が、紅蘭にさらなる調査をさせた。
 普段なら使わない超紫外線装置を使って、まずは大神の光武から調べ尽くすことにする。
 三十枚の透過写真を現像して見た結果は、

「……そんな……」

 駆動系、伝達系共に使われている霊子水晶の一部が非晶質に変化していた。
 そればかりか、外装甲に使われているシルスウス鋼についても、対魔防御の要である鉛の固溶晶率が低下していた。
 そんなはずはない。
 天海との戦いの後でこのあたりは完全に調べ尽くしたはずだ。
 その後は一度も実戦では使っておらず、勘を失わないために試乗を二週間に一回したくらい……。
 現状を頭で否定しようとしたが、結局現実は目の前にあるのだ。
 それは科学者として不可能な選択であった。

 落ち着いて考え直すと、あり得なくもないのかと思う。
 機械的なことではなく、光武はもう寿命が近づいてきているのかも知れない。
 実戦配備した回数、調整も含めた総使用時間、それに実戦での被弾被撃回数といい、どれを見ても尋常ではない使われ方をしている。
 これが並の戦車等だったらとうの昔にお払い箱だっただろう。
 初めて実戦配備された霊子甲冑が、この一年持っただけでも奇跡なのだ。
 それは元設計者の卓越した先見性のためでもあるだろうが、大神が自分たちと共にこの光武達をも守ってくれたような気がして、紅蘭の視界がふっと歪んだ。

 しばらく、歪んだ視界の向こうに自分たちの光武を見渡してみる。
 きっと大神機だけではなく、他の機体も程度の差はあれ同じ様な現象が起こっているはずだった。
 自分たちを守ってくれた、霊子の甲冑、光武。

 コツコツと、足音が鳴るように仕掛けてある階段が音を立てたので、あわてて目元を拭う。
 目が赤くなっているかも知れないが、ここは薄暗いから多分、大丈夫だろう。

「やあ、紅蘭。どうしたんだい?」

 しかし来た人は、よりにもよってその大神と、自分に光武の設計書を渡してくれたあやめだった。 思わず逃げ出したくなってしまうが、それも出来ない話であった。

「……え?あ、大神はんとあやめはんか。こないなとこにどないしたん?」

 どうやら今は二人で帝劇内の掃除を手伝って回っているらしい。
 こんな時まで変わらずに着られているモギリ服には、やっぱり違和感はない。

「紅蘭こそ、こんなところで光武の整備中かい?」

 と言われて、先ほどの超紫外線写真を出しっぱなしだったことに気づいた。
 注意をこちらにそちらに向けてはならない。
 やましいわけでもないのに、ふっとそう思ってしまった。

「そうなんや。光武の今年一年の汚れを落としてきれいにしてあげてんねん」
「俺も手伝うよ。光武の装甲の汚れをとればいいんだね?」
「……そ、そうやね。お願いするわ」
「さすがは花組の隊長ね。光武を大事にする心を忘れないなんて」

 言ってから、もし光武に触ったら気づくのではないかと思ってしまったが、さすがにそれはなかった。
 自分が肉眼で穴のあくほど見てもわからなかったような異常なのだ。
 おそらく試乗しても気づくかどうかだろう。
 だが、その影響はすでに……

 などと考えていたら、大神はてきぱきと準備を整える。
 傍にいたあやめが手伝う隙も無いくらいに。
 モップを構えたその姿はさすが雑用王……などととんでもない称号が頭にふっと思い浮かんだが、今はそれでボケをぶっかます気分にはなれなかった。

「あ、あのな……大神はん。その光武のことなんやけど……」

 ふっと口から漏れそうになって、そこでさらに考え込んでしまった。
 言ってどうなるというのだろう。
 光武は、死天王級の敵との戦いをあと一度か二度経験すれば、おそらく限界を超えてしまう。
 そして、もはや直せるという限界を超えてしまっているのだ。
 異常が起こっている箇所は十や二十ではないだろう。
 やるからにはほぼ最初から新しい機体を作り直さねばならないはずだ。
 だが、紅蘭は霊子甲冑の必要費がどれほどか、ある程度は予想がついていた。
 あやめはそう言ったことについては口を閉ざしていたが、各部品の値段くらいは紅蘭にだってわかる。
 そこから桁数くらいは算出できた。
 黒之巣会がついに全滅して安堵感が広がっている今となっては、光武七体分もの予算はおりるわけがない。
 おそらく、言っても米田やあやめを困らせるだけだ。
 ちょっと出動して魔物退治程度の戦闘なら、自分の整備力でまだまだ持たせることが出来るはず。
 もう黒之巣会が滅んだのだ……大丈夫のはず……。

「光武がどうかしたのかい?」
「う、ううん!何でもあらへんねん」

 訝しむ二人に愛想笑いを見せてなんとかごまかす。
 実際始まってみると、大神のあまりの手際の良さ故に知られる隙も無かった。
 速すぎる。
 海軍士官学校で主席だったのは、剣術と銃だけではないのかもしれない。
 モップで甲板掃除というのは海軍練習生の必須事項なのだが、紅蘭はそれを知っていたわけではない。
 ただ、大神の姿を見ていたらそれ以外の考えが浮かばなかった。
 アッという間という表現を文字通り使いたいくらいの時間で、大神は見事な手並みで終わらせてしまった。

「おおきに、大神はん。ホンマ、助かったわ」
「光武にはお世話になったしね。
 じゃあ、整備の方は紅蘭にまかせるから、よろしく頼むよ。

 よろしく、頼む。
 自分が、なんとかすればいいのだ。
 このあと出てくるかもしれない残党くらいなら。

「大丈夫……やよな……」

 二人を見送ってから、光武に手を当てて呼びかけるように紅蘭は今一度つぶやいた。


*    *    *    *    *


師走二十九日。


 カリカリカリカリカタカタバサッパラパラパラパラカリカリカリカリトントンバッバサッザーッカタカタカタプシューッカリカリカリカリカリトントントンザザザザザリーンリーンカリカリカリ……

 帝劇事務の仕事納めである。
 今月分の支払いと年間総決算を出さなくては行けない。
 公演終了と大掃除を先に持ってきたのは、この仕事量の膨大さにもよる。
 まとめていくと、十月以降は市民が復興にお金をつぎ込んだために一等席の売れ行きがやや落ち込んでいるが、逆に安く見られる立ち見席の売れ行きは上がっている、という帝都の市民経済指標にもなるのだが……
 格闘している当の本人たちにとっては処理すべきデータの羅列でしかない。

 大神と由里とかすみの三人が紙と鉛筆、算盤、それから紅蘭発明の計算機……いつもは彼女が設計に使っているのでこれは爆発しない……で立てる音が一体となり、異様なざわめきとなって事務室からあふれ出す。

「……手伝おうかと思ったけど……」
「こりゃあ、あたいたちじゃ無理だな」

 そっと扉の隙間から覗いたマリアとカンナはため息をついた。
 と、そのとき。

「マリアさんはこれをカツラ屋さんに持っていって領収証!カンナさんは関東照明にこの注文書を持参の上でピンスポ二本!一時間以内!」
『は、はいっ!!』

 いきなり命令された二人は、逆らう気も起きずに直立不動で敬礼させられてすっ飛んでいった。
 さすがはかすみである。
 伊達に帝劇で三番目ではない。

「あ紅蘭来賓用玄関の門松が来ているか見てきて!」
「さくらさんすみれさんこの帝都周辺宛の年賀状の宛名を書いて終わったら中央郵便局!」
「椿お正月限定ブロマイドが刷り上がったそうだから取りに行ってきて!」

 ブロマイド、の単語にのみ僅かに大神が反応を示したが、後はひたすら雑用解決マシーンと化している。
 なお余談ながら、アイリスは昨日の大掃除ではしゃいで力を使いすぎたらしく、疲れてお昼寝中である。
 食事も仕事しながらのおにぎりとお茶で凌ぐこと十時間。

「終わったわぁっっ!!!」

 キラキラと労働の結晶を輝かせつつかすみが耐久レースの終了を継げた瞬間、大神はその場で右腕の筋肉を痙攣させつつ気を失った。
 が悲しいかな、すぐに米田に叩き起こされる。

「さすがに危ねえから三人の家を回って送ってこい」

 七時過ぎとは言え、冬至から僅か数日ではとっぷりと日も暮れている。
 米田がやらずにどこかへ出かけていったのが気にかかるが、確かに仕方がない。
 酷使した両腕と目が悲鳴を上げているが、そこは大神一郎、ぐっと我慢で立ち上がった。

*      *      *

「済みません、大神さん」

 椿は浅草の煎餅店が実家だが、帝都で独り暮らしをしているかすみと由里は明日から少しだが実家に帰ることになっていた。

「はあ……」

 帰る道すがら、かすみは何度となくため息をつく。
 そんなに疲れたんだなあ、と大神が同情しようと思ったら、どうも違うらしい。

「かすみさんは憂鬱ですよねー」

 由里がいつものうわさ話のノリで言い出したので、つい大神は休眠状態になっていた頭を再起動させてしまった。
 知恵熱のせいか偏頭痛がするが、ここはやむを得まい。

「どうしてです?実家に帰るんでしょう?」

 と、これは無邪気に椿。
 彼女は主に売店での棚卸しなどの力仕事が多かったが、精神的には数字の集合体と格闘するよりは性に合っていたらしく、いつもの笑顔を絶やしていない。
 それにつられて由里はいつもの口調で禁断の領域に踏み込んでしまった。

「だってかすみさんの場合は、帰ったら親御さんの用意した大量のお見合い写真……」

 ゾクッッッ!!

 その場に、名状し難い戦慄が走った。
 大神は、三人娘も高い霊力の持ち主たちを集めた帝撃の一員であることを今改めてはっきりと思い知らされていた。

「由里……」

 ただでさえ寒い十二月の大気が、何の感情もこもっていないその声に、凍てつけよと命じられたがごとくに動きを止める。
 椿は先ほどの笑顔を一瞬にして凍結させられ、その場にへたりこんだ。
 同じく身動き出来なくなった由里へ、かすみはそっと手を伸ばす。

 お……俺の責任じゃない……俺の責任じゃないぞ……!

 人間として最低だと自虐しつつも、責任回避を頭の中で図る大神を誰が責められようか。

 ピタッ

 恐怖に満ちた表情を浮かべた……いや凍結させられた由里の頬、顎、そして頚動脈にかけて、かすみのたおやかな指先がすすっとなぞられる。

「あ……あ…………」

 にっこり。

「あなたにも、いずれ、わかるときがくるわよ」

 魂も凍るほど嘘臭い笑顔で、かすみはただそれだけを告げる。
 その直後に由里は、糸の切れた人形さながらにふっと後方に倒れ込んだ。
 凍結の解けた大神は、由里が後頭部を地面に直撃させる寸前にかろうじてのところで支える。

「か……かすみくん」
「大神さん、ここまで送っていただければもう大丈夫ですわ。
 今年一年本当にありがとうございました。それでは、どうかよいお年を」

 かすみは淑女として非の打ち所のない丁寧な態度で一礼した。
 あまりにも、怖いくらい、完璧に。

「あ……ああ、お疲れ様……。よいお年を……」

 た……確かに、大丈夫だろう。
 今の彼女に近づこうなどという命知らず……あ、もとい、不届き者などいようはずもないから。

*      *      *

 ぱたん。

 自宅に戻り、ようやくかすみは戦慄のオーラを解いた。
 食堂で貰ってきた残り物を一人で食べ、一人で新聞を読む。
 帰省の準備は終えてしまっているから、することがない。
 個人用ラジオを買っておけばよかった。

 悲しい。

 自分にだって希望はあるけれど、やっぱり独り占めできる人ではないことがつらかった。

*      *      *

「ごめん、椿ちゃん、手伝ってくれるかい?」
「は、はい……」

 意識のおぼつかない由里をいつまでも抱きかかえていたら、どこからともなくさくらにつねられるかもしれないので、とにかく立ってもらわなくては行けない。

「由里さん、しっかりしてくださいぃ」

 椿がかなり強めに由里の肩を何度も揺さぶるが、

「あ……あはは……」

 由里はかろうじて凍結から解き放たれたものの、ひきつったような笑顔のまま視線を宙にさ迷わせている。
 これは大神も困った。
 相手が海軍士官学校の野郎仲間なら往復ビンタであっさり片がつくところなのだが、女の子にそんな真似は出来ない。

「うーん、だけどこのまんまじゃ動くに動けないぞ」
「大神さん。由里さんを持ち上げることは出来ないんですか?」
「それは……えーと……不可能じゃないんだけど……」

 そこでキョロキョロと何かに怯えるように周囲を伺う大神が何を考えているか、椿はピンと来た。

「わかりました。さくらさんには黙っておきますから安心して下さい」

 あっさりと心中を見抜かれたそのときの大神の表情は……椿は彼の名誉と自分の微かな憧れのために何かに喩えるのは止めておいた。
 いざそうなると、大神は由里を軽々と持ち上げることが出来る。
 やっぱり大神さんってすごいんだなぁ、と思う反面、ちょっと羨ましいなあと思ってしまう椿であった。

 住所とかばんの中の鍵の場所は椿が知っていたので、そのあたりは全部椿にまかせることにした。
 彼女が布団を敷いている間に、由里に水を差し出してみるとなんとか嚥下することが出来、ようやく視線が戻って来た。

「はあ……っ、椿と……大神さん?私、確かかすみさんに……」

 ぐるーっと視線を見渡して、どうやら状況を把握しようとしているらしい。
 ややあって。

「うん、これは年明け早々にも大ニュースに出来るわ。
 大神さん、帝劇女子職員の一人部屋に入る!きっと大騒ぎになるわよ」
「頼むからやめてくれええええぇぇぇっっっっっっっ!!!」

 噂好きの割りに自分のことには無頓着な由里について、椿はよくかすみからぼやきを聞かされていたが、噂話のためならまるで自分の立場など厭わないその心意気を尊敬していいのか呆れていいのか悩むところである。

「由里さん、大神さんは……わざわざ助けてくれたんですよ。止めて下さい」

 間が合ったのは、あやうく「運んでくれた」と言いそうになったのを直前ですり替えたのである。
 その言葉の危険性を考えれば、称賛に値する判断であろう。
 非常に残念そうな目ながら、何とか由里は納得してくれた。

「まあ、うちの両親には報告しますからね」
「それもやめてくれええぇぇっっ!!」

*     *     *

「大神さん、お疲れ様でした」
「ありがとう、椿ちゃん……」

 胃が痛くてふらふらして来た大神である。
 夜、女性を守って送って行くにはもう少ししゃきっとした方がいいのだろうが、さすがに気力を使い果たしていた。
 つくづく、黒之巣会が滅んでいてよかったと思う。
 こんなときに魔物が出現したら洒落にならない。

「でも今年一年、本当に椿ちゃんにはお世話になったね。
 ブロマイドとか……おせんべいとか……」
「それだけですか?」

 嬉しい反面、大神が一番喜んでくれたのが食糧難時代におせんべいを上げたときだったように思うので、椿としてはいささか複雑な心境である。

「あ、いや、他にもいろいろ……」
「まあ、そういうことにしておいてあげます」

 最後に二人きりになって、少しくらいロマンチックな言葉を言ってくれないかなあと思ったのだけれど、大神のこの様子では無理のようだ。

 しょうがないか。
 だから大神さんなんだもんね。

 高村煎餅店で椿の両親に感謝されて、ようやく帰った大神はすぐに眠りに……つけるわけもなく、例によって一時間の見回りが待っていた。


*    *    *    *    *


師走三十日。

 大神、倒れる。
 花組、競って看病する。
 大神、もっと疲れる。

 以上、特に変わったことのない一日であった。



*    *    *    *    *


大晦日。


 年越し蕎麦を食べ終えて、なんとなくみんな集まったサロン備えつけのラジオでは、年末番組をやっている。
 新聞では昔からあった企画だが、今年からはラジオで年の変わり目を実感するのが当たり前になって行くだろうと、アナウンサーの長曽我部が解説していた。
 続いて、今年の大ニュース、なんて企画が始まった。
 一位はやっぱり、六破星降魔陣による帝都大被害で、二位が黒之巣会の出現であった。
 次いで三位がようやく明るいニュースで、ラジオ放送の開始、帝都タワーの完成と続く。
 悪の組織としては面目躍如かもしれない。
 大神はふと、支持者たちのリーダーであった東条が、今どんな気持ちでラジオを聞いているのだろうかと思った。
 大川晴明は既に牢屋の中なのでラジオは聞いていないだろう。

「大神さん、お茶をどうぞ」

 一昨日のことは聞いていないらしく、さくらがにこやかに茶碗を差し出してくれたので、色々な意味でほっと息をつく。

「でも本当に、いろんなことがあった一年だったね」
「そうですわね。やはりわたくしと少尉が会ったことが一番の出来事でしょうか」
「それは、すみれさんだけじゃないでしょう」
「あら、さくらさんいらっしゃいましたの」

 さくらの出したお茶をあえてつつーっと飲みながらなので、この科白はもちろん冗談である。
 いつもなら口論に発展するところだろうが、さすがに年の瀬ということで二人はここで引いた。

「ま、本当にいろんなことがあったよなあ」

 カンナにとっては、父の仇との決着がついたことが大きい。
 それはかつて意図していたものとは違っていたが、カンナはその結果に満足していた。

「そうね……」

 マリアには、心の中の出来事が一番大きいのかもしれない。
 コートの中にあるロケットにそっと触れて、それを確かめる。

「じゃ、そろそろこいつの出番やな。うちの新発明年末限定品、鐘つきくんや」

 瞬時にして五人は座っていた場所から退避する。

「……、安心しいや。これはゼンマイ仕掛けや」

 心外やな、とぶつぶつ言いながら、紅蘭は人形のゼンマイをくるくると巻き始める。
 彼女にとっては、光武の完成か、自分が帝劇に来たことか、少し判断が難しい。

「くー」

 先ほどの警報にも動かなかったと思ったら、アイリスはもう寝ている。
 無理もない、ラジオからは除夜の鐘の一つ目が鳴り始めた。
 窓の外でも遠くから聞こえ始めて来ている。
 彼女にとっては、帝劇がこうやって安心出来る場所になったことか……

 いや、おそらく全員が、すみれと同じ意見を考えなくてはならないだろう。
 その当の対象は、年初に予想していた任務と大分違う任務の年となった。
 時折……もしかするとかなり頻繁にそれを後悔しているような気もするが、ここに来れて、みんなに会えてよかったと思う。
 かけがえのない仲間達であり……そして……。
 様々な感慨を込めて、大神は口を開いた。

「来年も……」
『来年も、よい年でありますように』

 唱和する声に、十幾つ目かの鐘の音が重なった。

*      *      *

 あやめは、扉二つ隔てたサロンから笑い声が聞こえてくるのにそっと微笑みながら日記をつけていた。
 本当に色々なことがあった年だった。
 こんなにもたくさんのことがあった年は……

 見なくてもわかるけど、やはり直に日記帳を引き出したから取り出してみる。
 記憶力にはかなり自信があるけれど、それは起こった事実に対する記憶だ。
 そのときどんな思いでいたかをはっきりと記憶しておくのは難しい。
 だからあやめは、よほど忙しいとき以外は日記を付けることにしている。
 未来の自分に呼びかけるように。
 いや……ここにいて欲しいのにいてくれない人へ、呼びかけ続けるように。

 やっぱり。
 こんな年は、六年ぶり。
 ……六年ぶり。

 そこで、机の上の写真を見つめる。
 日記とともに、あのときの時間を留めているものがここに。
 こんな風には笑えないと思わせる自分の姿と、その隣りに……。

 どこかで……会ったような気がする。
 会えたような気がする。
 どうして……?
 どこで……?

 除夜の鐘は、二十幾つ目だろう。

*      *      *

 相変わらず一升瓶が手元である。
 米田が眺めているものは、やはり写真だった。

「一馬……。まあ、今年一年、凌ぎきったぜ」

 正直、ここまでやれるとは思っていなかったが、本当にあいつはよくやってくれた。
 もう一度あの光景を見ることなく、今年の年末を迎えることが出来たのだから。

「まだ、俺自身もお前の所に行くには早ええらしい。
 済まんが、もうしばらく一人で待っててくれや……」

 一人で、だ。
 二人で、ではない。
 死んでいるはずがない。
 きっと、生きている。
 写真の左端にいる青年の、天然記念物のような笑顔を眺めつつ、米田は思う。

 除夜の鐘は、多分これが三十三つめ。

*      *      *

 百八の煩悩を払うという除夜の鐘。
 これで、四十四つめ。
 そろそろ始めようか。

 ほぼ実体化を終えた三体の上級降魔を引き連れて、彼は扉の前に立った。
 あれとは比べるべくもない。
 当たり前だ。
 込められた想いの強さが決定的に違う。
 だが、尖兵には使えるだろう。
 改めて、扉に向き直る。
 扉と言うよりは、門と呼んだ方が適切かも知れない。

 黒之巣会の活動で今年一年帝都にたまった負の感情や霊力が除夜の鐘で払われる。
 だが、浄化すべき機構は既に機能していないのだ。
 天空に消えゆくはずのそれを今、ここに集約する。
 かつて彼も封印に携わった門だ。
 今なら開けることもそう難しくない。

 あれとは……?
 かつて……?
 ……いつだ?

 だが、その意識もすぐに消える。
 五十、五十一、五十二、五十三……
 年が、変わる。

 六十……、七十……、八十……、九十……、百……、
 百五、百六、百七、百八……!

 終わりだ。
 そして、始まりだ……!

 かつてあれだけの戦いの中で米田が守り通した門が、ついに、開く。

「フ……フフフフフ……」

 膨大な妖力が門から流れ込んでくる。
 上級降魔たちの瞳に光が宿り、同時に門の向こうから姿を現したものたちがある。
 それは……

「フフ……ハハハハハハ!!」





太正十三年元旦。






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